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『映画批評MIRAGE 第2号』



『映画批評MIRAGE』は、映画批評の雑誌であり、あるいは映画批評のための雑誌です。
映画批評の雑誌ということで、ざっくばらんに言ってしまえば、「映画について書く」ことを主眼として成り立つ雑誌であるとひとまず断定することができるでしょう。しかし、そうしたオーソドックスな断定が断定として機能する地盤そのものが不確かになっているという現状が困難さを伴うものとしてあることを我々はまず再確認しなければなりません。
「映画について書くこと」がもはや簡潔明瞭で自明のものではないという状況、そこにはいわゆる現代的とも言える大きな問題が横たわっています。
そもそも我々は映画というものを規定する術を持ち得ていない時代の地平に投げ出されているといっても過言ではありません。ある一つの映画を見るという行為は、映画館で見る、TVで見る、DVDで見る、インターネットで見る……等にわたって多様化し、その形式性を厳密に問うことがもはやそれほどの効力を持たなくなっています。すなわち全てが映像(Visual)という一義的な意味合いに還元可能な、極度に均質化された時代に我々は生きているという認識を前にした時、我々が向き合っている映像とは従来の映画として規定しえるものなのか?という言葉を口にせずにはいられません。
「映画について書くこと」の不確かさとは、そうした書く対象である映画それ自体の形式的な不確かさと言っても過言ではありません。その不確かさゆえに、はたして我々は映画をかつてと同じ映画として「見た」のだと自信を持って言えるのかどうか。そして「見た」対象が漠然としたまま「映画について書くこと」はこれまでのようにアプリオリとして実践できるのか。
しかし、取り急ぎ我々が主張すべきと考えているのは、映画とは映画館で不特定多数によってスクリーンに映写されたフィルムを共有するものである、というような形式の原理性とそれに伴う確実性を今一度顕揚し保護することではありません。むろん、それも映画体験の流動性を憂い、かつて大衆娯楽文化の雄であった「映画」を取り戻すという意味では必要的行為としてあるでしょう。しかし、それよりもまず「見る」立場である我々が、もはや形式的枠組みを超えて液状化しつつある映画に対して向き合うためのリテラシーを身につけることです。それは、すべからく批評性(Critical)という言葉を我々が改めて問いなおすことへと辿り着くことになるでしょう。批評性という言葉においては「見る」ことと「書く」ことは同義であり、言い換えれば、「見る」ことと「書く」ことには等しく批評性が伴わなければならないのです。今一度、映画を前にして我々が語るべき、あるいは語り得なかった言葉を紡ぎだすことの意義を振り返ること。映画批評はようやくそこから始まるのです。
『映画批評MIRAGE』が目的とするのは、「映画について見ること=映画について書くこと」への実践と思索を行うための空間の構築と提供です。そこでは全てが思考錯誤の反復であり、不断の継続となるでしょう。映画(批評)とはいかにあるべきかという「真理」を安易に求めるがあまりに硬直化するのではなく、常に書き手と読み手に向かって開かれた柔軟な姿勢こそが、映画と我々の関係をもよりいっそう明確なものにするのです。
第2号では、特集「反=映画」で「反抗こそが映画である」という定義をもって、北野武、ペドロ・コスタ、王兵、ゼロ年代映画についての批評を掲載。他に『アブラクサスの祭』監督の加藤直輝氏、フィルムセンター研究員岡田秀則氏のロングインタビュー、エッセイ、分析、論考を収録しています。

MIRAGE編集発行人 藤原遼太郎



映画批評MIRAGE 第2号

[2011年2月/A5/106頁/¥300] 特集=反=映画 発行=MIRAGE編集部

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