2011年4月アーカイブ

『同和と在日』〜示現舎より



示現舎は2010年6月にひたすら同和ネタを収集するアングラなジャーナリスト鳥取ループと、政治からサブカルまで幅広く扱うルポライター三品純により発足した出版社である。毎月「同和と在日」という電子雑誌を発刊して、その名のとおり同和と在日にからむマスコミが触れたがらない話題を現地取材と行政文書を通して徹底取材してきた。本書はその総集編のリアル書籍版である。

環境・防災担当大臣という今まさに重要なポストにあるはずなのに、その人柄を全くと言っていいほどマスコミが触れない部落解放同盟副委員長・松本龍氏を採り上げる。さらに、同和地区住民を対象とした固定資産税減免を実際に申請してみたり、「部落出身」をカミングアウトした猿回し芸人、村崎太郎氏の実家を訪れてみたりと、少し過激な取材も試みている。同和というと関西というイメージがあるが、関東の読者にも身近に感じてもらえるよう、横須賀の同和住宅も取材した。そこで目にするのは、マスコミが作り上げてきた空想上の同和と在日ではなく、とても人間臭いリアルな同和と在日である。

はっきり言って、取材には大変な手間がかかっている。関東からはるばる中国地方や九州に出向いて、取材先で罵倒されて帰ってくることもある。その一方で、同和問題の現場は綺麗事だけではないことを知って欲しいと、進んで取材に協力していただけることもある。その苦労の甲斐があって、我ながら読み応えのある本ができたと自負している。今後も「同和と在日」に限らず「同和と在日的なるもの」を取材していきたい。

なぜ示現舎を発足させたか、その動機は「同和と在日」に向けられたものというより、メディアの現状への批判精神である。

「ジャーナリズム」がどんなものかは知らない。だが少なくともアジテーションであってはならないはずだ。ところが昨今のメディアを見るに、政治スタンスを問わずジャーナリストという方々が美しいこと、勇ましいこと、カッコいいことを声高にアジる。むしろジャーナリズムが「アジ演説」の類になってはいないか。こんな疑問を感じている。

「反権力」がどんなものかは知らない。この反権力という言葉を発する人は自民党、官僚、経団連、これらに対しての批判は鮮烈だ。他方、彼らの「反権力」や「批判精神」は特定の団体、民族、国家に向けられることはない。

ことに「同和と在日」このキーワードが関わるとき「ジャーナリズムと反権力」は機能停止に陥りがちだ。

残念ながら我々、示現舎の報道には「勇ましいアジテーション」も「美しい人権賛美」もない。ここにあるのは「人権」というキーワードに裏打ちされる暗部とファクトのみである。

もしかしたら我々の取り組みを弱者の「排除の論理」や「排外主義」と批判する人もいるかもしれない。だがそうだろうか。むしろ「同和と在日」に関わるファクトが「示現舎」という形でしか報じられない状況こそ、「排除」や「排外」と考える。むしろ示現舎こそが真の「ジャーナリズムと反権力」の実践者であると自負している。

残念ながら我々の取り組みは今世においては評価されることはないだろう。だが何十年後、何百年後かは知らない。必ずや後世の人々によって再評価されることを信じている。

同和と在日 さらばテンプレート記事 さらばなんちゃってジャーナリズム

[2011年4月/B6/152頁/¥1,200+60] 著=鳥取ループ・三品純 発行=示現舎

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以前の記事でパキスタンにおけるイスラーム神秘主義に関係する音楽を多少なりとも概論的に紹介して来た。今回はもう少し踏み込んで、インド・パキスタンにおける伝統的なイスラーム神秘主義音楽伝統の一つ、カウワーリーについて考察を加えてみたいと思う。
古くは13世紀に起源を持つとされるこの音楽伝統は、カウワールと呼ばれる職能の演奏家集団によって今日まで歌い、継承され続けてきた。カウワーリーは、その詩の内容によってジャンル分けされており、神アッラーを讃える内容のものはハムド、預言者ムハンマドへの賛歌はナアト、スーフィー聖者への賛歌はマンカバトと呼ばれている。本来、偶像崇拝が固く禁止されており、神アッラー以外を褒め称える内容の歌があることはそれだけでも奇妙に思われることであるが、スーフィー聖者を尊崇することは様々な地域において民衆レベルで見られる現象であり、ワリー〈神に近しき者〉とも呼ばれるスーフィー聖者を崇拝することにより、神の愛の探求者である彼らの持つカラムkaram(神からの恩恵)に服し、間接的に神の恩寵に与ることを願うのである。そのため、多くの人々は聖者たちの持つ神秘的な力の、文字通りの「ご利益」を得るために、スーフィーたちの元へ集まり、彼らの死後も聖者廟を建て彼らを祭ることによって、次第に「聖者崇拝/聖者信仰」の伝統が確立していくのである。

インド・パキスタンのパンジャーブという地域はその地理的な条件から数多くの偉大な神秘思想家や神秘主義詩人、すなわちスーフィーたちを生み出した。アラブやペルシアのスーフィーたちも巡礼や遊行の果てにインドの地にまで足を伸ばし、彼らの思想はそれまでのインド独自の思想に新たな光を投じるとともに、逆にインドの思想をも貪欲に取り込んでいった。

oar.jpgパンジャーブを代表する偉大なスーフィー詩人をここでいくつか紹介する。
まず、はじめに名前が挙がるのが、シャー・フセインShah Husain(1539-1599)というスーフィー詩人である。バラモンのマードー・ラールMadho Lalという美少年を愛でていたため、マードー・ラール・フセインとも呼ばれる聖者である。ムガル皇帝フマーユーンの時代に生まれた彼は10歳でイスラーム教の聖典クルアーンを暗記し、若い頃からその傑出した知性を発揮していた。シャー・フセインはカーフィーkafiと呼ばれる形式の韻律を持つ短い叙情詩を数多く残した。





rabba mere hal da mahram tun
andar tun hain bahir tun hain rum rum wich tun
tun hain tana tun hain bana subh kujh mera tun
kahe Husain faqir nimana main nahin subh tun
神よ あなたは我が心境を知るお方
あなたは我が裡にも外にもおわします 小さな毛の一本一本にもあなたが
あなたは縦糸 あなたは緯糸 わたしのすべてはあなた
身卑しきファキール〈貧者〉フセインは申します わたしはなく すべてはあなた

この詩について少し解説を加えると、ハールhalという言葉はふつう、「状態」などの意味で使われるアラビア語であるが、スーフィー詩の文脈においては「悟りの状態」を意味する述語としてしばしば使用される言葉である。スーフィーたちは内面的・精神的修行を大変重要視しており、恐らくキリスト教異端のグノーティス〈神の霊的認知〉の思想を強く受け、内在神(人間の内面には元々神が内在している)を強く探求している。「縦糸」「緯糸」という表現は、恐らくシャー・フセインが下級の機織の家庭の出自であるということもあり、身近な光景からの描写を詩の中に織り込んだものと考えられる。縦糸と緯糸を重ねて折り合わせることで全世界を表しており、すなわちこの世界のすべては神によって成り立ち、創られているということを表現している。ファキールfaqirとはアラビア語で「貧者」を意味する言葉であるが、禁欲的で粗衣を身に纏った姿があたかも貧者のように見えるという意味からスーフィーを指す言葉としてもよく使われる。この詩でシャー・フセインは、すべては神によるものであり、自分自身すらも投げ出してすべての愛を神の前に無条件に投げ出している。そもそもイシュケ・ハキーキーishq-e haqiqi(真実の愛)は無条件であり、何らかの見返りを求めぬ純粋な動機による「愛」のことである。世俗的な欲求・欲望をすべて捨て去り、ただ純粋に神を愛する者だけが、真実の愛、つまり神の恩寵と無限なる至高の愛に浸ることが許されるのである。

カウワールたちはこういったスーフィー詩人たちの詩作を代々歌い継ぎ、現在にまで伝えたという意味で非常に重要な役割を果たしたのである。

(文責:音楽雑誌Oar編集長 野上郁哉)



『映画批評MIRAGE 第2号』



『映画批評MIRAGE』は、映画批評の雑誌であり、あるいは映画批評のための雑誌です。
映画批評の雑誌ということで、ざっくばらんに言ってしまえば、「映画について書く」ことを主眼として成り立つ雑誌であるとひとまず断定することができるでしょう。しかし、そうしたオーソドックスな断定が断定として機能する地盤そのものが不確かになっているという現状が困難さを伴うものとしてあることを我々はまず再確認しなければなりません。
「映画について書くこと」がもはや簡潔明瞭で自明のものではないという状況、そこにはいわゆる現代的とも言える大きな問題が横たわっています。
そもそも我々は映画というものを規定する術を持ち得ていない時代の地平に投げ出されているといっても過言ではありません。ある一つの映画を見るという行為は、映画館で見る、TVで見る、DVDで見る、インターネットで見る……等にわたって多様化し、その形式性を厳密に問うことがもはやそれほどの効力を持たなくなっています。すなわち全てが映像(Visual)という一義的な意味合いに還元可能な、極度に均質化された時代に我々は生きているという認識を前にした時、我々が向き合っている映像とは従来の映画として規定しえるものなのか?という言葉を口にせずにはいられません。
「映画について書くこと」の不確かさとは、そうした書く対象である映画それ自体の形式的な不確かさと言っても過言ではありません。その不確かさゆえに、はたして我々は映画をかつてと同じ映画として「見た」のだと自信を持って言えるのかどうか。そして「見た」対象が漠然としたまま「映画について書くこと」はこれまでのようにアプリオリとして実践できるのか。
しかし、取り急ぎ我々が主張すべきと考えているのは、映画とは映画館で不特定多数によってスクリーンに映写されたフィルムを共有するものである、というような形式の原理性とそれに伴う確実性を今一度顕揚し保護することではありません。むろん、それも映画体験の流動性を憂い、かつて大衆娯楽文化の雄であった「映画」を取り戻すという意味では必要的行為としてあるでしょう。しかし、それよりもまず「見る」立場である我々が、もはや形式的枠組みを超えて液状化しつつある映画に対して向き合うためのリテラシーを身につけることです。それは、すべからく批評性(Critical)という言葉を我々が改めて問いなおすことへと辿り着くことになるでしょう。批評性という言葉においては「見る」ことと「書く」ことは同義であり、言い換えれば、「見る」ことと「書く」ことには等しく批評性が伴わなければならないのです。今一度、映画を前にして我々が語るべき、あるいは語り得なかった言葉を紡ぎだすことの意義を振り返ること。映画批評はようやくそこから始まるのです。
『映画批評MIRAGE』が目的とするのは、「映画について見ること=映画について書くこと」への実践と思索を行うための空間の構築と提供です。そこでは全てが思考錯誤の反復であり、不断の継続となるでしょう。映画(批評)とはいかにあるべきかという「真理」を安易に求めるがあまりに硬直化するのではなく、常に書き手と読み手に向かって開かれた柔軟な姿勢こそが、映画と我々の関係をもよりいっそう明確なものにするのです。
第2号では、特集「反=映画」で「反抗こそが映画である」という定義をもって、北野武、ペドロ・コスタ、王兵、ゼロ年代映画についての批評を掲載。他に『アブラクサスの祭』監督の加藤直輝氏、フィルムセンター研究員岡田秀則氏のロングインタビュー、エッセイ、分析、論考を収録しています。

MIRAGE編集発行人 藤原遼太郎



映画批評MIRAGE 第2号

[2011年2月/A5/106頁/¥300] 特集=反=映画 発行=MIRAGE編集部

ストップ・ザ・もんじゅ



4月16日、「原発いらん!関西行動」と銘打って、反原発関西8団体の呼びかけで、大阪市内の目抜き通り御堂筋を3500人でデモしました。

 呼びかけ:ストップ・ザ・もんじゅ、ノーニュークス・アジアフォーラム・ジャパン、 美浜・大飯・高浜原発に反対する大阪の会、グリーン・アクション、若狭連帯行動ネットワーク、チェルノブイリ・ヒバクシャ救援関西、原発を知る滋賀連絡会、奈良脱原発ネットワーク

 何しろ急ごしらえで、ネットの告知だけが頼り。初めての試みで本当に人が来てくれるのか不安と期待でドキドキでしたが、半月の告知期間で、それでもデモ当日、googleの検索は26万件をヒット。ブログやtwitterで広めて下さった皆さんに感謝、感謝、感謝です。そして蓋を開けたら大勢の人たちが集まってくれました。中之島公園の女神像エリアは人でうまり、歩道にも大勢の人があふれていました。(youtube「原発いらん!関西行動」)


demo02.jpg久方ぶりに会った人たちも何人もいましたが、「生まれて初めてデモします」という人たちが圧倒的に多かったと思います。何より小さな子連れできてくれた若いご夫婦やお母さん達の姿もたくさんあって、なんだかうれしくなりました。老若男女が思い思いのプラカード、Tシャツへの書き込み、手作りのゼッケンやかぶり物、ビニル傘のデコレ、そしてブブゼラ、太鼓の鳴り物多数、ギターを抱えた人、自転車を押してる人、路側でパフォーマンスをしている人、実に多彩でした。
 中之島を南下、本町を過ぎて心斎橋界隈に入るとかなりの人出で、デモの最後尾には次々と若い人が入ってくれてたようです。デモコースは4キロの長丁場でしたが、かなりの人たちが最後まで行進してくれたように思います。久々に距離を感じさせない充実感のあるデモでした。
 難波に近い交差点の一角(歩道)に右翼の一団が待ち構えていて、「電気を使うな」だの「ろうそくで暮らせ」だの罵声を浴びせかけてきました。京都で在日の皆さんに悪質な嫌がらせを繰り返している「在特会(在日の特権を許さない市民の会)」という連中だと、デモ参加者から指摘がありました。唾棄すべき輩です。
 俳優の山○太○さんがウルトラマンのお面をかぶって、ウルトラ兄弟(皆さんお面をかぶったお仲間)とともに最後までデモに加わってくれました。終始、シュプレヒコールをあげ、場を盛り上げ、「『仕事を干される覚悟で 』という 熱い思いが伝わってきた」と、同じブロックにいた人が感激してました。 ーストップ・ザ・もんじゅ 大島茂士朗
demo01.jpg










「ストップ・ザ・もんじゅ」  パンフレット

危険のかたまり 高速増殖炉「もんじゅ」

[2008年1月/B5/20頁/¥200] 発行=ストップ・ザ・もんじゅ

世界の高速増殖炉の事故と現状

[2008年12月/B5/20頁/¥200] 著=小林圭二 発行=ストップ・ザ・もんじゅ

究極の無駄 高速増殖炉開発

[2007年12月/B5/12頁/¥200] 発行=ストップ・ザ・もんじゅ

超危険で無駄なもんじゅを廃炉に 豊かな実りとすべての命を守るために

[2011年1月/B5/12頁/¥100] 発行=ストップ・ザ・もんじゅ

高速増殖炉と軽水炉 どこがちがうの?ムリがたたって危険がいっぱい

[2008年11月/A5/20頁/¥200] 著=小林圭二 発行=ストップ・ザ・もんじゅ

〈DVD〉山のかなた

[2009年6月/76分/¥2,800] 著=小林圭二 制作=ストップ・ザ・もんじゅ 脚本・監督=池島芙紀子 音楽=坂本龍一 








「恋と童貞 第2号』ついに完成!



“乙女心より純情なドウテイ心をむやみに探求する雑誌”
「恋と童貞 第2号」ついに完成!

 まずは、幣紙 1号をお買い上げ、お読みいただいた方々にお礼を申し上げます。

 さて、ついに、待ちに待った(誰が?)「恋と童貞 第2号」が完成しました。
 2010月8月に1号を発売して以来、「今年の冬に2号出ます」と言い、冬には「新年には出ます」、明くる2011年1月には「3月に出ます」、そして3月には「4月には」と、もはや「これは『出す出す詐欺』という、新手の詐欺を確立したのではないか?」と編集部員すら感じていたほどだったので、1号をお買い上げいただき、2号にも期待していたであろう読者の方々(いるの!?)には、深く深く頭を下げる次第です。

 この2号は、大変長い時間をかけてゆっくりゆっくり作ってきただけあって、自信の1冊となっております。
 新たな童て…いや、書き手を3人加え、1号より約40ページ増とボリュームを大幅に増やし、それに伴って、版形がB5からA5へとリニューアルを行いました。
 特集1は、「こんな乙女に恋しい!」と題し、童貞どもが、自分の理想とする“乙女”を絵と文字にして持ち寄り、「どの乙女が童貞にとって最高の乙女なのか」を競うという、これぞ「ザ・童貞」の名にふさわしい企画を行いました。
 ほかにも、歌人・佐々木あらら氏の主催する「冷えピタ女子」という謎のイベントを取材したり、童貞が無謀にも逆チョコをもらおうと目論んだり…と、バカでバカでひたすらバカな童貞どもが己の欲求を文字に換え、精魂込めて作っております。「童貞基金」に募金するつもりで、どうかどうかお買い上げくださいませ。
 また、
 Twitter:@koi_dou
 Amebaブログ:http://ameblo.jp/koi-dou/
では、幣紙編集長がぶつぶつと、世間のよしなしごとや、最新の童貞情報(!?)をつぶやいております。よろしければこちらもご覧ください。 (「恋と童貞」編集部 )

●恋と童貞 第二号 乙女心より純情なドウテイ心をむやみに探究する雑誌

[2011年3月/A5/100頁/¥500] 特集=こんな乙女に恋したい! 編/発=恋と童貞編集部

●恋と童貞 第一号 乙女心より純情なドウテイ心をむやみに探究する雑誌

[2010年8月/B5/56頁/¥367] 特集=男子諸君!恋文を書こうではないか。 編/発=恋と童貞編集部





『ウメウメ書評』と銘打っているわりにはまったくウメておりません。前回ウメてから1年以上が経過しております。年度末で予算を使い切るためだけにする道路工事のごとく、とにかくウメろ!…ウメたって「乗数効果」なんてないんだよ!?ということで福祉国家のオルタとして注目を浴びてきたベーシックインカム論もまた再考を余儀なくされ…というはなしはそのうちできたらするつもり。
(追記:書店のブログなのでタイトルに書名をいれました。―11.4.26)


 「鉄腕アトム」は原子力モーターによって100万馬力を発揮し、その頭脳は電子計算機であり、宇宙空間にだって飛んでいく―この時代、原子力、コンピューター、宇宙開発は子ども向け読み物、漫画、アニメなどの三大囃子であり、登場する科学者のモデルは日本初のノーベル賞受賞者湯川博士であり、アインシュタイン博士であった。
 
 1895年レントゲン博士によるX線の発見以来、放射線・原子物理学の研究は進み、広島長崎に実戦で使用されたのが1945年だから放射線研究の創成期から原子力の実用までだいたい40年ぐらいかかっていることになる。コンピューターの開発はほぼ原爆と同時期に進められ、ノイマン型コンピュータでおなじみの天才・フォン=ノイマンは「マンハッタン計画」にも参加している。

 現在から振り返れば、コンピューターの発達は当時の空想科学読み物の想像を遥かに凌駕している。 i-podなどの携帯端末ですらアポロ計画時代のコンピュータ(ファミコン以下だったそう)など問題にならないくらいの性能なのだ。原子力はどうかというと、水素爆弾、中性子爆弾など、原子力爆弾以上の核兵器は開発される。1950年代には原子力の平和利用が喧伝されたりしたけれども、結局のところ、核兵器以上の「発明」はなされていないのではないか? 「原子力発電所」は「原子力」で動いている、というと、なんだかスゴイことをやっているようだが、結局ぐつぐつお湯を沸かし、タービンをまわして発電しているにすぎない。原子力でお湯を沸かし、発電し始めた当時においてはバラ色の未来が約束されているハズで、核廃棄物を無害化できる技術も確立され、人類の夢である「永久機関」さえ実現している予定だったのだが、現実はご存知の通りである。三人どころか、総掛かりでも人類はなお「もんじゅ様」におよばない。かつてライバルであったコンピュータに大きく水をあけられてしまった。

 科学技術の進歩は日常を大きく様変わりさせる。電線に弁当を結びつけたり、テレビの中に小人が居たりと、新たな技術は常に好奇心と畏怖の対象であった。最先端の科学であると同時に人類を滅亡させかねない脅威でもある―プロメテウスの火!―原子力は多くの空想科学読み物の格好のテーマであった。鉄腕アトムは原子力、マジンガーZが光子力、蒸気機関とかディーゼルエンジンとか電気なんかとか比較にならないぐらい高度な科学力で動くんだよ!?と子どもたちをだまし、いな、夢を与えていたわけである。おとなだまし?としてはキューブリックの映画に描かれるマッドサイエンティストなんかがある。
 
が、悲しいかな、原子力はもうとっくに前時代のテクノロジーとなってしまっている。現在のパソコンの原型となったIBM PC/AT互換機が1984年、スリーマイル島原子力発電所事故が1979年、たぶんこの時期に原子力は「最先端」の座を滑り落ちている。エネルギー政策の「最先端」は「スマートグリッド」(ここでもインターネット!)と接合された「風力」であったり「太陽光」であったりする。古いものが一周遅れで「最先端」だったりするのが世の習い、アメリカで原子力発電が再度推進されているのは「最先端」だからではなく、リバイバルにすぎないのである。大学でも原子物理学部門は理系の秀才どもを捕獲するのに苦労しているらしい。にもかかわらず、莫大な研究費が助成されている、という問題については後日かく、かも?。
 
想像してみよう、鉄腕アトムの原子炉がお湯を沸かし、その蒸気でタービンをまわし、発電しているさまを!アトムの胎内では水が循環し、蒸気を放出しているのだ!!これでは「機関車やえもん」ではないか!?そう、まさしくやえもんなのだ!やえもんは「石炭食っておいしいか!」とディーゼル車に愚弄され、あげく、そのまき散らす火の粉で火災を起こしてしまうのだ。核廃棄物をまき散らすアトムは「核燃料棒くっておいしいか!」と侮辱され汚辱にまみれなければならない…。やえもんはスクラップ寸前で交通博物館で余生を送るという幸運に恵まれたが、アトムの運命や如何に?

 原子力はかつてのそしていまある技術革新―鉄道や自動車、電話、インターネットなど―のように目に見える形では人々の生活を変容させたわけではない。かつての空想科学読み物が想像したように原子力自動車は走っていいないけれども、原子力、というよりその最大の成果である核兵器は「冷戦」という政治的効果をもたらした(カールシュミットは陸、海に続く「第三のエレメント」を「空」と想定していたようだ)。いな、「冷戦」というマクロな政治のみならず、日常的な『空間』そのものを変容させたのである。

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「原子力都市」はひとつの仮説である。「原子力都市」は、「鉄の時代」の次にあらわれる「原子の時代」の都市である。「原子力都市」は輪郭を持たない。「原子力都市」にここやあそこはなく、どこもかしこもすべて「原子力都市」である。それは、土地がもつ空間的制約を超えて海のようにとりとめとなく広がる都市である。―『原子力都市』より
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 繰り返すが、原子力はもはや遅れたテクノロジーでしかない。原子力にはかつて誇示していた空間を再配分する「政治力」も失われ、空想科学読み物のネタとしても、インターネットをはじめとするコンピュター、遺伝子工学、などなどに取って代わられてしまった(『ブレードランナー』公開が1982年『マトリクス』公開は1999年である。最近では評伝ものだが『ソーシャル・ネットワーク』)。エネルギー政策の都合によって多くの村がダムの底に沈み、島が「軍艦」となった。そして産業構造の転換によって多くが「廃墟」となり、打ち捨てられ、野ざらしにされ、マニアの愛玩物に成り果てている。原子力発電所は凡百の「廃墟」ではない。何百年と管理され、訪れるものすらもない(というかできない)「廃墟」になるのだ。(模索舎:ひ。)

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◆原子力都市

よく知られているように、放射性物質による汚染は、原子力発電所や高速増殖炉や再処理工場の敷地を越えていく。…危機にさらされているのは現在だけではない。未来の、原子力産業に何の責任もなく、原子力産業から何の利益も受けないだろう人々が放射性物質による健康被害に脅かされるのである。これがか原子力の開拓した新しい地平である。原子力都市は、空間と時間を平滑にすることで、拡張された新たな意識と実践を惹起するのである。(本文より抜粋)

[2010年3月/四六判/192頁/¥1,600+80] 著= 矢部 史郎 発行=以文社

◆廃墟という名の産業遺産

[2008年7月/A5/208頁/¥2,400+120] 編=伊藤将之/堀田匡崇/大畑沙織 監=酒井竜次 発行=インディヴィジョン

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