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ウメウメ書評 小熊英二『1968』



「普通に美味しい」という言い回しがある。「普通」なのか「美味しい」のかはっきりしろ、と言いたくなる(中野重治調ー出典は忘れたのですが、「思う次第 であります」といった「主体」を放擲したいい廻しは東条や近衛の国会答弁が起源である、と指摘しています。まさに「臣民」的発話主体!)。ようするに、「あ る意味、美味しい」とか「これはこれで”アリ”だよね?」とか「こういうのが好きな人にとっては美味しいんじゃない?」とか、そういう留保やエクスキュー ズ無しに「美味しい」のだが、かといって「ものすごく美味しい」というほどではない、そういう諸条件が重なると「普通に美味しい」というフレーズが産出されていくわけです。で、「不味い」場合は「微〜妙」と言ったりする。かような言い回しをしなければならないほど他人の意見や嗜好(とりわけ味覚など客観 的な評価がし難いもの)を批判したり、対立したりすることに気を使い、神経をする減らしているわけです。

 他人の意見を尊重する、というか無関心であるべき、というリベラリズム、個人間の価値観は比較不可能という価値相対主義、こうした方法論的個人主義を前提に個々人の効用が測定され集計される。
市場経済万能主義の原典とも言える「ワルラス均衡」は、そのまま社会選択上の「パレート最適」をなす。すべては市場が決める。市場は「正義」である、が「正義」を押し付けはしない。買いたくなければ買わなければいい。買わない自由は保障されていることになっている。「ぼくはこういう感性、スゴク好きなんだけ ど、万人受けするかどうかな〜」というのは「つまらないのでこういう原稿をもち込むな」ということをやんわりと表明したい場合の編集者の常套句で、市場はあら ゆるものを数値化し、序列化しつつ、個人の価値観を否定しない。しないどころか「個性」として称揚しさえするー消費行動の主体として。市場経済的自由主義 はそのまま政治的リベラリズムへと横滑りし、さらに道徳的格率となっていく。いまや「政治的ものがいまや道徳の作業領域(レジスター)上演されてい る」(『◆政治的なものについて 』ームフ)のであります。

 ネオリベ社会ではすべてが許されている。あらゆる思考・嗜好が尊重され、リスペクトされ、同時に市場によって「評価」されるー神が死に、「あらゆることが許される」というドストエフスキー的状況?いな、ジジェクが指摘するように、「神の死」にお いては逆説的に「あらゆることが許されない」のだ。あらゆることが禁じられており、ただ一つ、許されていることは「禁欲」だ。「清貧」が称揚され、ジョギ ングとロハスが流行り、他者も私も同様あらゆることが禁じられていることを望むのだ。ー私はいつでもそれを諦める準備ができている。他者が(もまた)それ を手に入れることが(でき)ないという結果を保障される限りは!ー(『◆ロベスピエール/毛沢東  革命とテロル』 p202)。だからこそ、小熊自身がかつて俎上に載せた「草の根保守主義者」たちは、「思想」「イデオロギー」に禁欲的であるどころか、ふりかざしてさえいる (かに見える)「サヨク」、というよりもっと俗に、想像上の「語りをいれたがる団塊オヤジ(そんなのがいればの話だが)」を忌み嫌っているのではなかったか?(『〈癒し〉のナショナリズム 草の根保守運動の実証研究』)。

  すべてが客観的合理的に集計可能ならば、「政治」という固有の領域は存在意義を失う。「客観情勢」が「政治」を規定するなら、「政治」は経済学に還元されてしまう。客観的合理的に判断できない「例外状態」おける「決断」ーシュミットのみならず、経済学をも「複雑性の縮減」で裁断しがちな?システム論です ら、(というかであるがゆえに?)「決断」という契機を重視しているーを抜きにして「政治」の領域は語れない。経済学の道徳化、政治化はなにも市場経済- ネオリベにみられる現象ではない。かつての「社会科学」としてのマルクス主義(「下部構造決定論」「窮乏化論」…etc)もまた、経済が政治を決定する、 という理論構成ではなかったか?市田氏が指摘しているように、「セクト」諸党派はこの経済還元主義を疑うこと、「政治」的領域を、「決断」や「主体性」を 復権させようとすることからから生まれたのではなかったか(「過渡期世界論」「主体性論」「組織論」…etc)?セクトであるなしにかかわらず、 「1968」において賭けられていたのはまさにこの「政治/革命」ではなかったのか?

ー党と党派性が異なるように、思想と思想性は異なる。党がなくても党派性は消滅しないように、思想がないところにも思想性はある(「六八年革命は『存在』しなかった」市田良彦)ー。ネオリベ状況下においては他人 の「思想」をとやかく言ってはならない、リスペクトしなければいけない、という「思想性」が蔓延しているのだ。そのような「思想性」においては、「政治/ 革命」はあらかじめは失敗を約束されているか、はじめから存在していないのだ(「歴史の終焉」「終わりなき日常を生きろ!」)。とすれば、「心理学化」さ れた「歴史社会学」的手法によって「1968」描くことは、二重の誤りをおかすことになりはしないか?「1968」の「政治/革命」を捉え損なうこと、それによって現在の「政治/革命」の不在/不可能性を追認してしまうこと、である。

と言ったことを考えながら『1968』を読んでみてはいかがでしょうか?


●小熊英二関連:いろいろ書きましたが、小熊氏の「歴史社会学」的手法による著作はどれも面白い。

単一民族神話の起源 〈日本人〉の自画像の系譜
〈日本人〉の境界 ──沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮 植民地支配から復帰運動まで
〈民主〉と〈愛国〉 ──戦後日本のナショナリズムと公共性

などは、『坂野上の雲』がいまさら?プチブームな昨今、あらためて読み返されるべき素晴らしい業績です。
(『司馬遼太郎の歴史観 その「朝鮮観」と「明治栄光論」を問う』なども参照)


●小熊英二『1968』関連

1968 (上 ) 若者たちの叛乱とその背景
1968 (下 ) 叛乱の終焉とその遺産

情況 2009年12月号 特集=1.小熊英二『1968』 2.日大全共闘とは何か
長崎浩、三上治、高橋順一各氏が書評をよせております。どれも参考になります。特に市田良彦氏の書評は鋭い。以下抜粋。

… 彼らはそれぞれが還元不可能な「個性」をもっている存在、つまり「私はこのように受け取った」と言えばそれを信じるしかない権利主体であるから、本性的に <足し算>を拒む。ゆえにその全体に対しては、これも「一つの視点ですよ」と断りを入れた上で、他所から私の「視点」を被せるしかない。いかに「学問」の 名においてもち込まれようと、小熊はそれをもち込む正当性については、当事者たちを前にして彼らと同じ「心理学」を根拠とするほかないのだ。私はあなたの 視点を否定しません。私の視点は「一つ」の、つまりあなたと同じく「それぞれ」の次元に属する視点にすぎません。所属する時代情況が異なっているだけの。 「それぞれの『一九六八』を否定しない」良心は、小熊の「歴史社会学」を再心理学化する。「心理学」的主体をいくら足し合わせても、大きな同じく「心理 学」的な主体にしかなることはできない。その上での社会学であり、歴史学であり、それらの適用でしかない。P52 「六八年革命は『存在』しなかった」


●カールシュミット関連:「政治」を考える上でやはり欠かせない古典

政治的なものの概念
政治的なものという概念規定は、特に政治的な諸範疇をみいだし確定することによって獲得されうる。すなわち、政治的なものには、それに特有の標識ー人間の思考や行動のさまざまな、相対的に独立した領域、特に道徳的、美的、経済的なものに対して独自の仕方で作用するーがあるのである p14

パルチザンの理論 政治的なものの概念についての中間所見

正戦と内戦 カール・シュミットの国際秩序思想
最近矢部史郎氏が「海賊」について書いています。
情況 2009年12月号 特集=1.小熊英二『1968』 2.日大全共闘とは何か
「現代日本におけるアナキズムとは」
VOL lexicon など)
「海賊」は、反グローバリズム(「海」の秩序)の対抗原理として「国家」(「陸」の秩序)を過大評価してしまう、という陥穽から逃れるための思想的拠点たりえるのか?とか気になる方は一読を!




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