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ひろいものZINE  ―ひろって生きるー



ひろいものZINE  —ひろって生きるー
いとうやすよ by Loca☆Kitchen
twitter@locakitchen
HP: locakitchen.wix.com/locakitchen

 それぞれの趣味、特技、興味あることを持ち寄って、遊んだり小金稼いだりして気楽に生きていこう!という活動、Loca☆Kitchen(ロカ・キッチン:オカシな台所という意味)をやっています♪具体的には、ケータリングしたりダンス・ワークショップをしたり、裁縫したりデモをやったりフリマをやったり…。皆で楽しく生きていく術を思いついては、友人知人、通りすがりの野次馬を巻き込んで挑戦しています。
 というワケで、今回は、「ひろいものZINE —ひろって生きるー」というzineを作りました!子どもの時はガラクタや漫画本、大人になってからは家具や洋服、時にはトキメキや家までひろって、ろくに働かずに悠々自適に生きてきた経験をふまえ、ひろって生きるコツやマナー、努力や心得を紹介しています。ひろいもの界のアイドル(?)へのインタビューも収録し、所々に味のあるイラストも入れました♪さらに、日本の野宿者問題やひろって生きづらい国、日本の問題、世界のひろいもの事情をリサーチし、そこから、今後もっとひろって生きやすい社会を作っていくにはどうしたら良いかなどを思考します☆
 ラクして楽しく生きていきたい、って、みんな思ってることなのに、なぜか言っちゃいけないことになってますよね。そして、そんな賃労働に向かない人たちが生きていく術もなかなか掘り下げられていない。そんな世の中には風穴をあけない訳にはいかない♪この資本主義社会では、朝から晩まで働いてたくさん稼いでたくさん消費することが正しいとされていますが、その過程で生み出される意味不明な商品や過剰在庫、労働者のストレスやそこから来る過労死、就活鬱、資本家たちがバックについたメディアの偏向報道やそこと結びついた政治家の暴走などなど、負の側面も多いです。それでも、こうしたシステムの中で人々が働き続けるのは、他の生き方を知らないというのが大きいでしょう。少しずつでも、皆で他の生き方を模索し、挑戦していったらどうなるか。殺伐とした新自由主義社会への歯止め、環境破壊の食い止め、搾取労働や戦争・紛争の抑止力などにもつながるはず!その一つのアプローチが、「ひろって生きる」ことだと思います♪
 ただでさえモノが溢れ、まだ使える物でも捨てたり、捨てることにすらお金を払っている時代、何か手に入れようと思ったら、量販店で大金はたいて買うよりも、街へ繰り出してひろった方が、現代の都市という環境に調和した生き方だと思いませんか?そう、森のリスさんがドングリをひろい、海のラッコさんが貝をひろうように、都市に生きる私たちは家具やら服やらひろっちゃえば良いんです♪ひろい者ライフが板についてくれば、街中が自分のストックルーム、毎日がドキドキ宝探しの大冒険、この世はでっかい宝島♪
 皆さんも、興味本位でちょっと、とか、切実な必要にかられてごっそり、とか、それぞれのスタイルに合わせて、生活にひろいを取り入れてみてください♪



ひろいものZINE  ―ひろって生きるー

目次:「ひろって生きる」こと/私のひろいもの半生/大公開、あんなもの、こんなものひろいました/ひろいものメルヘンティック/ひろいものプロフェッショナル/実践!ひろいものサバイバル術/〈もっと〉ひろって生きる

[2014年8月/A5/55頁/¥500] 作・絵=いとうやすよ by Loca☆Locakitchen 



痒いところに手が届くカオスな音楽雑誌、再始動のお知らせ
「国境知らずの音楽雑誌Oar」二代目代表 並木麻衣

「音楽雑誌を創ったんです。プロもアマも、国境もジャンルも超えた雑誌。良かったら1冊買ってやってください」。
そう言って「彼」が差し出してきたA4版の冊子を500円で購入したのは、うららかな陽気に満ちた春の大学の、昼休みの時間だったような気がする。差し出された冊子の表紙では、小柄な爺さんがインドの太鼓に両手をかけて、とぼけたような味のある表情を見せていた。
雑誌を受け取り、帰りの電車の中で開いて、私は衝撃を受けた。なんだ、この「読み手に優しくない雑誌」は! 50頁余りの白黒刷り、書体もレイアウトもゴチャゴチャな中に、情報の生絞りを高温加熱して煮えたぎらせたような、火傷しそうな温度の記事が並んでいた。どれ一つとして、読者に媚びる原稿は無かった。目次にはコンテンツの一貫性すら無かった。しかし、これだけは全ての頁において一貫していたーー「音楽の出自を差別せず、とにかく彼らを白日の下に晒してやりたい」という情熱の存在である。

1頁開けばその存在が希有であることが分かるこの音楽雑誌を創ったのは、当時東京郊外の大学でウルドゥー語(パキスタンの言語である)を学んでいた野上郁哉(のがみふみや)編集長だった。彼は自腹で旅費を用意して国内外を取材し、バイト代を貯めて印刷費を捻り出し、食費を削って雑誌の営業活動に日々勤しんでいた。
いつ会っても赤貧の彼に、「どうして印刷して雑誌にするの? ネットに記事を上げれば手軽じゃない、音楽も再生できるし」と問うたことがある(こんなことを言うと模索舎さんや常連さんたちに石を投げられてしまいそうであるが、当時の私はとある業界で少々話題のブロガー、しかも怖いもの知らずのイノシシ学生だったので許して欲しい)。彼の答えは、「いや、雑誌がいいんです」。
今、彼が創ってきた雑誌を開いて記事に触れれば、彼が頑なに「雑誌」にこだわった理由が痛いほど分かる。記事の一つ一つが色褪せることなく、紙の上でどっしりと存在感を放っているからだ。彼らはネット上の記事のように消費され流されていくことも無く、私の部屋の本棚の中で「再発掘」されるのをじっと待っている。そしてひとたび開かれれば、読み手の好奇心に再び火を付けてくれるのであった。
この世に送り出されて6年が経過しても、そういった彼らの存在感は変わらない。彼らを取りまとめた創刊者が、20代前半、志も半ばにして早世しても、そして読み手が喪失の痛みに堪え兼ねて幾度となく涙を流しても、彼らの温度が下がることはなかった。

001号でインド・ネパール特集、002号でパキスタン特集、003号でチベット特集を組んだ前編集長・野上氏が轢き逃げにより亡くなったのは、004号の目玉に据えたイラン・スーフィズム特集の取材を目指し、ペルシャ語を自身に仕込みつつ旅費捻出のために精を出していた、居酒屋でのアルバイトの帰り道のことだった。
悔しかったに違いない。何しろ雑誌のナンバリングをわざわざ3桁に設定していたくらい、まだまだ世の中に突きつけたい音楽の話があったはずなのだ。
周囲の人間も、それは大変に悔しかった。
悔し過ぎて集い、涙し、目論み、憤り、ぶつかり合って、遂に発行してしまった。野上氏が心の底から刊行を熱望していた、そして私達が読みたいと切望していた「国境知らずの音楽雑誌Oar 004号 イラン・スーフィズム特集」を、である。刊行された時には、野上氏の急逝からちょうど3年が経っていた。

004号は、発行から1ヶ月を待たずして印刷部数の約半分が売れてしまった。「大阪の基準で言ってもこの充実ぶりとクオリティで500円は安すぎる」「想像以上の濃さに仙台で小躍りしています」「インドで働く娘に送りたい」等々、数々の反響を呼びながら日本国内だけでなく海外へも旅立っている。
発送のために一冊一冊を包みながら、野上氏が雑誌にこだわったもう一つの理由をこの身で実感する。手作りの冊子に封筒を着せてやり、誰かの元へと送り出し、受取人から喜びの声が返って来る、そんな?がりの一つひとつが、きっと彼の熱源の一部を成す貴重なエネルギーだったのだろうと思う。
この身を焦がすような喜びを知ってしまった編集部が005号で次に目指す場所は、まだ決まっていない。時期も財源も未定である。しかし、共に漕ぎ出す乗組員は常時募集している。まずは模索舎さんで本誌の004号、できればバックナンバーも入手し、決意を固めていただきたい。ご連絡、喉から手を出してお待ちしています。

 



Oar 004 国境知らずの音楽雑誌

目次:特集1.イラン―古今の音と声を聞く:クルド・タンブールの音を嗜む イラン伝統音楽修行の旅=北川修/名乗り声〈アッカル〉が山に響く国 パキスタン、バローチスターン地方と民族戦詩=村山和之/ペルシャ詩、ジャズと出会う 国境を越えた融合を生むイラン人歌手ラーナ・ファルファーン=Sevin sunya/命懸けで放つ言葉の弾丸 懸賞金をかけられたアーティスト シャーヒン・ナジャフィ=Sevin sunya/特集2.スーフィズム―未知なる音を訪ねて飛び込む/スーフィズムって、なに? イラン女子が語る、究極の愛のお話/現代インドに息づくスーフィズム 脈々と流るフスロウの精神=高倉裕子/デーラ・ジュメラート=高橋卓治/トルコのフーフィー音楽 よろずエキゾ風物ライターの音楽ガイド=サラーム海上/Oar式世界民族楽器図鑑 No.001 セタール/トラベラーズメモリー=井生明/一本釣り/読者のオススメ!投稿ページ/驚くべき学生だった、彼は マジュヌーン野上との短い年月=麻田豊/アフガニスタン音楽素描=佐藤圭一
[2014年7月/A4/48頁/¥500] 特集=イラン・スーフィズム アフガニスタン音楽素描 発行責任者=並木麻衣/野上郁哉 

たしかな航跡



思想の海に、反権力・反資本主義の航跡を描く-
このような帆を掲げて2011年7月、航思社は出航した。
 

その前年の末、前職の、人権擁護・反差別をうたう人文社会科学系の出版社での2年半におよぶ労働争議で勝利をおさめたが、その矢先に、東日本大震災・福島原発事故が起きた。これまでの日常がいとも簡単に崩れるのを前にして、どうせならやりたいことを、好きなだけ思い切りやろうと決意して、4ヶ月後に創業にこぎつけたのだった。

 左翼出版の一翼を担うべく「反権力・反資本主義」と威勢のいい見得を切ったが、より実直なことをいえば、信念と責任をもって出版し、自らの出版物に決して背かないこと。言説を生み出すことに伴う、これらを含めた一切の責務を全うすること。これを小社の最低限のルールとしている。そして、これが決して上辺の言葉だけに留まることがないことをここで誓いたい。
 

出版においてこうしたことは、ルールとか誓うとかそんな大仰ではなく、あまりに当たり前すぎることではあるが、これが先の争議の教訓でもあり、また大震災・原発事故に接しての思いだった。

 さて、かつては社会的なレベルでの脱政治化や政治的なものの忌避(今になって思うのはこれ自体が右傾化の前兆だったのではないか)が指摘されて久しかった。
 

しかし東日本大震災・福島原発事故をきっかけに、1万5000人が集結した4.10高円寺デモをはじめ、何がしかの「革命」を起こせるのではないかとすら思える状況が現出、今も首相官邸前ではデモ行動が続いているが、一方で、その反動でもあるかのように、安倍政権下でタガが外れて右傾化・排外主義が激しさを増してきてもいる。
(模索舎などを例外として、書店が、売れ行きがいいからと居直って、人目のひくところに嫌中憎韓の「ヘイト本」を所狭しと並べて右傾化に加担、さらに拍車をかけていることについては、これ以上言及しないでおく)

 たんに右傾化にすぎないものに対し、「ヤンキー化(文化)」などのレッテルを貼ることが横行しているが、それが孕んでいる政治性を見えなくさせる悪しき風習の二の舞でしかない。この行為は、政治的なものの忌避であるにもかかわらず、行為それ自体が政治的であり、この場合、分かりやすいものに変えて社会全般に流通させるという一見「良心的」で「ジャーナリスティック」な振る舞いが、結果として右傾化に加担している点で、犯罪的ですらあると思う。

 しかし、脱原発/反原発といい、反ヘイトスピーチといい、シングルイシューのもとで左右の政治性を問わない運動に対しては、どうしても違和感を覚えざるをえない。在特会系のデモに対する「社会的正義」、原発に対する「社会的正義」に政治的なスタンスは関わらないのだろうか? カウンター行動に実行力をもたせるためには、そして首相官邸前行動の規模を大きくし、また維持継続させるためには、政治性を不問にしてよいのだろうか。
 

 在日韓国・朝鮮人の問題には天皇/天皇制が深く関わっており、それ抜きには考えることができないのは事実である。また、先の東京都知事選の細川護煕・小泉純一郎陣営に対して諸手を挙げて支援・支持した左派もいたが、これこそ成果主義にとらわれた「俗情との結託」以外の何ものでもない。小泉の脱原発方針は、首相当時の労働者・貧困層弾圧政策と同じく、電力自由化というネオリベ的発想に根ざしている。
こうした本来根源的・決定的なものとしてあるはずの政治的差異を無視した運動は、超短期的な効果は得られたとしても、所期の目的を果たすことができるとは思えない。「大同団結」の名において抑圧されたものがいずれ、運動にとって致命的なレベルで回帰するだろう。

左翼の運動や言説は、いま一度、原理原則に立ち返るべきではないか。これまで多岐にわたって展開され、蓄積されて肥沃なものとして存在しており、今こそ読まれ、読み直されなければならない。そう思い、「革命のアルケオロジー」というシリーズを考えたのだった。
 

 戦後から80年代までに発表された、あるいはその時期を対象とした、マルクス主義、共産主義、民主主義、大衆反乱、蜂起、革命に関する文献。その第1弾がジャック・ランシエール『アルチュセールの教え』であり、ついで松田政男『風景の死滅 増補新版』である。続刊には、クリスティン・ロス『68年5月とその後』、津村喬『横議横行論』、RAF『ドイツ赤軍(I)1970-1972』などを予定している。

また、現在進行形の言説として小社最新刊の絓秀実『天皇制の隠語』は、「反資本主義」「共産主義の理念」を語るべく、封建制=天皇制を焦点とした日本資本主義論争から、ネグリ&ハートなどの人的資本論までを論じている。

同書をぜひ書店でお手に取っていただければと思う。
そして、小社の出版活動に今後もご注目いただければと願う。

航思社・大村智

 天 皇制の隠語出版記念イベント

日本資本主義論争と文学

 

航思社の刊行物

天皇制の隠語

[2014年4月/四六H/474頁/¥3,500+280] 著=すが秀実 発行=航思社

 

存在論的政治 反乱・主体化・階級闘争

[2014年2月/四六H/572頁/¥4,200+336] 著=市田良彦 発行=航思社

 

風景の死滅 増補新版

[2013年11月/四六H/344頁/¥3,200+256] 《 革命のアルケオロジー2》 著=松田 政男 解説=平沢 剛 発行=航思社

 

アルチュセールの教え

[2013年6月/四六判/324頁/¥2,800+224] 著=ジャック・ランシエール 訳=市田良彦・伊吹浩一・箱田徹・松本潤一郎・山家歩 発行=航思社

 

2011 危うく夢みた一年

[2013年5月/四六判/276頁/¥2,200+176] 著=スラヴォイ・ジジェク 訳=長原豊 発行=航思社

 

共通番号制(マイナンバー)なんていらない 監視社会への対抗と個人情報保護のために

[2012年4月/四六判/176頁/¥1,400+112] 著=小笠原みどり/白石孝 編/著=日本弁護士連合会 発行=航思社

 

デジタル社会のプライバシー 共通番号制・ライフログ・電子マネー

[2012年1月/A5/476頁/¥3,400+272] 編/著=日本弁護士連合会 発行=航思社 (発売元=大学図書)

 



南風に乗ってやってくる弔鐘の音



 私は南方から北上する高鉄(台湾の新幹線の意)の中で<南風>を読み終えた。列車がその速度を上げて山のトンネルを一つまた一つと走り抜けて行く中で、光と影はめまぐるしく眼の前の世界を変えていく。まるで頭の中に一枚また一枚とモノクロ写真が浮かび上がるように。

<南風>はフォトジャーナリズムとリテラル・ジャーナリズムを結合させた本だ。本の中の<南風>は歴史であり、また現実であり、そして直喩であり、また隠喩でもある。以前は「堤防の上を優しく南風が吹き抜ける時、生きていく上での「不明」も良しとなり、苦難や悲しみにも慰めが与えられた。これは百姓となる運命にあると考えたくもない我々に対するお天道様のご芳情なのである。」と言えたが、今は「南風が吹いた時のにおいは強烈だ。六軽がもし夜にこっそりとおならをしたとしていたとしたら、その音はジェット機と同じほどの大音量となる。」わけだ。

台湾は長くフォトジャーナリズム(ドキュメンタリー)の伝統を有していた。この伝統は1960~70年代に端を発し、80~90年代の雑誌<人間>を集大成とした。<南風>の作者である鐘聖雄は34歳と若く、彼は「今に至るまで、まだ<人間>を読む機会が無かった。」としているものの、「そこで、私は彼(<南風>のもう一人の作者である許震唐)にうそをついた。今回のフォトジャーナリズムの機会を生かし、<人間>のスタイルが重視されるようにしたい、と。」とも言っている。もっとも、彼のスタイルは、撮ったものや書いたものには関わらず、時に暗く、また明るくなるお線香の明かりにも似た、<人間>が灯した火の延長線上にあることに全く疑問の余地が無いのである。

ドキュメンタリーのスタイルという点で言えば、鐘聖雄は少しユージン・スミスにも似ている。許震唐は少しロベール・ブレッソンに近い雰囲気がする。ただ、たとえ彼らのスタイルに多少の違いがあろうとも彼らのレンズは全く同じ方向にフォーカスを当てているのだ。彰化県大城?台西村。彼らのドキュメンタリーの叙述も同じテーマを有している。六軽から6キロメートルの距離で、ただ一本の川で隔てられているだけのこの村落が、どのように六軽の398本もの煙突の害を受けるか、という物語である。

台西村は全くの田舎とも言える小さな村で、居住している人口もおよそ400人余り。「以前は冬になるや、台西村のほとんどの人が海に行ってウナギの稚魚を獲っていた。夜になれば濁水溪の河口もまるで夜市(ナイト・マーケットの意)のようににぎやかだった。」、「以前は一晩に何万匹と獲って帰るのが普通だった。」、しかし今では、「二百匹以上獲って帰ったことは一度として無い」とのこと。

以前、台西村民である康青裕は魚も獲り、稲も植え、スイカまで育てていた。しかし今では毎年南風がもたらす雨水の酸性度が高くなってしまい、「六ー0番のスイカを消失せしめる」こととなった。康青裕は今ではスイカも育てず、野菜も植えていない。生命力逞しいサツマイモへと乗り換えてしまったのだ。また、もう一人の村民である許萬順の身に降り掛かってきたことも同じで、「六軽が来てからというもの、冬のスイカは全て『狂って』しまったんだ。花は咲けども実を結んでくれない。」そしてもう一人、魏文考という村民も「以前、濁水渓の河口は引き潮の時となれば、大きめのはまぐりやカニが数多く獲れ、海でも虱目魚(サバヒーという魚)の稚魚、雷魚の稚魚、エノコログサ、サバなどが獲れていた。でも今はこういった魚も死ぬものは死に、傷つくものは傷ついてしまった。まだ消えてなくなってしまわないなんて、笑うしか無いよ」と嘆いている。

稚魚が見つからない、スイカが育てられない、はまぐりが拾えない。台西村は貧しい村へと変わってしまった。しかし、もっと危機的であったのは、南風が吹き抜けるこの村が、お金を稼ぐことが出来ないばかりか、許萬順の言うように、「我々百姓は、結局何が得られるというのか?結局、自分の身体に病気が得られるだけではないか。」となったことだ。彼らは自分、あるいは近しい人が各種の疾病を患ったというのも、全て六キロメートル先の398本の煙突が元凶であると信じていた。「南風が吹き付けて来て、雨も涙のように落ちて来る。自然の恵みを与えてくれていた母なるこの港湾も、寂しげなお墓になってしまった。」と嘆くのは鐘聖雄。許萬順も「このままだと、二十年以内に廃村になってしまう」と訴えている。

「写真でもし告発するなら、まずは人々を恐れおののかせなければいけない。」Susan Sontagのこの言葉は<南風>の中で証明されている。鐘聖雄のレンズが収めた「南風の中の肖像」シリーズは、実のところ殆ど全てが遺影である。膀胱ガンを患って亡くなった洪桂香、口腔ガンを患って自殺した李文羌、肺ガンを患って亡くなった許戸、許星、肺腺ガンを患って亡くなった許呉好、肺ガンを患って亡くなった康有智、肺ガンを患って亡くなった蘇尾、胆管ガンを患って亡くなった康?、肝臓ガンを患って亡くなった康武雄、康清萬兄弟、肺腺ガンを患って亡くなった唐殿、肺腺ガンを患って亡くなった許著、肺腺ガンを患って亡くなった黄梅、大腸ガンとリンパ腺ガンを患った洪順士、肺腺ガンを患って亡くなった曾玉麗、肺ガンを患って亡くなった康保現、口腔ガンを患い、それが肺腺へと転移して亡くなったって許世賢。これらの人、名前は、最後には近しい人の手の中の、あるいは壁にかけられた一枚一枚のモノクロの遺影となった。彼らは皆、南風の吹き付ける中で一人また一人とお墓に入っていったのだ。

人を恐れおののけさせるフォト・ジャーナリズム、リテラル・ジャーナリズムは、現実(reality)だけではなく存在(existence)をも記録している。<南風>が記録しているものは、台西村の存在なのである。そしてより重要なのは、鐘聖雄と許震唐がレンズを通して再現しているのが「証拠」だけでなく、「誘い」である点だ。彼ら、忘れ去られた、あるいは無視された小さな村落の人々を誘っているのだ。「一緒に南風の中で立ってみようよ。」と。

「孤島である人はいない。弔いの鐘が誰のためのものかなんて聞かないで下さい。それはあなたのために響いているのだから。」<南風>を読み終え、高鉄の座席に飲み込まれるように座り込んだ時、突然ジョン・ダンのこの言葉を思い出した。「権勢を振るう人たちは勿論南風のにおいなど嗅いだこともないし、もちろん南風に乗ってやってくる弔いの鐘の音も聞こえないのだ。」しかし、台西村の物語は、まさか本当に彼らと何らの関連も無い孤島の物語たりえるのだろうか?

ひとつの映像はひとつの誘いである。権勢をふるう人たちの中で、<南風>のお誘いを受けようと思うのは誰だろうか?

王健壯
台湾大学歴史系卒業後、聯合報の定期アメリカのヴァージニア大学を訪れ、研究を進める。かつて、「新新聞周刊」の編集長、社長、中国時報の編集長、社長を歴任。現在は世新大学における客員教授として、聯合報に定期的にコラムを掲載している。著書には、「私はカエサルを愛していない(我不愛凱撒)」、「カエサルは私を愛していない(凱撒不愛我)」、「移ろう時を変わらず見つめる(看花猶是去年人)」、「私は彼を、おじいちゃんと呼んでいる(我叫他,爺爺)」などの書籍がある。

※ (文章は「天下雑誌」の評論コラムに掲載されたもの) 王健壯(熊谷将太 譯)

 



〈写真集〉南風

[2013年7月/B5変形/196頁/¥3,000] 著=鐘聖雄/許震唐 発行=衛城出版(台湾)

『遠い夜』刊行によせて



こんにちは。元店員の鹿島です。
この度、2010年・2011年に模索舎で行なった工藤冬里さんのライブを、詩集付きCDRとしてまとめました。
私が工藤冬里を知ったのは学生のときに聴いたBill Wells & Maher Shalal Hash Bazの『Osaka Bridge』が初めだったと思います。歌う工藤さんをちゃんと観たのは、模索舎で最初に演ったライブ「すべての読書は道場破りである」でした。その日の夜、「外はおまつり、一年中おまつり、外はローマ、昔も今も」と工藤さんが歌った『ローマ帝国衰亡史』の一節を、興奮しながら友人に伝えたことを覚えています。後ほどその音源は、工藤さんと牧野さんという二人でやっていたレーベル dependent direct sales と模索舎との共作としてCDR化しました。今回発行する「遠い夜」の前半は、「すべての読書〜」CDR発売記念でのライブの収録、というわけです。

誰にも定期的に思い返すトピックというものがあると思います。私も、工藤さんや牧野さんや、その周囲の人達の間で見聞きしたものを何度も脈絡なく思い返し、その部分だけを取り出して解読しようとし、その度にそうかと納得しています。「売れなくてもいい、というのが大嫌い」「先の先の先があります」。当人の言いたかったこととはすでに別ものになっているかもしれません。ただひとつ、どう考えてもあれは、ものすごく贅沢な月日でした。

「遠い夜」は詩の朗読と歌唱の中間のような内容です。工藤さんは認知新聞に載せていた詩を、走るように読みあげました。

それらしくなってきた断層の
それどころではなくなってきた 鼻血の市場
山の 寿司屋
命の川の 眉毛の本部のような 悔悟が
調べるための問題を出すだけだ

三十年 わたしたちは待った
三十年で わたしたちは振り分けられた

働きながら休んでいる
休みながら働いている

(「休日出勤」一部抜粋)

私、後半2行は「働かざるもの食うべからず」へのアンチテーゼなのかなと思い、感激していました。でも、鼻血の市場って何?三十年とは何の単位?山の寿司屋ってなにか笑えてくる。工藤さんの詩は、意味の掴めない異物の表現と告白のような表現が同位置に並列されているような感じがします。だから「働きながら休んでいる 休みながら働いている」だって、その部分だけに共感して感傷に浸るのは片側しか見ていないんじゃないか。そういう居心地の悪さがあると思っています。そういう言葉とその言葉の持つイメージとの遠近の移動が、読んでも面白く、聴いても音なりに速度や抑揚でその距離を測っているようで面白いです。
例えば、同じ座右の銘を持つ2人がいて、1人は死ぬまで一度も口に出すことなく、1人は墓石に彫りつけた。その2人をひとつにしたのが私にとっての工藤さんの詩です。でももしかしたら本というものはすべてそういうものなのかもしれない。皆さんはどう思いますか。
とりあえず、こうしてひとつの形にできたことに、小さな喜びを感じています。

 


〈CD〉工藤冬里/遠い夜 〈詩集付き〉

工藤冬里さんが2010年と2011年に模索舎で行った2回のライブの、CDR音源とテキスト全65詩を収録。

[A5/¥1,500] 発行=机と枕

 ※CD付き

 



世界一役に立たない本が復刻されました。



 こんにちは。27歳にしてようやく月収17万になり、親の扶養から外れられそうな者です。このたび、自分が昨年2012年の4月に発売した手作りコピー本『とびっきり楽しい脱力ホラー映画の世界』が、ほぼ完全に同じ内容のまま、美しすぎる製本で復刻されました。ものすごく狭い一部の映画マニアの方々の間で話題になったあの本が、装いも新たに大復活です。この日を待ち望んだファンの方々のどんなに多かったことでしょう。去年のオリジナル本を買ってくれたみんな、ただいまっ!!

  しかし、日本国民の大部分の方々にとって、自分の存在もオリジナル本の存在も「無」に等しいものだと思いますので、ここで少し自己紹介などをさせていただきます。自分はレインボー祐太という名前の、脱力ホラー映画や、三流の怪奇・見世物などを心から愛する人間です。現在『TRASH-UP!!』という雑誌にて「レインボー祐太の脱力ホラー映画の世界」という、限りなく誰からも待ち望まれていないコラムを連載しています。そんな自分が初めて自らの手で作って、売り物という形で世に出した本が、この『とびっきり楽しい脱力ホラー映画の世界』です。

  「脱力ホラー映画」とはなんでしょう。これは、ただ単にふざけて作られたホラーコメディや、いわゆる「B級ホラー映画」、「スプラッター映画」などとは違います。トロマ映画などのスプラッターコメディは最初からあえてふざけて安く作っているわけだし、いわゆる「B級ホラー映画」や「スプラッター映画」は、どんなに内容がくだらなくても、それなりにテンションの起伏があったり、人が死んだり、内臓が出たりして、見せ場があるものです。

  「脱力ホラー映画」はそういったものではありません。それは、とりあえずどうにかそれなりの形にして作品をまとめようとしたものの、監督のあまりの頭の悪さや、極限までの低予算によって、作り手の誰一人として意図していなかったにもかかわらず、非常に間抜けで微妙な空気を漂わすことになってしまった宇宙的に虚しい作品群です。「デザイン」という作業を完全に無視した怪物の造形、その都度小堺一機のサイコロを振って話が進んでいくような脚本、追加撮影を山ほど繰り返してそれらを元のフィルムと無理矢理合体させて1本の映画にしてしまったツギハギもの等々・・・。

  そして、「脱力ホラー映画」の最大の特徴の一つ、それは「特にこれといった見せ場がない」ことです。つまり、ひたすらボロボロの怪物やお化けが出てきたり、素のまま以下の素人の演技がふわふわ繰り返されたりするだけ、別に過激な描写があるわけでもなく、血しぶきがあるわけでもなく、派手な殺人シーンがあるわけでもなく・・・つまり「なーんもなく」、見ている途中で寝るしかないような作品、そういう、鑑賞中は限りなく低血圧、見終わった瞬間に見たことさえ忘れてしまう微妙な作品たち、そんな本当にどうしようもない「ホラー」映画を自分は「脱力ホラー映画」と呼んでいるのです。びっくりするほどなんの恐怖もないのに、とりあえず「ホラー」であるというグダグダで弱々しい感じ、自分はこういった雰囲気のホラー映画が大好きです。すごく怖がりなのに、なんか「ホラー」な空気は大好きだという自分にとっては、超無恐怖なのに勝手に出演者がボロボロの怪物に大騒ぎしたりしている「脱力ホラー映画」のノッペリ感は、非常に心地よいのですね。

  この本には、そういう最底辺のホラー映画の紹介が100本入っています。しかもすべてにかわいい手描きイラストまで付いているのです。合間には勉強になるコラムも挟み込まれ、みなさんを立派な社会人から脱落させるのにこれまた一役買っています。ただ、復刻版ですから、内容は去年のオリジナル本と99パーセント同じなので、万が一オリジナルを購入済みの方は注意してくださいね。

  てなわけで、ぐだぐだとどうでもいい自分の「ホラー映画哲学」モドキを書き散らしてしまいました。みなさんもこの夏は、完全無恐怖の「脱力ホラー映画」で自分と一緒に寂しく「納涼」してみませんか? 心も財布もびっくりするほど寒くなれますよ。

レインボー祐太

ブログ:http://ameblo.jp/rainbow-giragira/
(文章書きの仕事などいつでも募集してますのでお気軽にご連絡くださいね!!)

 

 



とびっきり楽しい脱力ホラー映画の世界 [復刻版]

[2013年5月/A4/134頁/¥840] 著=レインボー祐太 



はじめまして。エロライターの大坪ケムタと申します。童貞喪失インタビュー集「This is not a
lovesong**」に関心持っていただいたのならありがとうございます。もし「童貞」という、そこそこ引きの強いキーワードが気になって見てしまったのなら「しめた!」とニマニマさせてください。

 この市井の人々への童貞喪失インタビューをはじめたきっかけは、今は亡き『デラべっぴん』(英知出版)誌上でやった「普段AV女優相手にやってる初体験インタビューをAV監督にやってみよう」という企画でした。実際やってみると、これが予想以上に面白い。ただのシモ話なんだけど、男というだけでどこかトホホで笑えるし、そのエピソードには有名無名関係なく人間性がにじみ出ている。そして自分にとっては、女性の処女喪失話よりも圧倒的に感情移入して話が聞けるのが楽しくてしょうがない。実際普段やってるAV女優インタビューの時よりニヤニヤして話聞いてるもの。

それからブログという形でまとめようと思い、いくつか身近な男性に話を聞いていったのだけど、そのうちに「これは勇気の物語だなあ」というのを感じるようになってきた。女性という生き物はドラゴンや悪魔以上に未知でありつつ現実的だし、ベッドに誘うシチュエーションはどんなダンジョンよりトラップまみれ。それらに股間についてる頼りにならない伝説の剣一丁で立ち向かう。そのエピソードはどれもヒロイックさの欠片もないけれど、たしかに勇気の物語ではある。

物語といえば、ヌルい小説にありがちな「普段ヘタレな主人公がここ一番で女の子とか学校とか地球を救うために勇気を出してハッピーエンド」的な話が死ぬほど嫌いなんですよ!
日常で勇気を振り絞れない者が大一番で勇気を振り絞れるものか。どんなアニメやラノベよりリアルで強烈な、小さな勇気のエピソード集…と書けば良い話っぽいですが、実際はみんな初体験のとき自分のことしか考えてないんですけどね!
どいつもこいつも勇気はあっても愛情はねえ、ということでタイトルはそこから取りました。

みうらじゅん・伊集院光共著『D.T.』発刊から約10年。それまで皆恥じらいを持って口に出していた「童貞」という言葉は、今や女の子ですら「童貞キャラ」「童貞目線」などフツーに使う言葉になりました。で、「もうありきたりな童貞ネタはもうよくない?」と思うわけです。しかも、もう童貞でもない奴らがどうこう言うのとかさー。

表紙には本作のサブタイトルとして「100の童貞の妄想より、1の童貞喪失のドキュメント」という一文が入れています。ここに出てくる童貞喪失話は、組長の紹介・アムステルダムの飾り窓・多重人格の女の子・顔がジョーカーで身体がジャバ・ザ・ハットなどなど、妄想では描きえないトゥルー・ストーリーズ。どこよりもマヌケだけど、自分で自分の人生を切り開いた男たちのエピソード、お楽しみください。

文/「This is not a lovesong**」大坪ケムタ



This is not a lovesong**2

[2013年4月/A5/96頁/¥840] 取材・文=大坪 ケムタ 

This is not a lovesong**

[2012年4月/A5/64頁/¥840] 取材・文=大坪 ケムタ



なぜ、今、ダンボール村なのか



 JR新宿駅西口の広場にダンボール村があったのを覚えてらっしゃいますか?元々、都庁に向かう通路脇の路上生活者たち(都庁建設に携わった方も多い)が、96年1月に「動く歩道」建設を名目に強制排除されて行き場を失い、緊急避難場所としてそこに集結したのが始まりでした。それから2年間、多い時で300人近い路上生活者が身を寄り添うように暮らしていました。ポストもあって、郵便物も届きましたから、住所のある歴とした村だったんです。

 私は新宿東口改札を出て、丸の内線に向かう通路の脇にある「ベルク」という小さなビア&カフェを共同経営しています。そして、写真家でもあります。という口実で店をちょこちょこ抜け出し、新宿界隈を撮っています。ダンボール村が出現してからは、毎日通いました。なぜ、ダンボール村だったか、については、写真集の後書きに書きましたので、詳しくはそちらをお読みください。もちろん、使命感のようなものもあったのですが、感覚としては、いつもの街歩きの延長のようなところもありました。私は、いつも撮る前から何を撮るかはっきり決めません。決定的瞬間みたいなものも狙いません。誘われるままに歩いて、誘われるままに撮る感じです。いえ、撮らせてもらう感じ。それはダンボール村にお邪魔している時も変わりませんでした。

 なぜ、今、ダンボール村なのか、というご質問をよく受けます。撮影当時から一冊にまとめたい気持ちはありましたが、時間ばかりが過ぎ、いつか迫川尚子全集にでもおさめるかーとあきらめていたところ、突然出版社のほうからお話があり、お受けしたというのが本当のところです。ただ、本の解説を書いて下さった稲葉剛さん、彼は支援者として村にかかわり、現在NPO法人自立生活サポートセンターもやいの代表をされていますが、その稲葉さんも、昨年出版された『連続授業 命と絆は守れるか-震災・貧困・自殺からDVまで』(三省堂)の中の「ダンボール村から始まった」という文章で、初めて村のことをお書きになりました。村を撮影する写真家は私以外に何人かいましたが、その中心的人物だった木暮茂夫さんは村の消滅後パタッと写真をやめ、今は新潟でお米づくりをされています。またダンボール村と言うと、若いアーティストたちが住人の許可を得ながら手当たり次第にハウスに絵を描いたことで話題になり、村の消滅後も度々メディアに取り上げられましたが、彼らも村そのもの(住人やその生活)についてあまり発言されていない気がします。へたに触れたくないのではないか。それが、あの場所に一緒にいた私の率直な感想です。原因不明の火事をきっかけに(4名の方が亡くなった)自主撤去という形で村が消えて以来、あの場所に関わった人たちは皆、それぞれに、あの時自分のとった行動は本当にあれでよかったのかとずっと自問自答を繰り返し、答えが出ないまま、でもやれることを精一杯やって、今日まで至っていると思うからです。

 村の消滅の10年後、今度はベルクが新しい家主(JR系列のルミネ)から立ち退きを迫られました。理由は、ファッションビルにするから、の一言でした。それ以上の法的根拠はありません。ただ、JRは手段を選ばない、裁判所はJRの味方と聞きますし、見えないところで何をされるかわからないという恐怖があって、やむを得ずお客様に「こんなことを言われてます、どうしましょう」と相談する形で立ち退き問題を公表しました。それからはご存知のようにメディアが大きく取り上げて下さり、お客様の大ブーイングによってルミネはいったん立ち退きを撤回しました。事情通の方によれば、それだけでも前代未聞なことだそうです。

 今回の騒動は、駅は誰のものなのか?、街は誰のものなのか?という問いを改めて私たちに突きつけました。11.3.11、JRは首都圏の駅を全面的に閉鎖しました。駅周辺は行き場のない人たちであふれました。駅という公共施設ですら、「私有物」として「よそ者」を締め出す。さすがに、ずいぶん経ってからJR社長がそのことで謝罪したそうですけれど、あの日を境に、この国は問い直さなければならないことであふれかえっている気がします。

 私自身、ダンボール村を写真集にするのに15年もかかってしまったことに不甲斐なさを感じながらも、今じゃなきゃ出せなかった、3.11以後だからこそ出す意味があったという思いもあるのです。

迫川尚子(写真家)

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新宿ダンボール村 迫川尚子写真集 1996-1998

[2013年5月/B6変型/232頁/¥2,000+100] 著=迫川尚子 ブックデザイン=戸塚泰雄 (発売元=ディスクユニオン)

自費出版物のお店 シカク



 「シカク」は、大阪の中津という場所にある、自費出版の本やCDを扱うお店です。ときどき展覧会や各種イベントなども行っています。

 中津は大阪駅や梅田から一駅、徒歩15分ほどのところにある、築100年を超える長屋が並ぶ古い地域です。といっても京都みたいな趣のある町屋というわけではなく、今にも崩れそうな廃屋同然のボロ屋が並んでいます。
 大戦の火種を逃れ、そのまま建物が残ったところがたまたま川と高架に囲まれた地域で、あとは同和地区として紆余曲折あり、変なてこ入れされずにマイペースなまま奇跡的に昭和が平成に残った町という感じです。シカクがあるのは、そんな中でも特に経年異彩を放っている、中津商店街というところです。床は傾き壁は崩れ、ゴキブリの卵やネズミの糞まみれのひどい物件を、自分たちで改装しながら営業しています。

 この紹介を書かせていただいている模索舎さんをはじめ、東京にはミニコミなどの自費出版物を扱っているお店がたくさんあります。しかしシカクを始めた当時の大阪では、自費出版の本は極まれに一般書店や古本屋の一部に並んでいる程度で、全然一般的に認知されるようなものではありませんでした。
その後少し状況が変わって、自費出版の本が雑誌で「zine」という形で一部に浸透してきました。ですが、多様な思想や内容の本があるというよりも、万人受けする、雰囲気はいいけど中身が似通ったものばかりで、東京の自費出版物事情を知っている人からするとなんだかなぁ。。。という気持ちになりました。

 関西で情報発信をしようとする人は大学生が多いので、若い人が好む題材(ファッション、アート、日記など)や装丁のものが多くなるのは仕方ありません。けれどそれ以上に、単純に「それしか知らない」という田舎気質に問題があると思います。僕は東京に行ってその情報量の多さや、多様さを知り、親の世代がよく言っていた「追いつけ追い越せ東京」的なものはもはや完全に過去のもので、大阪は田舎だと思いました。しかし未だに大阪の人は自分たちが都会人だと思い込み大阪で得れる情報で満足してる人が多いと思います。そのため、少部数の印刷物や作品を扱うお店を作って、大阪の人にもこういう文化があるんだよと知ってもらうために、2年前にシカクを始めました。

 そのためシカクは、「一般の書店にないテーマや思想を扱った本」「一般受けはしないが非凡なもの」「唯一無二で判断に困るもの」などを中心にラインナップを揃えることを目指しています。
まずは関西の人たちに、こんなおかしな本、音楽、人、情報の存在を知ってほしい。それを知ったうえで、ファッションするなりアートするなりほっそい自転車乗ってカメラ首からぶら下げてスタバで茶をしばいてほしい、と思います。

  まだアイテム数も少なく発展途上の店ですが、お近くに用事のある際はぜひお立ち寄りください。
また、本やCDなどの委託販売も常時募集しておりますので、大阪で売ってほしい方はご一報ください。


シカク店長 巴大樹

「シカク」
場所:大阪府大阪市北区中津3-17-12
HP : http://uguilab.com/shikakutop.html
Mail : shikaku@uguilab.com





 ネット選挙解禁! 

 戦後、ニッポンの社会は経済と生活が次第に豊かになっていったので、私たちが政治に無関心でいても問題がない状態が長く続いてきました。しかし、3・11の東日本大震災があり、福島の原発事故があってはっきり見えたことは、 私たち市民のいのちや健康をごくひと握りの政治家 や電力会社の人たちの判断にゆだねてしまっていた、ということではなかったでしょうか。

さらに最近にいたっては尖閣諸島・北方領土などの領土問題への関心が高まり、憲法改正の議論が熱を帯びています。原発の再稼働の問題、TPPと農業問題などニッポンの政治は揺れつづけており、国運を左右する重大な課題を、これ以上政治家や官僚たちに任せておいていいのでしょうか? 2ヶ月後にせまった参院選では、ついに「ネット選挙」が解禁されます。私たち市民のひとりひとりが、インターネットを通じて選挙運動をしてもいいという時代が到来したのです。
 

国政選挙のドキュメンタリー

 私は『ムネオイズム 〜愛と狂騒の13日間〜』を公開するタイミングは、今しかないと思いました。これは新右翼の一水会を撮った前作『ベオグラード1999』に続いて、「ニッポンの政治」シリーズの第2弾として製作したものです。鈴木宗男という著名な政治家の選挙戦に密着したドキュメンタリー映画ですが、何も彼を応援するための映画ではありません。そこから「ニッポン」と北海道が抱える問題がいろいろと見えてきます。そこにあるのは疲弊した地方・北海道の姿、北方領土問題、アイヌ問題、国策捜査、政治とカネの問題などなど。

2009年8月30日に行われた衆議院議員選挙は、民主党が自民党に大勝し、政権交代を実現した歴史的な選挙となりました。前回の選挙で新党大地を立ち上げ、ムネオ疑惑を越えて衆議院議員に返り咲いた鈴木宗男。しかし、東京地裁で「あっせん収賄罪」の有罪が確定し、最高裁が上告を棄却すれば、すぐにでも懲役1年5ヶ月の実刑で収監されてしまう不安定な立場にありました。収監後も国政への命脈を保つため、タレントで車椅子の元郵政大臣・八代英太を副代表に任命し、盟友・松山千春や佐藤優らの応援を得て、鈴木宗男の崖っぷち選挙戦がはじまります。民主党や連合と「選挙協力」を取りつけますが、政権交代の突風は鈴木宗男をも飲み込んでいきます。その2週間の戦いに密着したビデオカメラがありました…。

政治家を見抜くリテラシー

 映画『ムネオイズム』は日本映画史上初めて(?)、現役国会議員の衆院選挙のウラ側を描いた「衆院選ドキュメンタリー」です。私たちが今一度、自分たちの税金が国によってどのように使われ、政治家がどのような政策を行おうとしているのか、ひとり一人が注視しなくてはならない時代に入っています。そのために重要なのは政治家の生態を知り、その発言の虚実を見抜くリテラシーを身につけなくてはなりません。この映画を通して、一人でも多くの人にニッポンと北海道の政治に関心を持ち、投票権という権利について考えて頂けたら幸いです。


金子遊(かねこ・ゆう) 
映像作家・批評家。劇場公開作に『ベオグラード1999』(09)と『ムネオイズム〜愛と狂騒の13日間』がある。編著に『フィルムメーカーズ 個人映画のつくり方』、共著に『吉本隆明論集』、『アジア映画の森』(作品社)、『このショットを見よ』(フィルムアート社)など。ドキュメンタリーマガジン「neoneo」編集委員。

 

★模索舎にて前売チケット(¥1300)発売中!

 

6月22日より、オーディトリウム渋谷ほか全国順次ロードショー

【出演】鈴木宗男、松山千春、佐藤優、ジョン・ムウェテ・ムルアカ、八代英太、石川知裕、松木謙公ほか


公式サイト&予告編 
http://yher.sakura.ne.jp/muneoism

公式ツイッター 
https://twitter.com/muneoism1

公式フェイスブック
www.facebook.com/Muneoism




 



残酷ビジュアルと実存批評の同居へ



こんにちは蛆虫プロダクションと申します。
 この度、模索舎さんにお声を掛けて頂き、映画批評本を置いて頂けることになりました。

弊プロダクションは元々エログロアニメを制作する映像プロダクションですが、文学フリマへの参加を機に客寄せパンダにでもなれば…という軽いノリで紙媒体(同人)の制作に乗り出しました。
 

デビュー作の「殺人映画批評」は、本物の殺人が記録された商 用映像、いわゆる「スナッフ・フィルム」に関する映画(『テシス』『ギニーピッグ』等)やイラク戦争で話題になったネット動画などについて論じています。 一見、覗き見趣味的な体裁(なるだけ手に取ってもらいたいがための苦心惨憺の戦略です)になっておりますが、内容は残虐描写を消費する動向へのかなり真面目な論考となっております。このスタイルは、以降の映画批評シリーズすべてに共通しているもので、今ではスキャンダラスな残酷ビジュアルとダイレクトな実存批評を同居させることが半ばこのシリーズの魅力となっています。
 
「死体映画批評」は、リアルな死体をテーマにした映画を補助線に「死体」そのものを巡る思索に富んだ視点を提示しています。死や死体を考えるとき、生身の死体や自らの死は避けては通れません。このため、NHKの無 縁社会や東日本大震災などの事象にも積極的に言及しました。現時点で入手・視聴可能な映像(『おくりびと』『ヴィタール』などの劇映画や『死化粧師 オロ スコ』『死体解剖医 ヤーノシュ』『デスファイル』などのドキュメンタリー等)を参照しつつ、決して自分を棚上げにしない「死・死体論」を追求することが できる密度の濃い内容となっています。
 
「自殺映画批評」は、年間自殺3万人時代の日本について論じ るというより、「自殺」という行為をもう一度再発見するために「自殺」を描いた映画や自殺の瞬間を撮影したドキュメンタリー(『ザ・ブリッジ』)などを取り上げました。家族全員で家具や装飾品などを悉く破壊しつくした後に一家心中を遂げる「セブンス・コンチネント」から9.11テロのときにツインタワーに取り残され、熱と煙で飛び降りを余儀なくされた人々を追跡する「フォーリング・マン」まで、「自殺」という概念でひと括りすることの安易さが次第に浮き彫りにされていくラインナップとなっています。
 
新刊の「ザ・大惨殺」は、無差別大量殺人を取り扱った「ザ・テロリスト」「丑三つの村」「エレファント」などの映画を切り口に、殺す側の心的メカニズムや社会的な背景、さらにはテロリズムとの関連性など多岐にわたる論考を展開しております。ぜひ手に取ってみてください。
 

また、現在の活動状況としては、文学フリマには毎回出展していますので、エログロアニメのDVDともども直接購入が可能です。なお、 2013年11月4日(月祝)に東京流通センター 第二展示場で開催する文学フリマで新刊の販売も予定しております。ぜひお立ち寄りください。

蛆虫プロダクション/真鍋厚

 

ザ・大惨殺 みんな、みんなぶっ殺してやる

「ザ・テロリスト」「丑三つの村」「エレファント」「アメリカン・サイコ」「ありふれた事件」「実録・連合赤軍」「パラダイス・ナウ」「告白」他-みんなぶっ殺してやる!」 そんな願望を具現化したスプリーキラームービーからリンチ殺人映画、自爆テロの内幕までを暴く大殺戮時代の予言書!-

[2012年11月/A5/52頁/¥525] 発行=蛆虫プロダクション

自殺映画批評

「自殺サークル」「ハプニング」「死の王」「セブンス・コンチネント」「ザ・ブリッジ」「フォーリングマン」「憂国」「桜桃の味」-我々はなぜこの世からおさらばしたくなるのか? 自殺パニックムービーから自殺の瞬間を捉えたモンド映画までを語り尽くす、首を吊る前に読むべき21世紀の「自殺論」-

[2011年/A5/52頁/¥525] 発行=蛆虫プロダクション

 

死体映画批評

おくりびと」「死化粧師 オロスコ」「ヴィタール」「死体解剖医 ヤーノシュ」「ひかりごけ」「デスファイル」「エンター・ザ・ボイド」他-死体とは一体何なのか? アカデミー賞受賞の納棺師映画からNHK無縁社会、東日本大震災までを横断する映像死体論の決定版!

[2011年6月/A5/52頁/¥525] 発行=蛆虫プロダクション

殺人映画批評

テシス 次に私が殺される」「ギニーピッグ 悪魔の実験」「ギニーピッグ 血肉の華」「ヴィデオドローム」「死霊の罠」「ヘンリー」、そして「マーターズ」-映画はスナッフ・フィルムを越えたか? 擬似スナッフ・ヴィデオからイラク戦争の首切り動画までを一刀両断する新たなる思考の地平へ--。

[2011年11月/A5/38頁/¥525] 発行=蛆虫プロダクション



イスラエル大使館の前で考へたこと



 私小説「パレスチナに献花を」の主人公「シュウ」は正真正銘のニポンの真正右翼でこのイスラエルへのレジスタンスの闘いの市民組織の原形を作ったユセフ桧森を誰もが新左翼と呼ぶのであるが、百歩譲って「極端は一致する」としてもそのガラスと鉄で出来たハートこそこの小説のモチーフなのです。
 
  偶然の出会いでしたが、模索舎の番台のK氏とスクリューパンチと少林寺拳法の直突きについてや演武の間合いを詰める時のボクシングのような縄跳び動作でなく剣道の摺り足が綺麗だとか道場に子供を送りだす父親たちとの立ち話をしながらフッと本当に武道が人間として道を誤らぬよう片隅を照らすという正義感を培うことと同義語だろうかと一分の隙もなくそう思うかと自問していたのです。この小説は「正義」がどちらにあるかということでなく「大義」ということでもなくただ現在進行形で無惨に殺されて行くパレスチナの人々について

 せめてイスラエル大使館の前で考へたことをまとめただけのものです。---長船青治

 



パレスチナに献花を

[2013年3月/四六判/217頁/¥1,400+70] 著=長船青治 発行=れんが書房新社




「カルチャー誌」と言われて、皆さんはどんな雑誌を思い浮かべますか?
「カルチャー」とはすべての文化に当てはまるし、「カルチャー誌」の定義は、人それぞれ違うと思います。筆者に取ってカルチャー誌とは、「サブカル」を扱った雑誌のことです。影響を受けた具体的な雑誌名を挙げると、「STUDIO VOICE」(特に90年代前半のもの)、「QuickJapan」(初期、赤田祐一さん編集長時代のもの)、「relax」(岡本仁さん編集長時代のもの)といったものになります。休刊、廃刊、もしくは、雑誌名は同じでもまったく別モノになってしまったものなど、すべて過去の雑誌です。
 申し遅れましたが、私、2013年2月に「なんとなく、クリティック」というリトルマガジンを創刊しました者です。弊誌は「サブカル」と「批評」をテーマにした「カルチャー誌」で、創刊号は下記のようなコンテンツで構成されています。

山本精一ロングインタビュー/山本精一×小山田圭吾(コーネリアス)/山本精一論(佐々木敦)/浅野いにお『おやすみプンプン』クロスレビュー(橋本倫史、さやわか、磯部涼、吉田アミ、ばるぼら、吉田大助)/瀬田なつき×染谷将太/鶴見済インタビュー/漫画日誌(泉信行)/映画日記(粉川哲夫)/ライブ日記(なんのこっちゃい西山。)

 弊誌冒頭の「“サブカル"の終わりと“批評"の始まり」、という創刊の辞のような文章でも書きましたが、インターネットが普及した90年代後半以降、筆者としては「サブカル」という文化はなくなってしまったのではないかと考えています。そこで、弊誌では「サブカル」に取って代わるのは「批評」である、とちょっと大袈裟に雑誌のコンセプトを掲げております。
 そして、「サブカル」が終わったテン年代のいま、「カルチャー誌」を作るとすればどんな内容になるか、ということを考えながら作ったのが「なんとなく、クリティック」です。こうして創刊号を作り終えてから思うのは、この時代にカルチャー誌を作ることができるとすれば、極めて個人的な興味にそったコンテンツで構成する、そんな1点に尽きるような気がしてます。筆者がいま現在、おもしろいと思っている雑誌も、個人、もしくは、すごく小さな組織で作られたリトルマガジンばかりです。
 そんな思いもあり、「なんとなく、クリティック1(創刊号)」では、筆者がこれまでずっと好きだった方々にインタビューしたり、原稿をお願いしたりしました。今夏〜今秋に発売を予定している次号では、ここ数年で筆者が気になり始めた方々に参加していただければと、現在、構想を練っております。「サブカル」や「批評」という言葉にピンときた方は、ぜひ「なんとなく、クリティック」をチェックしてみてください。

「なんとなく、クリティック」サイト
http://nancri.phpapps.jp/

文/「なんとなく、クリティック」編集・発行人 森田真規



なんとなく、クリティック 1

[2013年2月/B6/197頁/¥1,050] 編=森田 真規 デザイン=戸塚泰雄(nu) 発行=なんとなく、クリティック編集室



『予測不可能な表紙、ほとばしる情熱、はじける肉体、』

色々1ありますが、よって、本誌では毎号三人の作家たちの新作を提示・展示します。

1藝術とは何なのか。そもそも藝術を「見る」とは何なのか。藝術とは所詮いわゆる藝術でしかないのか。こうした疑問に対峙すべく、本誌ではいわゆる藝術に囚われることなく、その領域を脱構築することを試みる。/藝術を「見る」ということに於いては、そこに至るまでに「創り手による創出・提示」を経ることは必須であろう。ならば、そこに紙面上に於ける「展示・解釈行為」を仲介させてみる。「創出・提示」⇒「展示・解釈」⇒そして「見る」⇒……、という循環を生み出し、藝術概念を再考することで(いわゆる)藝術をしている人々をつなぐ行為を藝術行為として提示することが出来るのではないか。新たな藝術概念のために。

 

symposium No.3 スウィング批評誌-つくるをつくる

[2013年3月/A5/22頁/¥350] 特集=掲載作家:佐藤道信、鈴木直輝、西山大基 編=稲葉友汰、名嘉雄樹、山崎泰行 作品撮影=沢田朔 表紙=古賀千香子 発行=Dの3行目

symposium No.2 スウィング批評誌-つくるをつくる

[2013年1月/A5/22頁/¥350] 特集=掲載作家:安藤孝浩、鈴木直輝、満留伸一郎 編=稲葉友汰、名嘉雄樹、山崎泰行 作品撮影=沢田朔 発行=Dの3行目

symposium No.1 スウィング批評誌-つくるをつくる

[2012年11月/A5/18頁/¥350] 特集=掲載作家:古賀千賀子、鈴木直輝、塚田史子 編=稲葉友汰、名嘉雄樹、山崎泰行 作品撮影=渡辺志保 発行=Dの3行目





 今年の2月に布川徹郎氏が亡くなられた。
また9月にはポレポレ東中野で『ドキュメンタリー・ドリーム・ショー --山形 in 東京2012』が開催、NDU(日本ドキュメンタリストユニオン)映画の一挙上映がされ、日参した。
 

 そこで、日ごろからお世話になっているNDUのメンバーである井上修さんにいろいろとNDU関係の資料をお借りできる機会をいただき、この冊子を見つけたのである。再版は、以下の気持ちが強かった。これは、先月、神戸映画資料館でも開催された「第4回神戸ドキュメンタリー映画祭『伝説の映画集団NDUと布川徹郎』」に寄せたコメント。

 「伝説」にするには、早すぎる。
なぜならNDUが提起した既成権力への/運動内への「異議申し立て」は未消化のままだからだ。だから単純な回顧や批評を一蹴せねばならない。もしそれに甘んじるならば、それは最も反NDUではないだろうか。NDU機関誌「モトシンカカランヌー—企画書にかえて」(1969年7月刊)に「映画と映画を観る人間との間に夥しいスパークを発生させるような映画でありたい」とある。NDUの実践と思考の連続性は、鑑賞者を何かへと駆り立てる。またそれは、今日の「右」でも「左」でもないという曖昧な批評態度から発する閉塞的状況を解体する突破口であると私は確信している。私の発言に嫌悪感を示すならば、とにかくNDUの映画を観てから判断してほしい。ナショナリズムに対するインターナショナリズムの映画がここにある。

 NDUは、早稲田大学の反戦連合から生まれた映画集団。そこには、放送研究会、出版事業研究会(出研)、カメラルポルタージュ研究会(カメルポ)などのさまざまなメディア活動をしていた集団が集団となったのである。今年作られた特製パンフレット『伝説の映画集団NDUと布川徹郎』に収録されている井上修氏の論考に詳しい。そこは「無思想・無節操・無展望」のナンセンス・ドジカルをモットーとしていたそうだが、いやいや、NDUの映画はもちろん、この冊子や『映画批評』に掲載された論考もしかり、出研の発行していた『闇一族』からも、当人らの思惑を超えて鑑賞者・読者はつき動かされるのである。この薄い冊子にもその誘発剤は含まれている。
なにより、映画を見てなんぼである。この冊子を読んで映画上映を企画することもアリだ。
 

『モトシンカカランヌー』の完全版がない今、見つけ出すきっかけを、とも思っている(あらゆるNDUメンバーの活動をも)。なにかしらの情報をお持ちの方がいたらご一報を!!!yoshihide1981t@gmai.com

田中芳秀 



NDU機関誌 モトシンカカランヌー 〈再版〉 企画書に変えて

[初版1969年7月/B5/12頁/¥500] 発行=日本ドキュメンタリストユニオン〈N.D.U〉



 どうも初めまして。私、モンドリアン島野と申します。よろしくお願いします。タイトルにもあるように新宿西口には輸入DVD販売店《ビデオマーケット》がございます。こちらは海外直に取り寄せている日本では貴重なショップです。ネット時代とはいえ海外業者とのやりとりは私たちにはちょっと手を出しにくい、という意識がありませんか?そういうユーザーにはこうしたショップは大変嬉しい存在です。私自信も数年こちらで店員をしていたこともあり、これまでマイコレクションとして蓄積されたDVDが一部屋を占拠しており、我ながら呆れております。そんな海外輸入ものでジャンルはジャーロ、カルト、イタリアのモンドもの、エロチックホラー、ブラックエクスプロテーション、パペット残酷ホラー、バーレスク、ストリップはては見世物小屋のような胡散臭いもの…といった個性の強い作品をセレクトして紹介するのが本冊子の内容です。

 インパクトのある作品からテーマを決めて(例えば殺人の方法についての視点とか見世物根性の強力な作品とか)一風変わった切り口で多くの作品を分析してみようと思います。 各監督はどんな絵作りが好きか、また奇抜な表現方法やトリッキーな撮影で印象的なシーンとかを僕なりに分析して、おもわず読んだ人が見てみたい、と思うような文章を目指しております。気になった方はぜひゲットしてみてください。基本音声イタリア語字幕は英語のみとか多いですがなるべくあらすじを挿入して鑑賞の手助けになるよう心がけました。読書の喜びは同じ本を何度も何度も読み返すことにある、とも言いますがいい映画も何度も繰り返して見ることが視覚の喜びではないでしょうか?そして何度も繰り返してみるうちに重箱の隅をつつくようないやらしい視点が培われ、思わず突っ込みたくなると同時にますますその作品が好きになっていくのです。しょっぱなはマリオバーバ監督作品をじっくり観察しました。ご感想など頂けたら幸いです。(モンドリアン島野)



映画の生態観察 1 新宿西口ビデオマーケット常連が書いた僕の夏休み自由研究

★輸入DVD専門店新宿西口ビデオマーケットの常連である著者がこれまでの主にホラー部門をメインントした面白映画コメント集。特徴は国内版DVD 未登場の主にイタリアンホラー中心の作品紹介で理解のあらすじ付き!!//恐怖3部作 電話 ウルダラク 一滴の水/呪いの館/死肉のダンス リサと悪魔/モデル殺人事件/処刑男爵/悪魔の焼却炉/ザ・ショック
[2012年10月/A5/20頁/¥800] 特集=マリオ バーバの巻 著=モンドリアン島野 



 季刊雑誌「kototoi」は、2011年の11月に生まれました。発刊理由やいきさつを考えても、まさに「3.11以後」の雑誌だと思っています。めざしているのは、「日常に“詩”を取り戻す」こと、そして、「暮らし・生きかたのデザイン(作り直し)」です。
 私は、いままで、思潮社、NTT出版という出版社で編集者をしていました。吉本隆明さんや鶴見俊輔さん、大塚英志さんなどの担当をしていました。でも、会社への違和感が強くなり、最後は心の病になって、退職しました。
 その後、フリーの編集をしていましたが、3.11が起きて、いま、自分で出版社をはじめなければ、という思いに駆られたのです。
 私は詩の出版社にいたので、もともと詩を大切にする気持ちはありました。でも、私が考える“詩”は、専門の詩人が書くような技術的な詩やオタク的な詩のことではなく、誰もが生きかたのなかにもっている“詩”のことです。魂やソウルとも言い換えられるかもしれません。そんな“詩”が日常に溢れることが、私にとっての、3.11にたいする何よりの精神的復興だと思いました。そんなことで、「kototoi」は、「日常に“詩”を取り戻す」ための雑誌をめざしています。
 もうひとつは、3.11以後の「ダウンシフト」という流れです。脱成長的志向といってもいいかもしれません。一言でいうと、大きなシステムに寄りかからず、「自分たちの暮らし・生きかたを自分たちでデザイン(作り直し)ていく」、という動きです。そのための知恵を、「kototoi」のなかで集めていきたい、という思いがあります。
 「kototoi」自体が、「顔の見える出版流通」もめざしています。取次などの大きなシステムだけに頼らず、直接購読と特約店をとおした、小さな流通をよりどころにして成り立つようにしたい。まずは、自分たち自身が小さく、ともに自立したい、という気持ちがそこにはあります。初版500部を妻が和綴じで手作りして届けていることも、そのことと関わっています。「kototoi」は、内容的にも、「ちいさな総合誌」を謳っています。 
 私は、吉本隆明さんや鶴見俊輔さんたちの世代から大きな影響を受けました。その世代がいなくなったあとの、文化の欠落感の大きさについても考えることがあります。その世代につづく、あたらしい文化をつくっていけたら、という気持ちがあるのも事実です。もちろん、私たちなりのあたらしいかたち、にはなると思いますが、いまの30代以下の若い世代があたらしい文化をつくっていかなければいけない、という思いがしています。そうしたインディペンデントな流れに「kototoi」自身がなっていけば、と思っています。
 あたらしい社会や文明の在り方を提示する、「巨きな知識人」はもういません。でも、3.11以後はとくに、いまの日本の現代社会や先進国の文明の在り方そのものへの違和感を募らせている方が多くなっているように思えます。「kototoi」が、そうした方々—しなやかな力をもつ、ちいさき者—が集い、お互いに知恵を持ち寄るような場所になれば、嬉しいです。 
 今後、「kototoi」を中心にして、単行本、自費出版、講座、イベント、あるいは畑や田んぼもふくめ、幅広い意味での文化的な活動を産み出していけたら、と思っています。

菊谷文庫代表 菊谷倫彦



kototoi 第三号

目次:中村征夫インタビュー「まったくちがう星である海のこと」/吉本隆明インタビュー「固有値としての自分のために 第三回」/五味太郎「往復書簡」/土沌虎坊 詩「星」/若狭麻都佳 詩「夢原罪2」/ナガイケジョー 小説「無調アンサンブル」/小口広太 エッセイ「小さい農業の現場から」/勝俣誠エッセイ「カリブ海からーコトバの獲得に向けて3」/中野佳裕 評論「脱成長の美学に関する覚書2」/高坂勝エッセイ「うつらうつらテツガクする−第三回他幸が我幸、我幸が他幸」/ダウンシフターズの試み「電力自給への道」/域のことば「南相馬世界会議」
[2012年7月/A5/133頁/¥2,150] 発行=菊谷文庫



 2012年3月29日から4月4日まで、東京・練馬にあるブレヒトの芝居小屋(東京演劇アンサンブル)で、「洪成潭5月版画展ひとがひとを呼ぶ」を開催した。1980年5月の光州民衆抗争を描いた「五月連作版画- 夜明け」全50点を詩とともに展示し、その場で朗読やパフォーマンス、二日にわたる対話をおこなった。実行委員会は20代から70代までさまざまな仕事や活動をする22名(うち半数は劇団員)である。
 当初は2011年5月に開催する予定だったが、〈3・11〉が起こり、大きくゆらぐ日本社会において自分たちの現状と問題点を認識しなおして展覧会をすべきだろうと延期をきめた。一方、洪さんは〈3・11〉直後の福島にいた。そこで見、感じたことを、のちにわたしたちは彼からの一通の手紙で知る(本書収録)。そこには、福島の悲劇を生んだのは日本政府や東京電力だけの責任ではなく、日本社会を生きる者すべての責任であることをしっかり考える機会だという指摘もあった。わたしたちはそれを受けてプレ学習会をおこなった(雑誌『戦争と性』30号、2011年秋号掲載)。
 それから1年、今年3月27日、羽田空港から電話があり、高田馬場駅改札口で待っていると、大きなスーツケースにリュック、紙を丸めた太い束を両手でかかえた洪さんが降りてきた。「絵はそれを必要とする現場に生きて動いていかなければ」という彼の言葉どおり、五月版画はブレヒトの芝居小屋に来てくれた。翌日、その包みを開けると、段ボールとガムテープでここまで美しい装丁ができるのかと思うほどきれいに版画の枠がつくられ、四隅を虫ピンでとめればいいということにも驚いた。展示作業を終え、朗読とパフォーマンスのリハーサル。洪さんはまるでここに昔からいる演出家のように次々に指示を出す。薄暗い芝居小屋の壁に直貼りされた版画に囲まれて詩の言葉と向き合うことは、わたしたちの現実とひびきあう貴重な体験だった。
 展覧会後、版画集をつくる過程でも、さまざまな再発見があった。まず版画の印刷は作家の希望により、版画を刷った時点でのムラやカスレも含めてリアルに再現するよう努めた。そのため、かえって当時の切迫感・臨場感を感じられるものとなり、洪さんが仲間たちと夜明けまでスプーンで版画をこすっている情景まで浮かんでくるようだった。
 また、これまでの版画集を見るかぎりすべてが木版だと思っていたが、大半がゴム版だったことがわかり、その理由とともに驚いた。しかもそれを一点一点確認する作業は困難をきわめた。木版かゴム版か、サイズ、制作年も複数のデータがあり、彼も混乱しているという。なぜか。すこしずつうかがうことができた。80年代末に洪さんらが制作した巨大なコルゲ・クリム(掛け絵)〈民族解放運動史〉が韓国各地の大学を巡回し、朝鮮民主主義人民共和国平壌(ピョンヤン)で開催された世界青年学生祝典にネガフィルムで送られ展示されたことなどから、洪さんは国家保安法のスパイ罪で指名手配となった。スパイ罪とはどれほど恐ろしい罪状であったか……。逃亡生活のなかで版画を制作してはその場に原版を残さざるをえず、そのまま行方知れずになってしまったもの、KCIA が版画原版を押収し、いまだ返却されていないものもある。投獄直前まで彫りつづけ、みんなで刷った版画は「催涙弾まみれの版画」であるだけでなく、原版もまた歴史のなかで翻弄されたものだったのである。洪さんは、「これがわたしの人生であり、わたしの運命」、これからも「わたしの芸術の道はけっして変わらない」と語る。
 本書は、五月連作版画全50点を、一点一点、詩(徐勝訳、原詩・英訳付)とともに見開きで掲載し、対話の記録やエッセイを併録。対話「〈あなたとわたし〉のために」では、「光州コミューン」と作品誕生の詳細や民衆文化運動、芸術の意味、洪さんが沈黙のシステムと呼ぶ〈3・11〉後の日本社会の状況を論じつつ、いまわたしたちに必要な「抵抗」の内実を探った。
 10月現在、福岡アジア美術館「民衆/社会運動」展で五月連作版画が展示中(12月11日まで)なので、現物から立ちあがる力、その息づかいに出会ってほしい。また、本書を見た韓国の人たちが、五月版画の今日的意味を問いなおす研究会を立ち上げ、その成果をふまえた展覧会を来秋、韓国で開催する計画があるそうだ。12月には、ブレヒトの芝居小屋で読者との “出版のつどい”やブックカフェをひらく。そこで新たなパフォーマンスも試みる。ひとがひとを呼ぶ——書名のように、五月版画はふたたび、ひとを呼んでいる。
 洪さんも言うとおり、東アジアにはいま「不吉な風」が吹いている。日本は、日本社会で、アジアのあちこちで人びとの死や被害を置き去りにしたままだ。沈黙しているわけにはいかない。
 ほんとうに〈あなたとわたし〉と語れるような、そのうえで〈あなたとわたし〉を守るために、どのような抵抗ができるのか。抵抗をとおした共同性はどうすればつくれるのか。
 五月連作版画と洪成潭さんの「記憶の闘争」は、そのことをわたしたちに問いかけているのだと思う。

岡本有佳(編集者。五月版画刊行委員会 damten518@gmail.com●facebook.com/damten518)
 



光州「五月連作版画-夜明け」 ひとがひとを呼ぶ

光州コミューンから生まれた版画集/版画全50点/原詩(韓国語)、英訳付//目次:光州「五月連作版画-夜明け」/夜明け、そして祭祀 光州「五月連作版画-夜明け」によせて=古川美佳/黒い苦痛のなかでのみ、輝く新たな日を見ることができるのです=洪成潭/対話〈あなたとわたし〉を守るために:抵抗の想像力=洪成潭×高和政/抵抗の創造=洪成潭×中西新太郎/
[2012年10月/A5/182頁/¥2,940] 版画・詩=洪成潭/日本語翻訳=徐勝/英語翻訳=尹浚 発行=五月版画刊行委員会 (発売元=夜光社)



 3・11以来、反原発の大きなうねりが全国的に広がっているが、その前に立ちはだかっているもののひとつに、電力会社や原発メーカーの意を体した労働組合と、それらを主力とする連合の存在がある。本書では連合を帝国主義労働運動と規定し、それを打倒することが労働運動ひいては日本社会の根本的変革にとって不可欠であると主張している。そのために、連合「内」の左翼分子が自らを左翼反対派として位置づけて独自の闘いを組織すること、連合「外」の労働者があるべき労働運動の姿を連合「内」の労働者に実践的に示すこと、さらに前者と後者が共通の課題に連帯して取組むことによって連合を追いつめていくという戦略を提起している。
 つぎに、新自由主義によって格差と貧困が急速に広がり、労働者が数百年にわたって血と汗で獲得してきた諸々の権利が一挙に奪われようとしている。正規労働者の半分以下の賃金(生涯賃金では四分の一以下)と不安定な身分の非正規労働者の存在が、生産や流通現場の主流になりつつあり、トヨタやパナソニックを頂点とする日本資本主義の利潤の源泉をなしている。しかし、彼ら彼女らは当然のことながら企業に対する忠誠心などカケラほども抱いていないし、技術の伝承という側面でも甚だ危ういものがある。安上がりで使い捨て自由の非正規雇用こそ、日本資本主義にとってアキレスの腱なのである。
 一方、結婚もできない子供を産むこともあきらめざるを得ず、人生設計を描くことなど到底不可能な状況と社会全体を覆う閉塞感は、それをぶち破る力を持っているかのような動きに対する幻想を醸成する。若年の低所得者層が大阪市長橋下某の支持層を構成する大きな要素であると指摘されている。数年前の小泉ブームの支持層にも非正規雇用の若者の大半が含まれていた。在特会のデモの参加者の多くは、ごく普通の若者、つまり非正規労働者である。よく知られているように、ナチスは急速に没落した中産階級と大量に生み出された失業者の不満を、排外主義と組織労働者に対する攻撃に向けて組織して権力を奪取した。
 本書は、このような情況を踏まえて、非正規労働者の大群を、急速に抬頭してきたファシズム的勢力が獲得するのか、それとも新自由主義と対決する労働運動が自らの一員として組織することに成功するのかが、今後の労働運動と日本社会に行方を決定づけ、さらには日本における革命のカギを握るという認識に立っている。このような考え方から、地域ユニオンは個人の意志にもとづいて結集し地域社会で活動し民衆諸層と連帯を深めることができる特性を活かして、日本帝国主義の土台を蚕食する大衆組織として自己認識し、既成の労働組合の活動家は二重加盟してその運動を前進させるべききであると主張する。
 本書はさらに、アジア・太平洋戦争を日本の労働者階級が阻止できなかった物質的根拠と思想的背景を歴史的に検証している。そして戦後日本労働運動の分水嶺をなした三池闘争を内在的に分析し、今後に生かすべき教訓を示している。
 総じて本書は、左翼の運動を厳しく総括した論稿がほとんどを占めているが、1930年代の日本共産党「多数派」と大阪・港南の闘い、および「京浜グループ事件」については、反スターリン主義の実践的萌芽として積極的に評価し、その内実を力を込めて描いている。これらの闘いは、一部でしか注目されてこなかったが、キナ臭い匂いが感じられる最近の情況下で、その教訓がさらに深められ左翼運動全体に共有される必要がある。
 以上は、いずれもかつてマイナーな雑誌に寄稿したりブックレットというかたちで発表したものである。オリジナルな作品は、「岸本健一著『日本型社会民主主義』についてのメモ」および「左翼労働運動の『卓越したオルガナイザー』三田村四朗についての研究ノート」の2本である。
 前者は、同書を労働者階級の基本的組織である労働組合と労働者政党の関係を実証的に追及した必読の書として評価しつつ、歴史的事実との異同を克明にフォローして、その理解を深めるために書いたものである。
 後者は、著者の旧作『浜松・日本楽器争議の研究』(1980年、五月社)で対象化した左翼労働運動の典型的な指導の担い手・三田村四朗のパーソナル・ヒストリーの試みである。
三田村に関するいくつかの新事実を発掘し、それを切り口に、戦前から敗戦直後の共産主義運動の問題点を内側から照射した。
 76歳になった著者が、かつて総評の地方組織の常任として活動した経験に裏打ちされて、その過程で執筆した作品の集大成である。労働運動、社会主義運動に携っている人たちの批判を期待する。

大庭伸介



レフト 資本主義と対決する労働者たち 左翼労働運動の総括と展望

[2012年7月/A5/609頁/¥2,500] 著=大庭伸介 自費出版

宮鼓撫子『賣國倶楽部』



 『賣國倶楽部』、新漢字で綴れば『売国倶楽部』。表紙に紅衛兵とチャイナ娘、裏表紙には首輪とセーラー服を纏って微笑む少女…。初めてご覧になる方にとっては、一体何が『売国』なのか、さっぱり訳がわからないであろうこの同人誌について解説します。

 もともと『賣國倶楽部』の前には『愛國倶楽部』(全四巻)というイラスト合同誌を発行していました。戦後しばらく左派が優勢だった日本で、ゼロ年代から現在にかけて保守化が進む中、日中〜太平洋戦争や江戸時代の拷問を取り上げ、日本の狂気、すなわち自国の負の歴史を振り返る事で、レトリックのみに頼らず、愛国心を見つめ直そうという逆説的な試みです。

 今回の『賣國倶楽部』では、番外編として他国の狂気を取り上げているため、『愛國倶楽部』の対義語として名付けられました。宮鼓が旧ソ連と中国の共産主義、撫子凛が西洋の拷問を取り上げています。国内も国外も、右派も左派も、正義も悪も、どのイデオロギーも激しさを増せば行き着く先はみな同じ”狂気”であり、『愛國倶楽部』も『賣國倶楽部』も表題は違えど、テーマはそれぞれ一貫しています。
これらの同人誌が作られた動機は、日本文化をこよなく愛する著者ふたり、宮鼓と撫子凛のフラストレーションを発散するためと言えます。

 神前結婚よりチャペルウェディング、潅仏会よりクリスマス、日本美術より西洋美術が主流である現代日本。日本人でありながら和風趣味がマイノリティであり、近代化に伴い、ごく当たり前のように西洋文化が優先される現状で、我々は一体どこに身を置けばいいのか?身の置き所がないのなら、自分たちで作るしかない!こうして奮起し、合同サークルを結成、『愛國倶楽部』『賣國倶楽部』制作へと至りました。
日本の若年層の政治的無関心、選挙率の低さが危惧されている今、保守化が進んでいるとはいえ、果たして日本文化が再び主流となり、回帰がなされる日はやって来るのでしょうか。グローバル社会への適応と、民族アイデンティティの中で揺れるアンビバレンス……そんな心情を吐露した著者ふたりの憂国対談も、『愛國倶楽部』シリーズには収録されています。

 一見危うげなタイトルでありながら、幸いにも読者の皆様からご好評を頂き、『愛國・賣國倶楽部』全シリーズ合計5冊まで発行する事ができました。
双方これにて完結ですが、宮鼓・撫子凛、両名ともに同人以外でもそれぞれ日本をテーマに作品制作を行っています。

ネオ昭和画家 宮鼓
http://jd-loge.heavy.jp/
「形而上の世界に興味を抱き、近代史、神話、民俗学、有職故実などから着想を得て、夢幻と空蝉を生きる少年少女を描きます。」

◆大和乙女画家 撫子凛
http://nadeshicorin.com/
「おんなの内面に潜む強さを、艶やかかつ官能的に表現したいのです。聡明で毅然としているおんなは美しい。」

文/宮鼓  



賣國倶楽部 宮鼓×戦争 撫子凛×拷問 合同誌

[2012年9月/A5/18頁/¥400] 著=宮鼓/撫子凛 発行=宮鼓撫子

中南米マガジンと模索舎の店員さん



 中南米マガジンを創刊した頃、私は模索舎という存在を知った。どんな本でも扱う、取次を通していない本でもOkという書店ということだった。どんな書店かよく知らなかったけど、でも中南米マガジンを扱ってくれるならそれでも結構、死にゃしないよと考えて、夜の新宿に繰り出したのだった。

 いまでもはっきり覚えている。暗くて、ゲバラやトロツキーが睨みをきかせる店内には勇ましい言葉がおどる文字ばかりの新聞が山のように並ぶ。誰が読むのか? と思うがよくわからない。高卒の私には正直縁のない世界だった。その奥にいたのがAさんという女性の店員さんだった。中南米マガジンを扱ってほしいというと、即OKの返事。それ以来、模索舎への納品は続いているのだが、その頃の店員さんはそのAさんともうひとりBさんという人だった。Bさんという人は「モテない男通信」(という名前だったろうか?)というミニコミ誌を作っている由だった。

 Aさんはかわいい女性だった。その頃私は書店営業ということをし始めたばかりで、女性の書店員さんに対しては容姿や能力をほめるべきだ、それが営業だと思っていた次第だった。それに模索舎は客が一人もいないという時が多かったから遠慮はない。「美人だ」「かわいい」「アイドルみたい」などと大げさに彼女を褒め、旅行人の隣に置いて欲しいとか、平積みにして目立たせてほしいとか、ほかのグッズも置いて欲しいとかさまざまな要求をした。「中南米マガジン、ほかに置いてくれる店ないすかねえ」と聞くと、中央線沿線の店をいくつも教えてくれたので、「Aさんは中央線沿線にお住まいかも?」とひとり想像もしてみた。

 ところが、そんなAさんとの別れはやってきた。知らぬ間にお店をやめられていたのである。今でも、彼女がここに置いたらといった店の前を通ると、彼女がひょっこり通りの角からあらわれるような気がする。

 彼女がやめたあとやってきたのは、もう名前は忘れたが、非常に特徴的な顔と体型を持っていた男性だった。模索舎にいくと様々な性癖を持った方が雑誌を作っていらして、実に世間は広いなと思ってしまうのだが、同性愛の方で太った体型がお好みの士が集う雑誌があるらしく、わたしはその雑誌の表紙に不安を覚えながらちょっと中を覗いてみたいと思いつつ中を見る勇気がないのだが、その表紙から抜け出たような顔と体型の人だった。

 だがそのすぐあとにやってきた女性が可愛かった。Cさんという人だった。名前からしてあだち充の漫画を彷彿とさせる女性だった。一度だけ、自作の漫画を見せてもらったことがあるが、若い女性が書くにしては意外な感じの画風だった。残念なことに、Cさんとの思い出は数少なく、しばらくしてCさんは模索舎を退社された。

 中南米マガジンも15周年を迎えた。模索舎だけでもこれだけの出会いと別れがあった。今年は、2冊目の単行本「職業はラテンアメリカ」という、日本においてラテンアメリカで起業した人を取材した本を発売する予定である。えー、7月28日にそんな思い出話&これからの展望を語る会を模索舎でやるので、みなさん来てくださいな。

 

〈イベント〉中南米マガジン15周年記念 いままでの思い出をすべて語るトークイベントだよ!

7月28日(土)18:30〜 模索舎にて

 

中南米マガジン24

[2012年2月/A5/72頁/¥500] 編=金安顕一 発行=中南米マガジン

中南米マガジン23

[2010年1月/A5/72頁/¥500] 編=金安顕一 発行=中南米マガジン





「私は西成の黒猫こと、まちゅこけといいます。」

チャーム!
トウキョウのみなさまハジメマシテ。
私は大阪 西成の伝説、チャーム黒猫こと「まちゅこけ」といいます。
私は全国各地に、西に東に、
ギターにドレスで腕ぶん回してチャームかましてロックするのが仕事です。
それが私の「西成から世界に!」というロックンロールです。

まずは私のホームグラウンド、マイスウィートゲットー西成の話をします。
おひけえなすって!
大阪は西成、西成といってもひろうござんす、西成は釜ヶ崎でござんす。
釜ヶ崎。
「日雇労働者への配給食料を調理するために釜で炊き出しをすることから釜が崎と呼ばれたとするもの
などがあるが、後者は俗説であり、日雇労働者の寄り場がこの地区に形成される以前から存在する名称である。」
BY ウィキペディア
ふむふむ。ウィキぺディア先生は何でも知ってござんすね。
寄り場?寄せ場。ドヤ街。つまりはヨセバなんでございやす。
私はそこでチャームにロックをおもくそカマ(釜)してるんでございやす。
そんなワタクシまちゅこけのまちゅこけによるまちゅこけをつらつらとつづらせていただきやす。

釜ヶ崎のまちで歌うこと
ワタクシがはじめて釜ヶ崎に歌いに行ったときは、ほんまやってまいましたわ!
なんでって、まずステージに立った時のおっちゃんらのエナジーの量。
何百人もの人生の量を一気に浴び、そこで私はびりびり感じた気がしました。
すいもあまいも悪いも善いも裏も表も経験してこられたであろう、パイセン達の前で、
ほんのチャーム小娘の私が何歌うねんって
わからんかったけど、「ナメンじゃねえ」って態度だけは貫き通して歌わせてもらいました。
今思うと歌はへたくそやったな〜。ほとんど誰も聞いてくれてへんかったと思います。
野次がすごかったんすよ。女に対しての汚い野次とか。

ほんで、ついに逆ギレしてもうて。
「おまえらちゃんと聞いてんのか。ボケーーーーーーーーー!!!!!!!」って。
いやーーーーーーー。その後、関係者にめっちゃ怒られたっすけどね。
「おまえは差別しにきた」とか言われて。

結局、そのお祭りには出れなくなってんけど、(後に和解)釜ヶ崎でやっている別のおまつり
「寄ってき」まつりでその後歌わさせてもらう事ができたから毎年参加して歌い続けることが出来たんです。

釜ヶ崎って、はたからみたらクレイジーな奴らがいっぱいおってこわい場所やっていうイメージがあると思うんですけど
私は、歌っていくことでこの町の人たちの魅力にたくさん気が付いたんです。
おっちゃんら、とにかく耳肥えてはる、歌詞に対決しにきてくれるんです。
ホンマちゃんと聴いてくれてはるんですわ。
おもんないことしたら「おもんない」ってはっきり言わはるけど、こっちが本気で歌ったら本気で応えてきはるんです。
エライ本、ヤバイ本読んだらありがたい言葉出てくるけど、おっちゃんらの言葉の中にはヨソで聞けん名言がたくさん出てくるんです。
それはどんなコトバかというと、まあ秘密です。
トイレットペーパーでも高級菓子の包み紙になるし、折鶴も教えてもらう。
まあ、皆様ほとんどパイセン方なのでいろんな事教えてもうてるんです。
とにかく人や社会との繋がりの愛おしさを切実に感じるんですわ。
飲みこんだ分の悔し涙が背中をつたって流れてんです。それが汁なんです。
だからこそ、ワタクシまちゅこけはここのステージに立つ事の重みを毎回感じながらチャームに歌ってるんです。

チャームについて
そしてワタクシまちゅこけ。よく「チャーム」て言うてるんですけど
チャームを説明するのはトイレットペーパーの先っちょを折鶴にせなあかん事くらい、難しいことやねん。
まずファーストアルバムのタイトル「世界をチャーム」。
チャームってつけたら何でもかわいくなるし、みんなで声合わせて言ったら、なんかごきげんやん?

年齢言うのちょっとためらう時に使うんもよし→四十 チャーム 二歳です。
くそみたいに最悪な出来事、またはくそみたいに素晴らしい出来事に対して使うんもよし→ファッキン チャーム
悲しくて涙がとまらないときに使うんもよし→涙(なだ)チャーム
テイク イット チャーム。シッキング チャーム。怒チャーム。起立 例 チャーム。
使い方はたくさんあるので、応用して使ってみて下さい。
グレイト チャーム!

みんな、読んでくれてありがとう!
シーユーチャムチャム!
友達欲しい!みんな大好き!銭湯大好き!

〈CD〉愛を告げぬは/まちゅこけ

[2011年4月/¥1,500] 《独唱パンクレーベル》 ディレクション=シルキー藤野 

〈CD〉世界をチャーム/まちゅこけ

[2008年1月/¥2,200] 《独唱パンクレーベル》 (発売元=ピープルレコーズ)



小説家Roger Matsuoka緊急インタビュー。



小説家Roger Matsuoka緊急インタビュー。
イケメン評論家・沖直実がイケてるメンタル作家に直撃!

—さあ、それではロジャーについて、あれこれ聞いていこうかなと。
Roger Matsuoka(以下:ロジャー) よろしくお願いします。
—1978年生まれってことは? 今年で?
ロジャー 34になりますね。
—27歳の時になんか衝撃を受けてこの世界(小説家)にって聞いたんですけど
ロジャー そうですね。漠然としていましたが、たまたま当時バイト先で知り合った子に差し出された小説がきっかけで読むことにハマりだして、気がついたら書き出しちゃったって、そんな感じですね。
—ちなみにそのときのビビっときた作家さんは?
ロジャー 中島らも、ウィリアム・バロウズですかね。もちろん純文学もそれなりに読みましたけど、なにせこの人らの衝撃度が違いすぎた。まあ、そこからシュルレアリスムやポストモダンの作家を読み込んでいくんですけど、あ、ドン・デリーロやピンチョンも好きですよ。
—いま若い人って活字離れが顕著じゃないですか。ロジャーは昔から読書家だったの?
ロジャー 活字大っ嫌いでしたね。
—え(笑)。じゃあなんで書こうってなったの?
ロジャー おそらくですね……自分の中の表現手段としてこれしかなかったのかなって。—いや、ぶっちゃけて私は昔のロジャーも知ってるのでなんだけど、当時からドラム叩いたり色々とやっていたじゃない? タレントマネージャーやりながらさあ。それがなんで小説家っていうところに落ち着いたんだろう?
ロジャー それは……(少々言葉に詰まる)自分でも日々考えちゃうんですよね(苦笑)
※3作目について

—昨年でしょ? 小説家宣言したのは。
ロジャー ですね、はい。
—ただ、1年ちょっとで3冊刊行って、ペース早くない?
ロジャー どうなんでしょう(苦笑)流れです。
—最新作のタイトルは『接吻奇談』ですが、このネーミングのきっかけは?
ロジャー これは昨年、町田康の『くっすん大黒』を読んだ際にタイトルに感銘を受けましてね(笑)、そんでこの語呂っぽい語彙を考えていたんです。そしたら『接吻体質』って言葉が浮かんじゃった。次の瞬間にもうPC向かってましたね。キーボード叩いてた。ちなみにですけど、当初はこれコメディだったんです。24時間以内にキスしないと死んじゃうみたいな軽いノリで。それが書き始めるうちにダークな雲行きになってきて、最終的に世にも奇妙な小説になっちまったっていう(笑)。下読みしてくれた5名から同一の意見ばっかりなの。「これ風変わりだ。奇妙だ」って。じゃあ、そっちの方向でタイトルも奇談て付記してその路線でいこうってなった。
—ところで表紙がとても素敵なんですけど、これは?
ロジャー イラストレーター・望月宗生さん渾身の作品です。もう初めて彼の作品を見た瞬間に「コレだ!」っていう直感があったんですね。それで文芸関係のパーティがあった際に話が出来てそれを契機に、念願叶って本作に結実しました。ほんと感謝してます。
—表紙の説明とかは?
ロジャー 特にしませんでした。望月センスを100%信じていましたから。下読みをした段階でもうイメージは固まっていたみたいですけど、委ねました。
—なんかね、手に取ろうって気になる。女性が惚れるイラストなのよ。
ロジャー 望月さん自身、女優のイラストを描いたりしていますからね。それにしてもシャープペンだけでここまで繊細に描けるなんてほんとすごいですよ。

※小説ってどう書くの?

—そもそも小説って実体験ベースで書くの? 想像から?
ロジャー 結局目で見て耳で聞いて脳で感じて記憶に格納されたことが文字になるものなんだなって、自分の場合はそっちだって思いますね。たまさか自分の作品を読み返すと、ああ、ここはリアルだなって多々ありますよ。ただ、書いている時って、何かに取り憑かれているから、よく分かっていないんだと思うんです。
—あ、そんなにスイッチ入っちゃうんだ。
ロジャー はい。なので後で、なんでおれこんなこと書いたんだろう。この表現とかゼッタイ素面じゃねえよなって思うことはとても多いですよ。
—すごいねえ。
ロジャー 気がついたら手が先に出ているっていう感じなんですよね。大枠だけ決めてあとは好き放題白紙を埋めていくっていう。仔細なプランは特にないんです、いつも。
—ふむふむ。そうですか。

※『接吻奇談』のあらすじって?

—ズバリ、これから読む方にあらすじなんかをざっくりとコメントできるかな?—
ロジャー はい。この話は平々凡々と普通の社会生活を営んでいる新入社員の男(新婚)が、ある日を境に突然「曰く付き」の村に営業することになると。ほんとざっくりですけど(笑)、奇妙な小説です、ハイ。
—すぐ読めちゃいそうな感じで。90ページぐらいだし。
ロジャー かなり削りましたよ。初稿段階は120ページ以上ありましたもの。
—そうなんだ。前作にあった戯曲タッチの『掃除屋ジョニー』とはまた違った感じだものね。
ロジャー そうですね。前作、前々作に関してはもう自身に於ける内面爆発をやり尽くしたんで、本作のようにより普遍的な内容に終始した感はありますね。
—そうよね。1作目なんか特にもう、親には見せられないっていう感じで、禁止用語満載でもう完全アンダーグラウンド小説だったけど、今回は率直に違うなって。
ロジャー さすが、ねえさまは鋭いなあ(笑)。
—どうやって92ページも書けるの?
ロジャー 思いつきです。
—思いつきで書けるの?
ロジャー はい。
—へえ〜。ちなみに今後これ書きたいとかテーマはあるの?
ロジャー ええ。いま12コのストックがありまして、来年刊行予定の4冊目はもうそろそろツメに入っています。風俗嬢とHIVに絡んだ話なんですけど。そのあとに掌編集も控えていたり、またそのあとに鬼のように長い作品を書こうとかもう、目白押しですよ(笑)。とにかく書くことがいま楽しくて仕方がない。
—今回Roger Matsuoka初めての人ってとても多いと思うんだけれど、なんだろう。どうして書き続けられるのかっていう、自身のポテンシャルは一体どこまで把握してんのかな?ロジャー これに似た質問が冒頭にあってさっき少し黙っちゃいましたけど、う〜ん、やっぱり自身最後のパフォーマンスが小説を書くことなんだなって思いますね。小説家にならざるを得ない状況を自分で作り、そこに追い込んだ自分もまた存在しているワケで。
—最後に今後の抱負、夢を聞いてみたいな。
ロジャー より多くの人に自分の本を手にとってもらい読んでもらうこと。そしてその読者の心になんらかの影響を起こしたいなって思います。パワーとか感動とかいわゆ情動を起こせたらいいですよね。自分の作品読んでなんらか感じてくれたら小説家冥利に尽きます。
(2012年5/20 東京・幡ヶ谷にて)

※インタビュアー:沖直実(イケメン評論家)
2004年から企画・プ口デュ−ス・演出・司会を担当する「いい男祭」を開催。
毎回、立ち見がでる観客を動員。大好評を博し今年6月には第12回を迎えた。
城田優、上地雄輔等をいち早く発掘。以後、ネクスト・ブレイクを発掘、発信するべく
日々走り回っている。私生活では41歳で第1子、44歳で第2子を産んだあきらめない女代表。フジテレビ『ノンストップ!』イケメンコーナーにも出演中。
 



接吻奇談 ーseppun kidanー

―梗概― 湖を望む片田舎な町、神奈川県相模裏市漁火町。 新人営業マン小杉圭介は、今日も学習教材の営業に精を出している。 ごくありふれた平凡な日常。愛妻との安息。変化の無い毎日が普通だったそんなある日、同僚の頼みで圭介は狐町の営業に向かうことになるのだが、このあたりから徐々に奇妙な光景が彼の脳裏に現れては消えていく。彼が最後に目にした現実とは一体……。

自らの内面をこれでもかと吐き出した過去2作の奈落時代から一転、ペンネームをRoger Matsuokaに変えて刊行された通算3作目。氏のお家芸である独りよがりの文体破壊は影を潜め、より普遍的な小説に終始した1話完結の短編作品。 読み進めるうちにクセのあるフレーズが脳内を巡り、否応無く奇妙な世界へ誘ってくれるキッチュな側面を保ちつつも、結局は読者による玉虫色の解釈がキーであるというRoger氏の作風は「やはり独特であり、変態である」と言わざるを得ない。

尚、本作の表紙はイラストレーター望月宗生氏による渾身の作。 巻末には株式会社リベラス取締役/放送作家である大森智仁氏による特別寄稿を掲載。

[2012年5月/B6/92頁/¥650] 著=Roger Matsuoka 発行=株式会社しまや出版

新創刊、短歌同人誌「率」について



「率(りつ)」は、2011年の短歌同人誌「町」(瀬戸夏子、土岐友浩、服部真里子、平岡直子、望月裕二郎、吉岡太朗)解散を受けて新創刊された短歌同人誌です。

創刊号はメンバーの短歌連作と豪華ゲスト参加の短歌批評の未来を考える企画「自選歌5首評」を収録。

 創刊メンバーは川島信敬(第51回短歌研究新人賞次席)、瀬戸夏子(沖積舎『穂村弘ワンダーランド』に評論を寄稿)、平岡直子(第23回歌壇賞受賞)、松永洋平(早稲田短歌会OB)、吉田隼人(早稲田短歌会)、吉田竜宇(第53回短歌研究新人賞受賞)。

 カフェラテに描かれた心臓(ハート)を崩しつつイエスを裏切るユダを思うよ「クレド」川島信敬

そちらまで吹雪いていないといいけれど あなたが一瞬で老いてしまえばいいけれど「手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)」瀬戸夏子

窓、夜露、星条旗、海、きらきらとお金で買える指輪ください「アンコールがあればあなたは二度生きられる」平岡直子

ハイウェイの夜行バスから飛び降りてサンバを踊る俺が好きだろ?「名無しのサンバ」松永洋平

屏風絵の情事に少女憔悴の坊主上手にオーヴァー・ドーズ「Lolita-Complex-Complex」吉田隼人

ごめんなさいあんなに褒めてあげたのにあなたの森に雨後はなかった「数に入れる鳥」吉田竜宇



「これから書くことは、一種の自己検証の試みと見做されるかもしれない。しかし、筆者自身の、出発にあたっての感情は、いますこし客観的な立場のそれであって、他者の制作に対してものを言う態度で、自作を検討したいと思っている。

(…)短詩型文学の現況と将来について考察をめぐらすにあたって、ここでわたしの選んだ方法は、無謀と言ってさしつかえない。不用意とそしられても抗弁しにくいのである。理由はいくつかある

 第一に、自作自注の類いで、成功しているものはほとんどない。『作歌四十年』を斎藤茂吉が生前公刊しなかったのは故ないことではなかった、経験的に言って、自歌自註を読まされたあと味は、まことに悪い。手放しの自讃は、さすがに誰しも抑制しているが、底に動く自讃あるいは自己弁護の心理は、見まごうべくもないのだから、余計にやり切れない。

(…)いずれにせよ、困難な作業だとは自覚している。三人称で自伝を書いたといわれるG・ヴィーコのように三人称で書ければそれにこしたことはない。(岡井隆)」


 自己の歌への評や解説が愚かしいものであり、余分なものにすぎず、作品や作家の神秘性を剥いでしまうという向きはいぜん強い。その一方で、短歌はいわゆる「批評と歌とがセット」であるという特殊なジャンルでもある。歌で「自己」を歌う以上に、その批評にも自己の主張は色濃くあらわれる。しかし、自己こそが他者であるというテーゼもまた他方で存在する。歌における自己は本当に「自己」であるといえるだろうか。

 批評の言葉は基本的に他人の作品に向けられ、他人の作品を評した言葉に「自己」が表出される。むろん、その「自己」とはなにがしかの価値観や時代の影響を受けずにはいられない。(その意味で、「公平」な批評や「一般的」な批評は存在しえるだろうか。無色透明で公平な主体など、比喩的に言えば「ある時期の裕福な白人のエリート男性、あるいはそれに無意識的に同化しようとしている階層や性別や人種を問わない人々」にしか存在しえないし、その比喩がいかに滑稽なものであり、また現況からかけ離れているかを思えば、おそらくそれは残念ながら今後も達成されることはないだろう。)無色透明な批評の主体が不可能であり、万人に共通する価値観の獲得が絶望的である昨今において、歌の批 評がどういった形で、まだかろうじて可能であるかを再考せんとするため、この企画は持ち上がった。(「企画 自選歌5首評 序文」より)

どうぞ、よろしくお願いします!未来の読者の方々へ!


http://ritsu8810.blog.fc2.com/blog-category-1.html

https://twitter.com/#!/tankaritsu


「率」瀬戸夏子、平岡直子

 



率 創刊号

[2012年6月/A5/101頁/¥500] 編/発=平岡直子

90年代ゲームとゲーム漫画



 20年前のゲームセンターには、強いノスタルジーを感じます。今ではファミリー向け、場合によってはシニア層向けの遊技場となったゲームセンターですが、当時は若者が集まりテクニックを競い合う場であったからです。自分も下手の横好きながら、そこでゲームの腕試しに興じていました。

 タイトルにある「90年代」という時代区分には特に意味はありません。これは自分が一番ゲームに熱中していた90年代のゲームを取り巻く状況を、児童向けを中心としたゲーム漫画(コミカライズではなくゲーマー視点の作品)を参照しながら振り返った本です。

 具体的には、当時熱かったゲームセンターですが、何故、最近は街角で目にしなくなったのか? ゲームセンターはどう変わったのか? といった疑問点を出来るだけ客観的に考えてみたいと思いました。

 模索舎のある新宿には当時何店ものゲームセンターが存在しましたが、今ではめっきり少なくなっています。郊外型ショッピングセンターへのゲームセンター出店が増加した半面、地方都市のゲームセンターは見る影もありません。何故そうなったかを調べてみたかったのです。

 そこで当時の具体的なゲーム作品には可能な限り触れずに、指標となるデータや、ゲームそのもののコミカライズではなく、それをプレイするゲーマーを主人公とする漫画を参照する事で、距離を保ちながら振り返ろうと試みました。

 当時のゲームタイトルとそのプレイ体験を軸に90年代を振り返るという方法もありますが、私の力では単なる「自分語り」に終わってしまいますので、それは別の方にお願いしたい所です。

 80年代に大人気だったファミコン漫画「あらし」や「ロッキー」などを経由し、ゲームボーイやスーパーファミコン等が登場する事で90年代以降のゲーム漫画はどうなっていったのかを見ていきます。

 また海外で映像化された日本製ゲームを一部だが紹介する事で国外での人気にも触れました。

 さらに90年代から人気の高まったトレーディングカードゲーム。それらを題材としたゲーム漫画についても触れました。それが如何にそれまでの児童向けホビー漫画の影響を受けているかといった事も考察しています。具体的にはゲーム対戦の様子をビジュアルとしてどう見せるかの方法論は既存のホビー漫画のアイデアが元になっているのではないかという事です。

 20年という時間は、全てが風化するほど昔ではありませんが、距離を持って眺めるくらいには時間が経っています。この本が当時を振り返るキッカケになれば幸いです。


発行元の"くま温泉"では主にアニメーションや漫画に関するミニコミ誌を作っています。アニメに登場する大仏を集めてみた本や、80年代OVAを10代から20代の若者に無理やり見せて感想をまとめた本、学習漫画をまとめた本等があります。

 



90年代ゲームとゲーム漫画

目次:1986年以降ずっと減り続けるゲームセンター/新風営法施行以前/新風営法施行後/ゲームセンターは先端の遊び場だった/90年代は家庭用ゲームの時代のはじまり/何故ゲームセンターの市場規模は落ちなかったのか?/アーケードテレビゲームの落ち込み/家庭用ゲームの高度化/小規模ゲームセンターの減少/映画との共通点/ゲームセンターへのノスタルジー/アーケードゲームにあった楽しい怪しさ/やっぱり不況の影響は大きかった?/ゲームマニア以外を取り込む動きが/ソーシャルゲームの登場/ポイントは安さなのかもしれない/突撃!ゲームボーイ」/ゲームはよりパーソナルなメディアへ /「ALGO!」/「ロックンゲームボーイ」/「ゲームウルフ隼人」/「超級学校覇王」/「通りの無法者」/「Street Fighter: The Animated Series」/操作するという楽しみ/「デュエルファイター刃」/etc...

[2012年4月/A5/52頁/\500] 発行/くま温泉(かに三匹)




1940年代にフランスの芸術家ジャン・デュビュッフェが提唱した「ART BRUT/アール・ブリュット」という概念があります。和訳すると「加工されていない、生のままの芸術」。アカデミックな美術教育を受けていない(あるいは制度的な教育に毒されていない)人たちの手によって、生命の根源から衝動のままつくり出される創造物のことを指します。
 
日本では、精神疾患や知的障がいを持つ人たちの作品がそれに該当することが多いため、「アール・ブリュット = 障がい者のアート」と認知される傾向がありますが、ヨーロッパでは芸術におけるひとつのジャンルとして確立されているだけでなく、医療や福祉、教育など様々な分野から注目を集めています。
 
一般的に、いわゆるアート作品を鑑賞する際、私たちは作者のプロフィールや創作プロセスなどに触れることなく、アウトプットされた作品の表層から芸術性や魅力を感じ取るものですが、それに対してアール・ブリュット作品と向き合う場合、作者自身が置かれている環境や、彼らが描く対象物との心的あるいは物理的距離や関係などを知ることによって、多角的にその作品の意味や価値を捉えようとする意識の必要性を感じます。
 
2011年6月、私は大阪市阿倍野区にある特定非営利活動法人コーナスの白岩高子さんを訪ね、重度の知的障がいを持つ方たちが創作活動をされているアトリエコーナスへの長期的な取材の申し入れをしました。アール・ブリュットの意味や価値、魅力を自らの肌で感じ、それらを一人でも多くの人に伝えたいという思いからでした。
 
白岩さんは快く私の申し入れを承諾してくださいました。プライバシーやコミュニケーションの問題、その他にも様々な障壁が待っているのではないだろうかという懸念や、所属アーティストの皆さんが私の存在を受け入れてくれるだろうか?…などの不安な気持ちでいっぱいでしたが、アトリエに一歩足を踏み入れた私の視界に飛び込んできたのは皆さんの眩しいくらいの笑顔でした。
 
『こんにちは!』『カサタニさん、こんにちは!』
 
それは私が想像していた障がい者施設の(閉鎖的で重苦しい)イメージとはまるでかけ離れた光景で、明るく開放的なその空間には、笑顔と笑い声が満ち溢れていました。私の中に、普段の生活では感じ得ない感情が沸き起こり、涙で少し視界がぼやけたまま精一杯の笑顔で挨拶を返しました。
 
私が世の中に伝えるべきことはアール・ブリュットの概念や価値よりもまず、ここに居るアーティストさんたちの魅力であるということ。そして今ここで私が感じている空気感、目にしている美しいもの、ここに存在する全てがアール・ブリュットなのだということを確信した瞬間でした。
 
彼らの社会参加のチャンスや可能性は?
福祉後進国といわれる日本で、自分にできることは?
私の模索はまだ始まったばかりです。

(以上、本文より)


知的障がい者が自分の作品をPRすることは不可能なので、周囲(社会)の誰かが何かアクションを起こさないと、彼らの才能や魅力は誰の目に触れることもなく、埋もれたままになってしまいます。

その「何か」するというアクションは、なんでもいいんだと思っています。
この本を手に取って下さった方が「何か」を考えるきっかけにしてくれたら・・・そう願っています。

地味な活動ですが、私たちはこれからも継続して「何か」し続けるつもりです。

PR-y主宰 笠谷圭見



〈写真集〉THE CORNERSTONE

[2012年2月/B5変形/84頁/¥600] 著=PR-y 発行=RISSI INC.

本屋をはじめる



 『マンガ文献研究』という雑誌は、マンガを研究し ている文献を紹介しながら、分断された「マンガ」の 溝を埋めるという(おおよその)主旨でスタートし、 2号では「エロ」、3号では「コレクション」、4号 では「書誌+データベース」を特集しながら、前述の 主旨をふまえながらマンガ史や出版史へ踏み込みなが ら、編集者(私)の趣味をねじこんだ内容のものを作 成している。

 今回の5号では「復刻!」と題し、現場にいらっ しゃる・あるいはいらっしゃった方(小学館クリエイ ティブ・トムズボックス・金沢文圃閣・コミックパー ク)のインタビューを中心に編集している。
 この『マンガ文献研究』を出す以前に、『コラム 等』というミニコミ(出版物)を出した。このとき、 はじめて自分がつくった本をお店に置いていただくよ うお願いに廻り、納品・精算時に交通費がかかること を知ったり、お店の方に話しかけるタイミングがわか らなかったり、精算をお願いする文面を書くのに一日 かかったり、いろいろと心労が多く、この店に置いて ある本を作っているひとは、皆こんな精神的に辛い作 業をしているのかと呆然とした。


 お店の方に話しかけるキッカケを得るため、特に精 算時にはミニコミなどの個人出版物を購入することに していた。金がないため、その選定は集中力を要し、 面白そうだと思う棚や関心のある場所を睨んでゆく と、その数の多さ・内容の深さに気づくことになる。 販路を拡大するにしたがって、それぞれの店で特色が あることにも気づいてゆき、しばらくするうちに、自 分がひっかかるものがバラバラなところに置いてある のが、いささか不便に感じるようになってきた。


 出す側としては、いろんなお店で手にとってもらい たいし、チャンネルを増やしたい。しかし、個人では 限界がある。団体でも、仕事が他にある状況で制作を しながら頒布するのは大変だ。 売る側としても、置きたいものが世間にあまたある かも知れないが、個々に出されているものを把握出来 ない。あるいは、お願いしても折り合わず断られるこ ともある。そして、何だかよくわからんジャンルがあ る。難しい。


 今『マンガ文献研究』は10数店舗に置いていただ いているが、これが私の把握が出来る限界である。か といって、地方小にたのむかというと、それほどの部 数も出していない。


 だったら、自分のつくりたい店をつくってやればい い、と思った。


 そこではじめたのが、ミニコミやリトルプレスなど 書籍を取り扱う「トマソン社」(http://tomasonsha.com/) だ。私なら、美術館の図録や文学館の本も扱いたい し、古本が売っていてもいい。それに、「本屋」には 雑貨もあっていいし、店じたいが能動的に生産して いってもいい。極端なことをいえば、店のなかに農場 をつくって、栽培した野菜も売っていいと思う。


 トマソン社では野菜は売っていないが、そういった 間口のひろい場所にしてゆきたいと思っている。


 いま、5月頭にそのトマソン社を版元として隔月刊 行の本の話題を扱う雑誌を出すため、準備をすすめて いる最中だ。雑誌は儲からない。その上、忙しい。で も、続けてゆけば、何かを変えることができるかも知 れない。

松田友泉(『マンガ文献研究』編集兼発行人・トマソン社)
 



マンガ文献研究 第5号

[2012年3月/A5/88頁/¥1,050] 特集=復刻! 編/発=松田友泉 発行=出版販売有古堂

いいことがある(かもしれない)本



『野宿もん』には、わたし(かとう)が野宿をしたときのことや、野宿中に出会ったり、一緒に野宿をしたひととのことなんかが、書いてあります。

 高校生(15歳)のときに「初野宿」をしてから、わたしはいま31歳なので、あ、でも、この本に載っている話を書いていたのは2930歳のころなので、14年とか15年。その間にした野宿の話が、17つ載っています。

 

 15年の中から、17つです!

ここで、「え、少ない」ではなく、

「え、すごい、選りすぐりじゃないか!」って、おもっていただけると嬉しい。

 

のですが、そしてわたしも出来ることならそう云いたいのですが、いやしかし。

記憶力がたいへん悪いため、昔の出来事をあんまり覚えていない。だから、ぎりぎりどうにか覚えていること、それらをあらかた書いたのでした。

 でもまあ、記憶力の悪さにも負けず「覚えられている出来事」には、強く忘れ得ぬなにかがあったってことだ。ほかがざんざんとこぼれてゆくなか、脳内へがっちりしがみついた根性のある出来事ってことだ。つまり、

「わたしのたいへん悪い記憶力が、ちゃんと選りすぐっているんだよ」

って云われても、そんな選りすぐり、信用が置けないんじゃないか。とか、なんだか興味が出てきませんか(などとなんでも前向きに考える、これが長年の野宿で培われてきた力=「野宿力」ってなものです)。

 

ちなみに、17つの内訳は、

偶然日記を書いていたから思い出せた話・2つ、忘れないようにだいたい書いてあった話・3つ、数か月以内に起こったことを書いた話・2つ。ものすごくがんばってなんとなく思い出して書いた・残り全部。

 ってかんじでしょうか。どの話がどれだかを考える、楽しみもありますよー。

 

ところで、そのように記憶力のたいへん悪いわたしが、未だ忘れ得ぬ一昨年の野宿。それは、東京都新宿区の、大江戸線・中井駅から徒歩0分のところにある「伊野尾書店」さんというスバラシイ本屋さんでさせてもらった、「本屋野宿」です(詳しくは『野宿もん』に! 宣伝だー)。

「お店の中で」ってお願いしたけどダメで、じゃあ軒下ならいいよってことで、伊野尾書店さんの周りをみんなでぐるりと取り囲んで野宿をさせてもらったのだけれど、そんなイベントを「よくやらせてくれたなあ」と、いまもうっとりおもうのです。

これは『野宿入門』って本が出たときにやらせてもらったのですが(ちゃっかり宣伝だー)、この度、『野宿もん』が出たら、今度はなんと、模索舎さんが「模索舎野宿」(しかも舎内!)させてくれるっていうから、すごい。

すごいよ、『野宿もん』。『野宿もん』のおかげで、いいことがあったよ。

 

ってことで、もしかしてあなたにも「いいことがある(かもしれない)本」ってかんじで、どうか『野宿もん』をひとつ宜しくお願いしたい所存です。それから、「模索舎野宿」は、324日(土)ですので、これはぜひとも!

模索舎さんにはもう足を向けて寝られないが、「模索舎野宿」じゃどこを向いても足を向けちゃってるから困るな、とか、おもっているきょうこの頃です。……うへー、ぐだぐだですみません。

(かとうちあき)

 



野宿もん

[2012年2月/四六判/217頁/¥1,500+75] 著= かとうちあき 発行=徳間書店

『ZINE 未知の駅』の紹介



「えっ、電気も冷蔵庫もなしで生活している人がいる?!」

滋賀県の草津PAでヒッチハイクしていた時、乗せてくれたドライバーさんが教えてくれたのは熊本の「秀一さん」というパーマカルチャーの実践者だった。なるべく自分たちの生活は自分たちで—それも生態系の側に寄り添いながら—作っていこう、というDiYの思想を阿蘇の山奥で実践しているという。

「これだ!」

と思った僕は、急遽そのままドライバーさんにくっついて熊本まで行くことを決めるーーー。

石油やガスなどの有限資源の「食い潰し」に依存した大量消費社会・資本主義の「限界」は3・11を機にますます明らかなものとなってきた。果たして自分たちは今までと同じ生活を平然と続けていていいのだろうか? もっと長期的視点に立って、自分たちの「生活」を組み直す時が来ているのではないか? 

「未知の駅」はそうした疑問と、熊本でのパーマカルチャーとの衝撃的な出会いから生まれたZINEだ。キッカケはパーマカルチャーとの出会いだったが、「生」と「死」に対する考え方、生産・消費を通した人との関係性、生活環境のデザイン、お金の使い方、建築・空間の在り方、エネルギーの調達などといった点を巡って、従来とはやや異なる=オルタナティブな思想や実践が、どうやら今、分野横断的に現れ始めている。

今回は、そうした「新たな兆候=そんなやり方があったか!」を拾い上げてみたくて、いろんな人達の言葉を集めてみたら凄いことになった。創刊号コンテンツは以下の通り。

・2011、夏、ヒッチハイク(諫山三武)
・三台の車が教えてくれたこと(マスブチアヤコ)
・Critical Riding ーーーヴァナキュラー横乗り文化論(長野編)(山本敦久)
・パーマカルチャーにエコゾフィーの可能性を見出す CriticalとSpiritualの間で
(上野俊哉)
・瓜生太郎イラスト集(瓜生太郎)
・即興トークイベント「パイレーツ・ダイアローグ」(小笠原博毅、キャプテン・ジャック・スパ老)
・いのちの振れ幅(片山玲一郎)
・独走論ー独り走ることー(小笠原博毅)

ここには、資本主義を「打倒する」とか、そこから完全に「降りる」というような「革命家」の姿は見られない。むしろここに見られるのは、資本主義の<内部>にいながら、それとはちょっと違った生き方をしてみるーお金ではない贈与交換を試みる、海賊になってみる、ヒッチハイクをしてみるなどーという、もっと「しみったれた」抵抗を試みる人たちの姿である。

日本の作家・政治運動家でもあった小田実は『世直しの倫理と論理』でこのようなことを言っていた。

「身ぐるみ戦争に「まき込まれ」あらゆるものを失った経験をもつ日本人にとって、大事なことはまき込まれることに歯どめをかけつつ、まき込まれながらまき返す手立てを考えることだ」

今必要なのは、社会のメインストリームにまき込まれながら、そこからちょっぴりズレていこうとする、そんなアティチュードなのではないか? その中にオルタナティブライフスタイルの可能性が見出せるのではないか? なんだかそんな気がしている。

とりあえずなにかピンと来るものを感じたら、是非手にとって読んで見て欲しい。

ZINE 未知の駅 製作責任者 諫山三武

Web: http://michinoeki.tumblr.com/
Facebook: http://www.facebook.com/pages/ZINE-未知の駅/276311449097597
Twitter: @michino_eki



ZINE 未知の駅 vol.1

[2012年02月/A5/108頁/¥500] 編=諫山 三武 

そもそも無職フェスのことご存知ですか?



 拙著「読む無職フェス」は無職FESというイベントの活動についてまとめた冊子なのですが、そもそも無職FESのことを初めて知ったという方にご説明させていただきたいと思います。詳細は全てHP→http://mushoku.net/fes/に載っておりますので、ここでは簡単に説明いたします。ご挨拶遅くなりましたが、私、無職FES実行委員会代表のいわいと申します。
 無職FESとはイベントです。フェスティバルです。コンセプトはいくつかあります。「無職になったことを機に、働くって何なのか考えてみよう」「孤立しがちな失業者のセーフティネット」「無職、フリーター、等の貧乏人が少ないお金で遊べるイベント」…などなど「無職でもなんとかなるので、レールを外れてしまったからって、落ち込む必要はないよ」というメッセージを発信しています。
 当日は出し物(マジック、歌、漫読、ダンス、大喜利)を見て楽しみつつ、だめ連のぺぺ長谷川さんや区議会議員、シングルマザー、ホームレスまで幅広くゲストをお呼びしてトークライブ、参加者全体でディープな座談会など、色々やってます。入場料は0円〜500円くらいです。
 2011年2月に第1回無職FESをやってから、2012年3月現在まで、5回のイベント開催をしてきました。テレビ東京の深夜番組でテリー伊藤に無職FESの話をしたことがきっかけで、大阪や札幌でも開催したいという方が現れ、地方で独自の無職FESも開催されています。
 第3回無職FESの一企画だった「ホームレスBAR」は好評だったため、2012年4月21日(土)に第1回ホームレスBARという単独イベントとして開催することにしました。もちろん今回もホームレスの方をおよびして働いてもらいます。何が起こるか、まだどんな人が来るか決まってないのでわかりません。楽しみです。
 無職FESについて知りたい方は一度来ていただくのが早いと思います。説明していても、なかなかうまく伝えられそうにありません。遠方で来れないという方は「読む無職フェス」読んでいただくとして、是非一度気楽に遊びに来てみてください。
 創刊号の内容ですが、無職FESの始まりが詳しく書いてあります。その他に無職FESに関わってくださった方によるコラム。下北沢で活動する漫読家:東方力丸さんの2万字ロングインタビューはファン必見のレアな内容になっております。東方さんにはほぼ毎回、無職FESに来ていただき、漫読ライブをやっていただいております。初めてこういう本を作ったので加減がわからず、とりあえず200冊作ったところ、発行して一ヶ月経過時点で30冊しか売れておらず、在庫の山にほとほと困り果てていたところ模索舎様をご紹介いただき、本日に至ります。
 在庫はたくさん余っているものの、30冊売れればほぼ原価(紙代、印刷代のみ。人件費は別)は回収できたので、こういう本を作るのも悪くないなとも思っております。次号は4月末に発行予定です。あわせてお読みいただけると幸いです。
 最後に1つ、お読みいただいたあと、人によっては満足して捨てる方もいると思うのですが、もったいないので隣の部屋のポストに入れて少しでもたくさんの人に読んでいただけるようにしていただけると嬉しいです。
よろしくお願いいたします。

無職FES実行委員会代表 いわい ゆうき



読む無職フェス 無職FESがzineになったよ〜!!

[2012年2月/A5/350頁/¥350] 編=コタカネガティブ他 発行=無職FES実行委員会

流血しない斧とタイツのヒーロー



 コ ンセプトは「斧でテロ組織を惨殺する実写ヒーロー」、テーマやこだわりは「特に無い」、現場が「暴走」!
 『バ トルホーク』(1976年放送)というカルト作品のキャッチフレーズとしては上の3つがふさわしい。とにかくツッコミどころしかないロッ クな作品なのだ。
 時 は70年代、われらが永井豪先生が東映とのケンカの末行きついた先はアニメ制作会社ナックだった。今のナックは『チャージマン研!』が一 部のネット界隈で有名だが、昔はこんな作品も作っていたのだ。社長の西野氏と仲がよかった先生は「今度は実写物だ!」と同時期の特撮ブー ムに乗っかるべく『バトルホーク』の企画を提案。社長はこれに飛びついた。
 と ころが、この制作者たちは(良くも悪くも)ポリシーがない。永井豪先生はキャラクターにはこだわりがあっても一度作ったらそれで放置、 ナックは「子供番組は簡単でわかりやすければなんでもいい」との方針で実写ヒーローの企画をまとめた経験はない。ようは企画と脚本以外の 全部を下請けにぶんなげて放置していたのだが、それゆえに予測不能な制作体制が出来上がった。素晴らしいテキトーさだ!
  そんな中、永井豪先生の「斧でテロ組織を惨殺する武道ヒーロー」という面白そうな題材に脚本家たちも悪ノリする。「ラジコン飛行機によ る催眠集団自殺誘発」「人類総蟹化作戦」「愛妻家の敵幹部」なんて想像力たくましすぎる題材がつぎつぎと登場。普通の特撮作品では考えら れない台本が投下されることとなった。
 こ れほどまでに超テキトーかつぶっとんだ裏事情を持つテキストを読解し、さらに別のベクトルを加えていったのが下請けだった国際放映と K&Uという映像制作会社だ。
 
現 場のスタッフが負けじと台本をその場のノリと判断でなんでもありのはちゃめちゃに変えていったのだからさあ大変。タイトルの「ホーク」の 通り、斧が主体のヒーローだったのにいつのまにか武器を仕込み刀に変更するわ、台本上の戦いの流れは完全無視するわ、セリフカットで伏線 そのものをカットして展開を意味不明に……、やりたい放題。これも入れよう、あれを変えよう、予算ないから題材カット、といろんなスパイ スが効き、奇跡の闇鍋作品が誕生してしまった。まさにカオス!
 さ て、『バトルホーク』の本放送から35年経ち、時は現代。記念すべき35周年を迎えた本作だが、知名度はあがるどころかどマイナーの極み の作品になってしまった。悲しいことだと筆者は考える。そりゃぁ「ライダー、戦隊、バトルホーク」なんて風に日本を代表できるヒーローと は言い難いが、にしたって資料系同人誌が一冊、ムック本は存在すらしていない状況はどうにかしたい。
  そこで「僕がやらなきゃだれがやる」ということで本作を徹底解剖したのがこの同人誌だ。中身は、

●当時のスタッフの直撃インタビュー
 
主役の時本和也、スーツアクターの森岡隆見(ヒーロー)・荻原紀(怪人)、敵幹部役のきくち英一など役者陣 や、ナックの社長西野聖市など。史上初の情報がオンパレードなので絶対に見逃すな! (敬称略)

●当時の台本のレビュー
 きくち氏から借りた台本と本編を比較分析。国際放映の自由気ままな改変が光る。
 

●全26話ストーリー解説。

●漫画家高遠るい先生(代表作『ミカるんX』、『鉄拳』など)による激筆描き下ろし裏表紙
 
 
 などなど盛りだくさん。史上初の情報が多数公開された、文字通りオンリーワンの本になった。模索舎様が扱って いただけるということで、より多くの人に手に取って貰いたい。
 
 最後にサークルの今後について。今現在はサークル入会希望者もいないし、とくに人員が足りないというわけでも ないので、WILD GEEKSは一人+助っ人数名で運営していくことになりそうだ。すでに夏コミ用の次の題材には取りかかっているの で、夏が近づいたら改めてブログやツイッターで告知する予定。中身はまだ明かせないが「ほんとこの平成の御時世に誰得……俺得だよ!!」 と読者のみなさんに思わせるような、そんな本にしていくのでこうご期待!  
 
 WILD GEEKS 三輪 宗
 
 
 
ブログ:http://wildgeeks.blog.fc2.com/
 
Twitter:@danhayata



バトルホーク大図鑑

[2012年2月/B5/84頁/¥1,000+50] 《バトルホーク》 著=三輪 宗 発行=特撮映像研究サークルWILD GEEKS

大東京を丸呑みする



3号雑誌とは言わせない! 誰が呼んだか、一年半ぶりの「ゲロダク」再登場です。
さて、我らが模索舎のお膝元といえば、新宿ですね。この、愛しても愛し足りない魔界都市・新宿(主に歌舞伎町)を、肩で風切って歩く、まさに新宿の“顔”ともいえる一人が、通称「ポルノの帝王」久保新二氏です。『痴漢』『女湯』『未亡人下宿』山本晋也監督とともに、破天荒なコメディ・ポルノを連発、一世を風靡したことは皆さまもご存じの通り。
新宿を歩いているとき、その久保氏と、同じく新宿の名物男・タイガーマスク氏とがコーヒー・ショップで仲良く談笑している光景を見かけたことが幾度か、ありました。久保新二を逆ナン(あれ?)するぞ!と思い立ち、「ゲロダク」再始動となりました。今回の「ゲロダク」は、いうなれば大東京を丸呑みする、ということに尽きます。
今回の殺人グルメの舞台はそういうわけで、対照的ながら東京の二つのねぐらを選びました。現在公判中の“婚活詐欺女”こと木嶋佳苗容疑者がハメた中年紳士のハードボイルドな死に場所・東青梅。福島の“ヒットマン”が血煙に咽んだ、ゲーノージンの街・中目黒。食と住、いささか性の匂いもする殺人者たちの足跡はオツなものでしたが、しかしまあ今回の殺人グルメもさっぱり盛り上がりませんでした!
福島といえば、もう一人の爆弾男・渡邊文樹監督の新作映画『金正日』上映会が、「ゲロダク」編集の最中に実現。今回も例の大量のポスターが、女子大生の街・千歳烏山を禍々しく包囲しました。気づけば、「ゲロダク」編集の大詰めはいつも、渡邊監督の関東上陸と重なるんです。今回も慌てて書き加えました。日朝外交のよりよい進展を祈りつつ、お楽しみください。
そのほか、UFO講演会にパチンコ中毒者の手記などなど、身を削るような体験記も充実しております。
 
去年の三月のあの日、この国はいろいろあって「がんばろう日本」とか「絆」という標語が溢れかえり、そしてそれらに対して異議を唱える言論もまた同じだけあり、ずいぶん活発でした。物を書く人たちは、東北を目指しました。あたかも、書斎から出て、行動することを問われているかのように。そりゃあ僕も、余震に怯えながら、「ゲロダク」の意義なんてものを鹿爪らしく考えることはありました。
津波と原発事故の規模の大きさに、まだ十分認識が及ばなかったあの日の夜、新宿から調布めざして歩いているとき、「やっぱ足腰は鍛えておかないとなあ」と呑気に思ったものでしたが、考えてみればこれ以上でも以下でもないというのが、「ゲロダク」の意義です。大好きな映画秘宝誌から「この世の何かに満足できていない面々が、自腹を切って突撃する」「いまどき真っ当な評論誌」というお言葉を押し頂いたとき、自慢の種にして言い触らそうと企んだものでしたが、これらの言葉がそのまま「ゲロダク」の努力目標になりました。
歩いて、食って、考える。足腰と胃袋、もちろん頭も鍛える「ゲロダク」は、「この世の何かに満足できていない」「いまどき真っ当な」あなたのために、これからも嘔吐覚悟でこの世の事象を丸呑みしていきます。だから忘れないでね!
 
ゲロダクション編集部 高橋哲也



ゲロダク 4号

[2012年2月/B5/43頁/¥476+24] 編/発=ゲロダクション編集部

たとえ夢の中だってサバイブしてやるさ



 『インディーズ・イシュー』は日本のインディーズ系の音楽を扱っている音楽雑誌です。インディーズとは、いわゆるメジャーのレコード会社ではない、自主独立した活動形態のこと。最近はメジャーデビューをしてもインディーズ時代とそう変わらない活動をしているバンドが多いこともあり、実際はその線引きはほとんど意識していませんが、要は、自分たちが表現したい音楽を好き勝手にやっているようなミュージシャンの情報を主に扱っています。ジャンルでいえば、パンク/ハードコア、オルタナティブ・ロック、ポストロック、スカ/レゲエ、アヴァンギャルドなクラブ・ミュージックなど。国内の作品だけでも、おそらく月に100枚近くはリリースされていると思われますが、その中から進歩的な面白さがあったり、刺激的な作品を厳選して、インタビューやディスクレビュー、特集などを掲載しています。言うまでもありませんが、売れている音楽がいいという価値観ではまったくなく、少数派ながらも素晴らしい作品を広めたい、という思いで作っています。ご存知の通り、全国のライブハウスでは日々、多くのバンドが表現を競い合っています。時としてアナーキーに、あるいは現実を直視せず夢と妄想の中に生きている人も多い。そしてそれを目当てに足を運ぶファンも多く、立派にコミュニティー、文化として成立しています。ただ、いかんせん情報が多すぎて、すべてをチェックするのは不可能という状態。その交通整理みたいなことをさせてもらっている感覚です。

 創刊したのは2002年の1月。それまではリットーミュージック発行の『インディーズ・マガジン』編集部に在籍していましたが、2001年に休刊となったため、個人的に独立して引き継いだという経緯です。以降、隔月ペースで10年間、続けてきました。一人編集部体制ではありますが、商業誌を作っているという感覚は強くあり、なるべく客観的な視点で編集するように心掛けてきました。
 今回、模索舍さんに本を置かせてもらったのは、リニューアルをしたのがきっかけです。ちょうど創刊10年という節目でもありましたし、CDが売れない世の中で広告収入が激減したことでのやけっぱち、ということも大いにあります。でも一番は、震災の影響もあったのか、これまでの「客観的」なスタンスをもっと「主観的」にしてもいいんじゃないか?と思ったんです。多少偏っても、もっと自分に正直に作った方が読者に伝わるんじゃないか?と。判型をB5からA5に、ページ数を90ページから倍の180ページに増やしました。特集にはより多くのページ数を割き、インタビューも出稿の有り・無しに関わらず自分が重要だと思うアーティストを大きく取り上げました。ディスクレビューには点数制も導入してみました。表紙と巻頭の特集に選んだのはラッパーのECD。ラッパーにしてパンクス以上にパンクなアティチュードを持っている人で、昨年は反原発デモの活動も活発に行動していました。インタビューでは音楽だけでなく、社会的なことについてもたくさん話してもらいました。震災以降、自分が社会に対してもやもやと思っていたことをECDさんに代弁してもらいたかった部分もあったと思います。
 いや、楽しかったですね。レイアウトを一から見直し、装丁も自分でやったわけですが、本を手にしたときは我が子が産まれたような感動がありましたし、モノ作りの楽しさをあらためて実感できました。出来上がった本を手に取ったときの感慨深さでいえば、たぶん今回がいちばん大きいんじゃないでしょうか。何しろ今回は編集だけじゃなく、記事もほとんど一人で書きましたからね。あとは読者にどれだけ伝わるか──。これでサバイブできなければ悔いはありません。

 昨夜、読んでいた文庫本『深夜特急』の巻末に今福龍太氏と沢木耕太郎氏の対談が掲載されていて、今福氏のコメントの中にまるで今の自分のことを言われているように感じたフレーズがあったので引用させていただきます。
 ──「サウダージ」とは永遠に先送りされている一つの夢に対する感情なんですね。未来を夢見ることの中にしか現実が存在しない、そういう生存の形が二十世紀のこの時期になって鮮明に出てきている、と思うんです──


インディーズ・イシュー 岩崎一敬



 



indies issue 60

[2012年2月/A5/180頁/¥1,000+50] 《vol.60》 特集=ECD 発行=有限会社ビスケット

五感を刺激する第六感マガジン『殆ど無い』



 わたしは閉鎖的で過疎った田舎育ちのせいもあり、物理的に友達が沢山できるような環境に住んでいなかった。情報は入ってこないし刺激もない。いつまでたっても発展しない土地。とにかく退屈だったので物心ついたころから一人で創作や音楽をやっていたが、褒められることがなかった。そもそもみてもらえない。みせ方の手段がわからなかったのだ。中学生の頃に、我が家でインターネットが使えるようになった。インターネットの世界では同じ趣味のコミュニティで話をし、自分をみてもらえることも出来たが、画面の中でだけだ。その世界を励みに表現し続けることはとても不健康な気がした。やはり、人を目の前にしてしっかり言葉を交わし関わっていきたい。


 それらの理由から「この土地に居つづけてもきっと誰にも出会えない」と思い、わたしが住んでいる村よりも人間の数が圧倒的に多い都会に来た。誰でも一度は思う、「東京なら人がいっぱいいるから、個性的な人もいっぱいいて、自分みたいな人間でも受け入れてもらえるかもしれない!」といった考えである。

 外の世界に出たことによって、魅力的で素晴らしい才能を持つ人たちに出会った。世の中には面白い人がたくさんいることを身を持って体感し、その人たちと関わり、作品をみたり思想を知る事によって、同世代で創作や表現をしている人を発信していきたいという想いが生まれた。そこでつくったのが『殆ど無い』である。

 第一号のテーマは「侵入」。相手の心に入り込む。世の間に侵入する。掲載している記事の殆どはテーマに沿った作品だが、基本的には作家たちがそれぞれ一番やりたいこと・書きたい事を表現している。良くも悪くも評価をもらい、それからどうしていくかである。やりたいことをやって、目に見える形にし、評価を貰えることが作品をつくっていく上で今は必要だと思うのだ。

 新時代のカルチャーシーンを担っていくであろう三人の若者たちへのインタビューから始まり、東京の快適トイレを紹介する『公衆便所五十三次』、全人類が観るべき映画レビュー『アナルセックス映画大全』、東日本大震災の被災地へ向かう大学生ボランティアたちについてのエッセー、散文とアート、漫画など多種に渡った記事を掲載をしている。本誌のイラストも全て書き下ろして貰った。ライターになりたい人は記事を書き、イラストレーターになりたい人はイラストを書き、漫画家になりたい人は漫画を描く。作家は全員、編集長の独断と偏見で選んでいる。

 余談だが、わたしは昔のミニコミが好きだ。その中でも『危ない一号』が特に好きだ。現代では何かを発信する方法はいくらでもあるが、本が売れないといわれている時代に紙媒体で出したのは『危ない一号』と、その中で記事を書いているライターの方の思想に多大な衝撃と影響を受けたからである。『殆ど無い』で記事を書いているライターの中にも3人程『危ない一号』に影響を受けている人間がいる。当時の文化や雰囲気が羨ましい。90年代は小学生だったので記憶は朧げであるが、多少は覚えている。同じものは作れなくても、影響を受けた中で自分たちの色を交え、自分と同世代の表現者たちをカルチャーシーンの中に侵入させていきたいと思う。

執筆:苑縁



殆ど無い 01 五感を刺激する第六感マガジン

目次:〈注目! 新時代センダーズインタビュー〉青木龍一郎/菊池良/ファックボンヴァーズ/村上哲也/村上哲也オールスター/村上哲也全動画/〈村上哲也論〉七里、藤田直哉、松平耕一/公衆便所五十三次 東京大学編=小林毒/アナルセックス映画大全=ファックボンヴァーズ/〈マンガ〉ムクナメ=村松裕太/ほか [2011年11月/A5/113頁/¥800] 特集=侵入 発行=東京因果帝国



 1971年創刊の『薔薇族』は日本初の同性愛マガジンとして隆盛を誇りましたが、インターネットの台頭には勝てず2004年に休刊となりました。版元を他に移して翌年復刊されたものの8号で再休刊となり、その後IT系企業の出資で再復刊されるも今度はわずか1号出したところでスポンサーが経営破綻して夜逃げ……。常人ならこの時点で匙を投げるでしょうが、稀代の怪人として知られる編集長の伊藤文学はメゲませんでした。瀟洒な邸宅を借金のカタに取られながらも「まだ自分の使命は終わっていない」と逆に闘志を燃やしたのです。
 私は初代『薔薇族』休刊時には単なる一読者でしたが、HPに発表したコラムをきっかけに伊藤氏と懇意になり、復刊版のスーパーバイザーとして編集に関わるようになりました。その縁で「ポケットマネーでもう一度『薔薇族』を出したい」という氏を手伝うこととなり、副編集長として4度目の『薔薇族』を8冊作ったのです。しかし7冊目を出した辺りで、体力の限界を感じた伊藤氏から「9冊目が丁度400号でキリがいいので、そこで終わりたい」との申し入れがあり、私も合意しました。
ところが09年の頭に399号を出したところで発行はパタリと止んでしまったのです。その原因は伊藤氏の未練でした。終わらせると決めたものの『薔薇族』への愛着はやはり断ちがたく、「そろそろいかがでしょうか?」と打診しても「う〜ん、まだいいンじゃないかなァ」と渋り続け、空白期はあっという間に2年を超してしまいました。
 そんな『薔薇族』の発行が2011年・夏に再開! 最終号の予定だった400号は一転、再出発号となり、更に編集長も伊藤氏から私へと交代したのです。その背景には、いっこうに減る気配のない「同性愛者の抱える苦悩」がありました。『薔薇族』の誕生から今日に至るまでに、同性愛者の世界では確かに様々な変革がなされました。しかし皮肉にもその変革から新たに生み出された悩みや問題などもあるのです。「まだまだ『薔薇族』を失くすわけにはいけない」と痛感した私は「どうか『薔薇族』を継がせてください」と伊藤氏に懇願し、それは幸いにも快諾されました。そして『薔薇族』の創刊記念日である7月21日に再出発号が発売されたのです。
 私の決意に天もご祝儀を下さったようで、400号の発行直後にイラストレーター兼デザイナーの猪口コルネ氏と運命的に出逢い、彼の働きによって401号はヴィジュアル面の大幅向上が果たせました。大量に刷れないマイナー誌なので「インクジェットプリンターで印刷して手作業で製本する」という、まるで家族経営の手焼き煎餅屋のような作業を毎回繰り返すことになりますが、彼と2人、アセらずクサらずボチボチやっていくつもりです。
 現代は紙モノが不利と苦戦を強いられる時代ですが、紙にはツールとしての優位性があると私は思います。どんな相手に対しても「これを読んでください」と気軽に手渡せるのは紙ならではの強みであり、電子書籍ではこうはいきませんから。ちなみに400号からは「視力の衰えた人でも読みやすいように」と、本文級数を雑誌としては最大レヴェルにまで上げているのですが、それは「常に弱者の側に立って動く」という伊藤文学イズムの継承の産物です。
 竜超版『薔薇族』のコンセプトは《自分でかんがえ、うごき、こしらえる 新・同性愛者の生活誌》ですが、その内容は同性愛者にしか役立たないものではありません。児童ポルノ規制に老後不安、そして原発などの時事問題等々、誰にとっても他人事では済まされない事柄について毎号取り上げていきます。これはゲイマガジンとしてはかなり異色な方向性です。同性愛雑誌というのは一般側から異端な媒体と思われがちですが、その中でも更に異端の存在なのが竜超版『薔薇族』なのです。異端者側からも異端視される雑誌が果たしてどのような代物なのか、機会があれば是非一度ご覧ください。

『薔薇族』編集長/「野ばら浪漫舎」主宰   竜 超(りゅう・すすむ)
野ばら浪漫舎HP http://nobara.oops.jp/
 

 

薔薇族  401号

[2011年11月/B5/48頁/¥700+35] 編/発=竜 超

薔薇族  400号

[2011年7月/B5/28頁/¥500+25] 編/発=竜 超



『薔薇族』関連書籍

消える「新宿二丁目」 異端文化の花園の命脈を絶つのは誰だ?

[2009年3月/四六判/276頁/¥2,500+125] 著=竜超(りゅうすすむ) カバー装画=山川純一 本文イラスト=ソルボンヌK子 ポートレート撮影=櫻田宗久 発行=彩流社

 

虹色の貧困 L・G・B・Tサバイバル!レインボーカラーでは塗りつぶせない「飢え」と「渇き」

[2010年7月/四六判/197頁/¥2,000+100] 著=竜超 発行=彩流社

 

やらないか! 『薔薇族』編集長による極私的ゲイ文化史論

[2010年11月/四六判/254頁/¥1,800+90] 著=伊藤文学 発行=彩流社

 

裸の女房 60年代を疾風のごとく駆け抜けた前衛舞踊家・伊藤ミカ

[2009年6月/四六判/263頁/¥2,000+100] 著=伊藤文学 発行=彩流社

 



演劇雑誌 『BOLLARD』



 『BOLLARD』は左隣のラスプーチンとカトリ企画が作った新しい感じの演劇雑誌です。演劇なんか興味ねえぜ! な方も目からうろこが零れ落ちるハイクオリティーな一冊であります。
 1)とにかく面白い戯曲!
 2)演出家や劇作家のコメンタリー
 2)小劇場演劇を俯瞰するインタビューや論考
 なんかを中心に据えつつ、UST配信勢で有名なTwitter読書会のゆりいかさんと、北京蝶々やフリーの俳優さんたちが一緒にリーディングをUSTに配信したり、カトリ企画URの公演について演出家とプロデューサーが話しあったり、おもろいイベントを紹介してたり、いまをときめくアートディレクターの大楠孝太朗さんが作ったチラシがあったり、にぎやかな誌面です。読みどころは横山拓也「エダニク」。男たちの労働と友情をかろやかに描いた戯曲なのですが、よくよく読むといろんな仕掛けに気付かされるストレートでステキな戯曲なんですよ。
 左隣のラスプーチンは、もともと文学畑の同人サークルでした。けれども、3.11以降ひょんなことからばったりと文学さんに失望した主宰が、いろいろいきあって行き着いたのが演劇だったそうです。その魅力はどこにありや? それはカトリヒデトシさんの巻頭インタビューを読んでもらえればその片鱗がすこし分かるかもしれません。500円にしてはお買い得だと思いますぜ!

左隣のラスプーチン 梅田 径



 



BOLLARD vol.1

目次:カトリヒデトシ インタビュー 「カトリ企画始動 -演劇の交差点を創りだすために/横山拓也【売込隊ビーム】/第15回劇作家協会新人戯曲賞受賞作「エダニク」 全編掲載!/横山拓也インタビュー 「エダニクが生まれる」/カトリ × 鈴木史朗【A.C.O.A.】「チェーホフのスペック再測定 チェーホフの現代性/身体の自立性」/鼎談 鳴海康平【第七劇場】 × カトリ【カトリ企画】 × 梅田径【ひだらす】「Twitter読書会」協賛 第1回リーディングUST 岸田國士「紙風船」 報告 ゆりいか【Twitter読書会】/かつとんたろう【左隣のラスプーチン】 「河内音頭!」 [2011年11月/A5/104頁/¥500] 特集=もっと演劇を! 編=梅田径 

『オバケダイガク』ライナーノート



 そもそものはじまりは葬式である。この五年の間やたらと身内が死んでしまい、葬式だ、法事だと日本縦断をくりかえしたのだ(親戚がやたらはなればなれにいるんです…)。で、いい加減交通費も嵩むので帰りは鈍行電車で移動し続けた。
 常に電車に乗っているだけでは飽きてきてつい途中下車をしてしまったのだ。
 だから滞在時間はほんの数十分、長くても小一時間ほど。駅前をうろちょろしてみただけのことなのだ。
 数十の駅でそれをくりかえしていると、類似点や相違点に気づくようになってきた。なってきたら地図をつくって印をつけたくなってくるってのが人情ってもの。
 『オバケダイガク』発刊の一つの道すじはそれ。
 葬式だって墓だって所かわれば少しずつ仕様が違うもの。法事にはわりと古い形が残っている。今となっては意味不明な所作も先代がやってたから何の疑いもなくそのまま受けついでいるというようなものも見うけられる。
 そういうのも連続して見聞きすると一覧表にしたくなってくるってのが人情ってもの。
 それが第二の道すじ。
 例えばこんなことがあった。福岡の祖母が死んだとき、葬儀は自宅で行ったのだが、出棺の日の朝食は、身内だけで食べるにもかかわらず、自宅ではなく寄合所の台所で炊いたものを寄合所で食した(その食事をお斎(とき)といっていた)。その支度をしてくださったのは近所の方々。私が幼い頃、おこもりといって神社におばさんたちが集まって各自が持ち寄ったおかずやロウジンガシを食べながらくっちゃべるという行事を年に何度かやっていたが、そのときの顔ぶれだった。お斎の作り方を私の祖母から習ったとおっしゃる。私は八才でその場所を離れてしまったので、今もおこもりをやっているのか聞きそびれてしまっているが。
 各地で聞き歩くに、弔いのときの調理は普段使っている竃と別の竃をつくって炊くという習慣があったり(ケガレの関係なんでしょう)、神社のお堂にあがって、氏子たちが飲み食いするというのは、庚申待ちとか、お日待ちというような講の類いなのかなとだんだんわかってきた。
 どうやら国内では一、二世代前まではどこの農村でも似たようなことをやっていたらしいが、同世代(当方1971年生まれです)の人と話しても同じような経験をしている人になかなか巡りあわないので、これは書いといた方がいいのかもなと思っているのは幼少時を農村部で過ごした者の老婆心だ。
 なぜか私の記憶のなかで「おこもり」はとても甘美なものになっている。こんもりとした木々に囲まれたうすぐらい氏神様のお堂にあがりこみ、人々の談笑がたいして盛りあがるでもなく続いていく。それだけのことなんだが。
 現在移民という状態の私には地縁につつまれた「おこもり」的なものが身のまわりにないからかもしれない。
 しかし、法事の行き帰りに始まった鈍行の旅をやっているうちに「おこもり」に似たような感覚を持つことがままある。
 電車の中で古参と会話しているときや、駅前の喫茶店で一服しているときや、長旅に疲れ果て途中下車で立ち寄る銭湯につかっているときなどである。
 鈍行電車や、喫茶店、銭湯は地縁がある人もない人にも数百円で開かれている「おこもり」のようなものなのだ。これを利用しないテはないとばかりに、最近は各地の魚屋、肉屋、豆腐屋、荒物屋、はきもの屋、傘屋、時計屋に三匹獅子舞と手を出しているので、結局、てめえの現在の地縁をおろそかにしているというパラドクスに陥っていることはいうまでもない。

北野留美



オバケダイガク 2011年10月号

目次:錦糸町駅前「楽天地スパ」/コーヒッカップの旅20 水の都ヒストリー/DEKITAKUNAIのそのこころ3 さんじゅうななどにぶ/むじな食堂 8 道産子直伝現代石狩鍋/レタリング保存協会 コレクション23 広島己斐のグリムの洋菓子/ [2011年10月/B6/16頁/¥100] 編=北野留美 

「スロウ」とは



「スロウ」、つまり、「ゆっくり」の名の下に集結した、というより、なんとなく集まってきた小説家のタマゴ四名と、数名の音楽家とイラストレーターが、いろいろなきっかけが働いて、年に一回のペースで、文字通りスロウペースで発行しているのが「スロウ」という冊子です。スロウは二〇〇九年から発行をのんびり続けており、今回の「vol.3」でやっと三冊目を数えました。

 この小さな冊子を通してわたしたちが伝えたいことは、これまた明確になっていないわけですが、とにもかくにも、「日常の中でホッとひと息つくきっかけになればいいのですが・・・」というのが、なんとなく全員の作品の根底に流れている「思想」です。

 先へ先へと進む、身の回りのさまざまな事象。でもふと足を止めてみると、そんなにせかせかしなくてもいいんじゃないか、と思えてくる。「スロウ」に至る、具体的な事柄はなにひとつ書かれていませんが、付属のCDをかけながら、短い小説を読んで、かわいいイラストを眺めてもらえればもしかしたら、すこーしだけのんびりしてもらえるんじゃないだろうか・・・というのがわたしたちの小さなたくらみです。

 さて、余談ですが、「スロウvol.3」は、作成の終盤に、あの震災が起こりました。震災をきっかけに、それ以前の生活を見直すべきだ、日本人はあまりにも強欲だった、などという話がちらほら聞かれました。筆者はそんな風には、一切、思いませんでした。震災以前だって、いつの時代だって、誰もが必死に生きていました。方法は人それぞれにせよ。それが世間的に悪と呼ばれても。ただ、震災が起きて、誰もが共通の思いを、少しでも感じたはずです。それは「普通」だと思える生活が何よりもすばらしい、ということ。

 スロウ3は印刷直前で、トビラの言葉を変更し、普通の生活にありふれた、聞き逃してしまうようなささいな音を掲げました。そんなささいな音があたりまえになるような、おだやかな日常が一日でも早く戻ってくるように心から祈っています。

 

以下、作品の紹介(もくじ)

1.猫の通り道

上京して数年、猫嫌いの「僕」はある朝、近所の猫に通せんぼされ、通勤バスに乗り損ねてしまう。しかしその小さな事件をきっかけに、「僕」の生活に穏やかな出会いが訪れる。

2.コラム

メンバーが交代で書くコラム「Slow throw」。今回は、ずばり「本」について。本が、あなたに与えてくれるものって、なんですか?

3.手紙(詩&イラスト)

かわいらしいイラストとまっすぐ な言葉で綴る詩。

4.青の魔法

高校生の美夜子は、ある日、知らない町で青いブックカバーを持つ男性と出会う。彼とそのブックカバーの青に魅了された美夜子は足しげくその町に通うのだが・・・

5.帰り道

女子中学生2人の帰り道の会話。中身があるようでないようで、ちょっと、ある。

6.その場所に、(帰ろう)

恋人との関係に悩む「私」は、雑司ヶ谷のバーの片隅で埃をかぶったマトリョーシカと出会う。マトリョーシカの「いわく」をバーテンから聞きながら「私」は長い物語へと旅を始めるのだった・・・

【CD】

1.大丈夫(Johntom) 2.Nothing&I(Johntom) 3.大人になって僕ら(林健太郎)



スロウ vol.3

[2011年3月/A5/69頁/¥300] 発行=スロウの会

住処のこれから



 5年ぶりの発行となる『モダンジュース』8号は、「わたしの住処」と題し、住まいを「家」そのものだけでなく、風土や土地柄、コミュニティや自治体のありかたといった、周囲の環境もふくめて考えようとの趣旨から編集されました。

 これは、三月の震災をきっかけに、どんな家に住むかではなく、どんな場所に住むかがより切実な問題として浮かび上ってきたという状況をふまえての問題設定でもあります。そのため、今回の特集は、女性文化を主にとりあげ、書き手も女性の多かったこれまでの『モダンジュース』とは、すこし趣の異なるものになりました。

 街並みの保存や建築調査にたずさわり、今年『ミドリさんとカラクリ屋敷』(集英社)を上梓した作家・鈴木遥さん。『0円ハウス』(リトルモア)での路上生活者の家の調査採集で知られ、震災後は郷里の熊本に一時避難所「0センター」をたちあげた「建築しない建築家」坂口恭平さん。狭小住宅ブームの先駆けともいえる『9坪の家』(廣済堂出版)建設の顛末を書き、現在は地域の暮らしに密着したプロジェクトをプロデュースする萩原修さんをはじめ、イラストレーターの浅生ハルミンさん、海月書林の市川慎子さん、編集者の井出幸亮さん、恵文社一乗寺店の堀部篤史さん、ささま書店の野村泰弘さん、ライターの井口啓子さんに、それぞれの切り口から住まいと環境に関するエッセイをいただきました。

 インタビューは、『物語としてのアパート』(彩流社)で、アパートの登場する文学作品や、アパートに住んだ文学者をめぐって日本近代の集合住宅のはじまりと受容を解き明かした近藤祐さんと、『借家と持ち家の文学史』(三省堂)等の著作で、近代の家族のありかたとその容れ物としての住まいの変遷を追う西川祐子さん。今日の住宅と家族の問題、パブリックスペースやコモンスペースの活用による暮らしの提案、ルームシェアの可能性などについて、建築家と研究者というそれぞれの立場からお話しくださいました。

 また、アンケート「わたしの住処・過去・現在・未来」では、震災後の地方への移住、生まれ育った家の思い出、古ビルのリノベーション、ルームシェア、町家暮らしなど、三〇名あまりのみなさんの、住まいへのさまざまな思いが綴られています。

 住まいについての問題はつまるところ、家族や家庭の問題であるとは、さまざまな家族論や住居論のなかでいわれてつづけてきました。私自身も、そうした文脈によって住まいについてを考えてきたひとりです。

 一方で、ファミリー向け物件かワンルームかという二極化のなか、独身者の住まいの問題が、この先より切実になっていくであろうとの思いもありましたが、今回の特集では、残念ながらその点をカバーすることはできませんでした。

 そんな折りに接した、今月六日の新宿区大久保のアパート火災のニュースは、住まい云々以前の貧困と高齢化をめぐる都市の問題を露呈させているわけですが、被害に遭ったアパートが、当初は地方から上京した若年就労者たちの下宿として建てられたことを思うと、現在は学生や若い独身者が主な居住者であるワンルームマンションの今後について考えさせられもします。

 生活に必要なすべてを自己所有化し、婚姻と血縁による関係者のみで閉じられた暮らしかたが、住まいと家族の問題のもとにあるのだとしたら、今回のインタビューで近藤氏、西川氏がそれぞれいわれていたように、自己所有を脱し、たとえ家族同士であろうとも、ひとりひとりが考えることで他者と分け合うというシェアの思想を基盤とした住まいのかたちを、考えていかなくてはならないと思います。

近代ナリコ 「近代女性の生活と表現」をテーマに、読み書きと本づくりをしています。昨年、長年暮らした京都より東京へ移住。



modern juice 8

奈良の間借り暮らし・鈴木遥 お布団どこに敷く?・浅生ハルミン MJインタビュー 近藤祐さん     出口をさがして ―集合住宅・ルームシェア・自己所有からの脱出― 人間の巣・坂口恭平 わたしの住まい遍歴・堀部篤史 アンケート わたしの住処 過去・現在・未来 サザエさんの町にて・井口啓子 映画の団地・野村泰弘 再録インタビュー+α 西川祐子さん    変化する女と男の関係とすまい:近代から現代へ わたしの巣・市川慎子・58 スミレアオイハウスからの成りゆき・萩原修 ぶっくすMJ 住まいとその周辺・篇 Kent Rogowski  “Homes (from memory) 1974-1992” 崖の上より・近代ナリコ ブンカの溢れる街・井出幸亮

[2011年10月/B6/80頁/¥840] 特集=わたしの住処  編=近代ナリコ 発行=黒沢書店

「マンガのまんが」



 みなさん、童話はお好きですか?グリム童話とかアンデルセン童話とかそういったの。好きとか嫌いとかそういうものでもないですかね。そんな有名名作童話を僕、アシタモがゆかいにおきらくなマンガにしてみました。それが『アシタモの世界名作劇場』です。
というか、アシタモって誰?ってお思いのことでしょう。僕、アシタモは大阪で働きながら、のんきにゆかいなまんがを描いてます。あ、正確に言いますと、住んでいるところが大阪で京都で働いてます。
って 、そんな細かいことどうでもいいですよね。主に、描いたマンガを自分のホームページに載せていたのですが数年前のある日、そのマンガが香山哲さんという方の目に留まり「『漫画少年ドグマ』というミニコミ漫画雑誌をつくるので、よければそこでマンガを描きませんか?」とお声をかけていただき『冒険少女』というマンガを描かせていただきました。
その後、関西の私鉄、地下鉄なんかでピタッとタッチするだけで改札を通れるIC決済カードのPR用マンガを描くお話をいただいて、一年ほど連載させていただいたりもしました。ありがたいことです。でも、今では、執筆依頼の連絡もさっぱり来なくなっちゃいました。
あとは、ちょくちょく企画展なんかにイラストやマンガで参加した りしてます。京都マンガミュージアムであった『杉浦茂一〇一年祭』にトリビュートイラストで参加させてもらったときは身に余る光栄にうちふるえたり、うれしかったりでした。最近はi-Phoneやi-PadやAndroid向けにマンガを配信してもらってて、そのマンガを描いたりしています。http://search.itunes.apple.com/WebObjects/MZContentLink.woa/wa/link?path=apps%2fblueintheface
僕は、みなさんが僕のマンガを読んでおきらくでゆかいな気分になってもらえるようなマンガを目指して日々執筆しております。なので、すごく設定が凝っていたりだとか、重厚な世界観だったりだとか、感動で泣けるストーリーだとか、伏線がいい感じに張られていて、見事なラストを迎える…みたいなマンガじゃあありません。というか、 そういったマンガは描きたくてもぼくには描けませんけど。
その分、皆さんも頭を空っぽにして読んでいただけるかと思います。理想としては、よくマンガの中に出てくる『まんが』というタイトルのマンガみたいなマンガが描ければな、と思っています。寝っころがっておせんべいをかじったりしながら読んでもらってクスッ。なんてわらってもらって、読み終えたら、読む前よりもみなさんの気分が楽しい気分になっていただけたら、いいなと思ってます。
さて前述の『アシタモの世界名作劇場』ですが、世界の有名童話のいくつか「白雪姫」や「ジャックと豆の木」などをマンガにして描いたのですが最近よくみかける「本当は残酷な童話」とかちょっと官能的な解釈で〜とか、そう いった要素はまるでなく、ほんと本屋さんの店先にぐるぐるまわる什器に並べられている、「しらゆきひめ」とかそんな絵本に描かれていたり子供の頃、聞いて覚えている程度の筋書きで、それを僕なりにゆかいに痛快に描かせていただきました。
「漫画」「マンガ」というよりも「まんが」なマンガ本に仕上がったと思います。ふと、ぽっかりあいた時間に「アシタモの世界名作劇場」、いかがでしょうか?

執筆者 アシタモ
 

アシタモの世界名作劇場 2 

[2011年10月/A5/64頁/¥300] 著=アシタモ 発行=アシタモ

 

アシタモの世界名作劇場

[2011年4月/A5/64頁/¥300] 著=アシタモ 発行=アシタモ

 

冒険少女 ゆかいな3人組のおもしろアドベンチャー

[2010年9月/A5/168頁/¥700] 著=アシタモ 発行=ドグマ出版

 





“生きる”なんてことを正面きって考えるのは、ちょっと大袈裟過ぎるかもしれない。それでも、自分たちなりに、リアリティのもてる形で、”生きること”を考えてみたい。そんな想いをもった仲間が集まって、2年前にMOCプロジェクトはスタートしました。
 少し理屈っぽくなってしまいますが、MOCという言葉は、MOMENT OR CHRONICLE(瞬間または歴史、とでもいう感じの意味を込めた造語)の頭文字です。その言葉には、私たちが”生きること”を考える時に、瞬間、つまり限りなく私たちの身近にある実感にフォーカスすることと、歴史、つまりできるだけ客観的に大きなイメージでその全体をロングショットで捉えようとする視点を同時に持とうという想いがたくされています。
 一冊の本に、どんなふうに私たちの思いを託そうかとミーティングを重ねている時、3月11日の東日本大震災が起きました。震災によって、私たちは”生きること”がリアルな現実の問題であることを改めて痛感させられました。この震災によって私たちが受けたインパクトを、私たちがつくる本のテーマにしよう。そこから具体的にプランが動き出しました。
 まず、今回の震災を経て何を感じ、どう動いたのかを書いて欲しいと、私たちとなんらかの交流がある方々に呼びかけました。この呼びかけに、直接被災した人、いちはやく支援に動き出した人をはじめ、世代を超えた多くの人から応えをいただきました。特集「いのちは生きる方へ向かう」は、40名の方々の声でできあがりました。
 さらに、この震災をきっかけに、よりリアルな問題となった私たちの生きる価値観を見直すためのヒントとなる提言として、第二特集「自然の力・子どもの力」を企画、オークヴィレッジの稲本 正、上野英二両氏、エッセイストの柳田邦男氏、他の方々にご協力いただきました。
 この他、真摯な姿勢で終末医療に取り組んでおられる鳥取・野の花診療所の徳永 進む医師、金融機関として唯一、脱原発の姿勢を打ち出した城南信用金庫の吉原 毅理事長、世代を越えて人間を掘り下げる仕事を展開する作家の戸井十月氏など、その真摯な生き方について、なにより私たちがお話を伺いたかった方々にも御登場いただくことができました。
『MOC2 いのちは生きる方へ向かう』は、3月11日を体験した私たちが共鳴した、新しい時代に向かう声を集めたメッセージをブックです。本書が、”生きること”について振り返ってみようとする方の対話相手になることができたなら幸いです。
 なお、MOCプロジェクトではウェブサイトでもメッセージを発信しています。ぜひのぞいてください。

MOCプロジェクト同人 前田祥丈

 

moc  モメントまたはクロニクル  2号

[2011年10月/B5/144頁/¥1,238+62] 発行=mocプロジェクト

 

moc  モメントまたはクロニクル  1号

[2011年1月/B5/112頁/¥1,238+62] 発行=mocプロジェクト

 

moc  モメントまたはクロニクル  0号

[2010年1月/B5/82頁/¥952+48] 発行=mocプロジェクト

 



『殴る』は何を殴るのか



『殴る』は僕が付けたなまえじゃない。
だから、実際には『殴る』が何を殴るのか僕は知らない。

そもそも『殴る』というなまえは同誌に戯曲を寄せてくれている三重さんの作品タイトルだ。
それを僕が間違って冊子のなまえにしてしまった。

それでも、そんななまえのまま『vol.2』まで出してしまったのは、
僕に「殴る」ことについて何かしらの自覚があったからかもしれない。

そこで、「何を殴るのか」と表題してしまった以上、その対象を嘘でも捻り出していきたいと思う。

遅くなってしまったけれど『殴る』について少し紹介をしてみる。
『殴る』はマンガやイラスト、戯曲など、なんでもありの小冊子で、『vol.0』からはじまって今回で3冊目の発行となる。
誌面の都合上、詳細は割愛するけれど各冊子データは以下の通り。各行末のURLに各参加作家など詳細が記載されているので参照してほしい。
・『殴るvol.0』2011年3月26日発行 (http://naguru.info/archive/vol00/
・『殴るvol.1』2011年8月14日発行 (http://naguru.info/archive/vol01/)
・『殴るvol.2』2011年10月30日発行 (http://naguru.info/archive/vol02/

『vol.0』は3冊中唯一、本文中にカラーページがあり、アロンアルファを使って会場で製本した。
今年の2月〜3月は、殴られ続けたような期間だった。詳しくは私事だから割愛するけど、そこで出会った人たちに原稿を依頼した。
『vol.1』は印刷と製本を外注した。
地震で『vol.0』に参加してもらえなかった作家や、名古屋の作家にも参加してもらった。半年の間で少しだけ広がった世界が見えた。

ここまで書いて気付くのは『殴る』は合同誌であると同時に、僕が「殴る」対象である「何」かに接近する手段であるかもしれないということだ。
では、『vol.2』ではどのように接近、もしくは接近に接近したのか。

ここで『vol.2』の内容を紹介する。
・漫画『ドキドキ脳count 2ndBRAIN』 20m61
    『vol.0』からの連載物。脳姦により誕生した情報生命体の見た夢と絶望。電話を掛けてきたのは誰だったのか…
・漫画『それいけ!G喰い☆しんぼ君』 robotme+青山くるみ
    作者が高知で着想を得た、居候のG喰いしんぼ君とお母さん、そしてその息子の物語。見せ場であるゴア描写は後述の青山くるみ氏による。
・テキスト『2004年10月』 Yoshitaka S.T.
    ヨーロッパのある都市。突然若者たちに誘拐され、わけもわからないままに解放される。
    作者の実体験を抒情的に綴ったエッセイ。
・イラスト 青山くるみ
    作者のイラストを見ると、僕は遠くに来てしまった気がして悲しくなる。
    というのは言い過ぎで、同時に非常にファニーな気分にもなる。
・漫画 春田幸江
    『vol.1』では煩悩破滅系漫画を描いてくれた氏が描いた超越宇宙系漫画。
    読者の皆様にも是非、見開き2ページの超宇宙でトリップしてほしい。
・イラスト 千田智子
    はっきりとした筆跡で描かれた幾何学的な、模様のような、漂っているような、踊っているような、イラスト。
    見るたびに違う動きをする。明日はどのように見えているだろう。
・イラスト psyain
    校舎。制服。落下する人たち。ひらひらと舞うのはカーテンかスカートか。
    ただ一着だけ、中央に配置されたセーラー服のリボンはほどけて、どこかへ溶けていくところだ。
・戯曲 三重
    走行中の電車内。青年と中年女性がいる。緊張感と滑稽さが同居する奇妙な閉鎖空間。
    そこで繰り広げられる会話の殴り合い。

いかがだろう。
作り手として『vol.2』にしてようやく“「殴る」相手”がおぼろげながらも像を結んできたように感じている。

そこで些か乱暴だけど嘘でも「殴る」対象を結論しよう。
それは「あなた」であるところの「わたし」ではないか。

疑念は募るけれど、「あなた」の目でこの仮説に挑んでもらえれば幸いに思う。

文責:張昌輝



殴る。 Vol.2

[2011年10月/A5/36頁/¥500] 発行人=張昌輝 

LOW HIGH WHO? (ローハイフー)とは



 ローハイフーという言葉は南米のインディオの言葉(パラグアイのグアラニー語で「ROHAYHU」 )愛しているという意味を持ちます。2001年に日本在住のアルゼンチンと日本のクオーターでもあったVictor Paranero(ヴィクトル・パラネロ)に出会い、この言葉を教わり、その後、英語を用いて捩り「LOW HIGH WHO?」となりました。
 2006年、LOW HIGH WHO?を設立。日本各地に点在する独自に活動する表現者(主にラッパー、ビートメーカー)を集い、作品をきっかけに独自のコミューンを形成、新しい時代へのモデルとして成長しています。ネットを発信源としてきましたので地域性の無い自由なコミュニケーションによる実験的な創作も可能となりました。そして僕たちの作るプロダクションは人が生きる上で必要な「言葉」と「思い出」を大切にしています。ラップ、ポエトリーなどが中心ですが「詩」とは違う、生活の中に密接に存在するような「言葉」そこから連想される人の思い出や記憶、表現がその要素となるように物作りしています。「どうコストをかけずに活動できるか?」
 

lhwnewlogo3.jpg そこからフリーダウンロードアルバムという発信方法を当時は斬新でしたがいちはやく取り入れ、CD、CDR、映像など自分たちの力でDIY力を頼りに活動してきました。それが今日では若者の音楽活動の主軸になり、自由に表現ができる素晴らしい時代になったんじゃないかと思っています。お客様との距離も凄く近い事もすごく嬉しいです。色んな声を頂きました。
 作品を誕生日プレゼントとして購入して頂けたり、夢や将来の活力となり、クリエイトするイマジネーションにとなり、自分たちが見える場所でこうやって色んな方々の人生に力添えできることの喜びはすごく大きなものです。そうした声がまたさらに新しい表現を生んできました。作るものと受け取るものの循環が僕にはかけがえのないものです。
 また、映画やCM、WEBなどの楽曲提供をはじめ、様々なアーティストへのビート提供、リミックス、映像、アニメーションの制作など外へ向けての制作活動も行っています。内外による活動は僕にとってはすごくバランスがいいものです。
 2011年、今年はLOW HIGH WHO?を立ち上げて5周年になります。節目を感じています。プロダクションからレーベルとしての作品全国リリースが始まり、5周年記念アルバムの発売、USTREAMを用いた番組「2.5D」に出演、初のインタビューにも挑戦しました。今年ももうすぐ終わり、セカンドスタートが始まろうとしています。僕の新しい目標も生まれました。
 何年かかるかは分かりませんがゆっくりと目標に向かい、突き進んで行きたいです。僕達は音楽や芸術に新しい価値を見出し、人の心に残るような作品づくりを目指しています。それが、僕達の作るLOW HIGH WHO?というプロダクションです。

〈作品紹介〉
〈CDR〉D.I.Y.-Harvest and Autumn / LOW HIGH WHO?

[2011年9月/全20曲/¥2,000] 発行= LOW HIGH WHO?

LOW HIGH WHO? 5周年を記念して制作した所属アーティストの結集によるファーストアルバム。元ズットズレテルズの呂布、8th wonderのfake?HAIIRO DE ROSSIも参加。

〈CDR〉ラブリー・ラビリンス/ 不可思議/wonderboy

[2011年5月/全8曲/¥1,575] 発行= LOW HIGH WHO?

不可思議/wonderboyのファーストアルバム。人生の迷宮を愛してしまった男のポエトリーラップ。 至極の11篇。今年、2011年6月に他界。唯一のフルアルバムとして彼の言葉が生き続けている。

〈CDR〉点灯符 / tototeruru

[2011年10月/全11曲/¥1,050] 発行=LOW HIGH WHO?PRODUCTION

夫婦フォークポップデュオ「tototeruru」 10年目にして初の作品集「点灯符」良質なポップスとジャパニーズクラブミュージックに通ずるまさに10年を歩んで来て生まれたアルバム

〈CDR〉Kuroyagi/山羊の夢は夜ひらく

[2011年9月/全30曲/¥1,050] 発行=LOW HIGH WHO?PRODUCTION

全30曲にもおよぶノイズ、ラップ、ヒップホップ、フォークの構成によるKuroyagi初の作品集。日本語を崩したオリジナルのラップ 手法やリリックの ユーモア、ギター一本から編み出すノイズ音からKuroyagiのこだわりが伝わる若くして手に入れたThe Kuroyagi style

〈CDR〉COLORS / Monk is my absolute

[2011年8月/全11曲/¥840] 発行= LOW HIGH WHO?

グランドピアノをダイレクトレコーディングで完成させたアルバム「COLORS」。レーベル「ECM」を彷彿させるかのように柔らかく透明でノスタルジック なブルーが染みてくる。15歳の頃、セロニアス・モンクに影響を受け、モダンジャズに傾倒し独学で始めたピアノ。人間性が音色に投影され彼のピアノにはそ の優しさに包まれている。

〈CDR〉POP RAP / Momose

[2011年5月/全12曲/¥1,050] 発行= LOW HIGH WHO?

長野から贈る新しいローハイフーのラップピープルMomoseファースト作品集が完成。とにかくポップでメロディアス、たまに攻撃的。アルバムには LHW?勢によるプロデュース。声質にも中毒性がありFISHAMANSやイルリメなど好きな方にオススメします。まさに「ポップラップ!

〈 CDR〉Subsistence sound / LOW HIGH WHO?

[2011年5月/全12曲/¥1,050] 発行= LOW HIGH WHO?

2010年をまとめたLHW?アーティストによる19曲入り音源集。「自給自足の音楽を」をテーマにヒップホップやロック、ポップ フォーク、ありとあらゆるジャンルが一貫性に統一されていてこの一枚でLOW HIGH WHO?とは何なのかが分かる作品になっている。


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LOW HIGH WHO? Production
web : http://www.lowhighwho.com <http://www.lowhighwho.com/>
mail : mail@lowhighwho.com
twitter : http://twitter.com/LowHighWho
soundcloud : http://soundcloud.com/lowhighwho
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   「革命家養成塾」というのをやっている(「いた」というべきか)。
  福岡市内某所に一軒家を借りて塾舎とし、08年秋にスタートした。一期半年のシステムで、塾生はこの3年間で(中途で脱落した者も含めて)総勢十数名、その多くが07年の東京都知事選で私の存在を知った若者たちである。
  革命家なんて「養成」できるの? とたいていはかなり小馬鹿にしたニュアンスで訊かれることもよくある。革命家は育てるものではなく勝手に育つもので、革命の理論なり理念なりを教え込めば革命家になるってわけでもあるまいに、ということだろう。
  が、そんなことは百も承知なのである。「塾」なんて形式で可能なことはしょせん知識の詰め込み以上ではなく、だから我が革命家養成塾ではひたすら「詰め込み教育」をおこなっている。例えて云うならロックをやりたいという若者に「じゃあコレを聴いとけ、アレも聴いとけ」と古今東西の名盤の類を片っ端から聴かせるようなことで、「ロックをやりたい」というモチベーションそのものは当人の自発的意思に拠る他ないけれども、すでにやる気になってるんなら可能な限り大量の音源を聴いておくに越したことはないし、「最低限これぐらいは聴いとかなきゃ話にならん」という範囲だってある。それと同じで、そこらへんのボーッとした奴を引っ張ってきて革命の何たるかを説きに説いたところで革命家になんかなりゃしないけれども、すでに革命家たらんと志向しはじめた者のアタマに詰め込むべきことはたくさんある。具体的には、当然まず左右の反体制運動史については細かいところまで徹底的に叩き込む。哲学・思想史も大雑把には押さえてもらう。さらに文化運動史というか、前衛芸術やカウンターカルチャー、サブカルチャーの歴史。
  要するに政治・思想・芸術という三分野の運動史を、塾生たちに半年間かけて詰め込めるだけ詰め込んで、あとは野に放つ。そういう塾をやっている。
  つくづく思い知らされるのは、革命の志と一口に云っても、高い志もあれば低い志もあるわけで、同じ半年間のカリキュラムは両者に歴然たる差をもたらすが、そもそも志の高い者は稀で、そこは教える側の努力ではいかんともしがたいという無力である。革命家養成塾はそろそろ閉鎖するか、システムを大幅に変更することを考えている。
  『メインストリーム』は、正直云って数少ない、優秀な卒塾生2名によって創刊された芸術思想誌(的な何か別のもの)である。一応「野に放」った後なので、私は今回、寄稿はもちろん一切の口出しもしていない。他の執筆陣も、主にネット上で方向性の合いそうな若い論客を「発掘」しては寄稿を依頼した人たちだという(「特別寄稿」者として昨今若いファンを増やしている最も非転向な全共闘論客・千坂恭二氏の名も)。
  一読し、革命家養成塾の運営に費やした3年間がまったくの徒労ではなかったことに、私は少しホッとしている。

文・外山恒一
革命家。「アナキズム+ナショナリズム=ファシズム」を掲げる我々団(九州ファシスト党)総統。07年の東京都知事選に立候補し、政見放送で「政府転覆」を訴えた。


創刊に寄せて メインストリーム編集部
メインストリームの芸術イデオロギー 東野大地
ニゥルンベルクの側に立つ者 トモサカアキノリ
kidnap AKB48 AND RAPE THEM @No_001_Bitch
反原発デモと日の丸——素人の乱VSはてなサヨク 松平耕平
偏在する現実感を弾圧することは可能か 田島逸郎
映画評『ワルキューレ』複製技術時代の首都掌握計画 山本桜子
エルンスト・ユンガーと文学の誕生 千坂恭二
それは何処までも正しい悪意ある世界 朧塚
風化wander 末素生児
原発爆砕考 松山孝法
芝居で何が出来るのか、何をするのか 眞壁良輔
真の幸せ〜changing my gender 古澤圭介
双六 山本桜子


『メインストリーム』編集部
東野大地:1987年生まれ。2010年黒色クートベ卒。
山本桜子:ダダイスト。2009年黒色クートベ卒。

 

MAIN STREAM 創刊号

[2011年9月/A5/23頁/¥400] 著=20 発行=メインストリーム編集部

 

----------------外山恒一関連----------------

青いムーブメント まったく新しい80年代史

[2008年5月/四六判/314頁/¥1,900+95] 著=外山恒一 発行=彩流社

デルクイ 01 反体制右翼マガジン

[2011年2月/A5/192頁/¥1,500+75] 編=『デルクイ』編集部 発=彩流社



テント劇「野戦之月海筆子」紹介



 「野戦之月海筆子(やせんのつきハイビィーツ)」は東京と台湾台北に拠点をおくテント劇団です。日本在住のメンバーは約20名で、それぞれが他に仕事をもつアマチュアの劇団です。劇団結成以来17年間、東京を中心に広島、北九州、台湾、韓国、中国などでテント劇活動を行ってきました。
 今年の震災以降は、東北石巻の被災地にメンバーが代わる代わるボランティアとして入り活動しています。その縁で9月21日から石巻牡鹿半島の4カ所でテント劇を行うことになりました。10月後半から東京・横浜で行う予定であるテント劇「汎やぽにあ民話ーフクビキビクニ譚」はその総集編です。

<「汎やぽにあ民話——フクビキビクニ譚」序文>
 
通路が壊れた。これが初めてというわけではない。
すこし慣れてきただけで、とりわけ快適な通路だったわけでもない。
だが、なんらかの通路がなければ墓に向かうことができない。
墓も通路も世の中がつくるもので、その世の中は墓とその通路を必要とする人間とい
う生がつくるものだ。
 
道はある。迷うほどに道はある。 ただ、どの道もたよりなくあんまり寂しい。
途方にくれた道の途上に、一ときの吹きだまりができる。
ひとりひとりが携帯してきた夜がその洞窟をつくる。
そこでは、すこしずつ鳴りはじめやがて響きあう記憶の群れと、
それに呼応する絞り出された脂汗のような言葉とが、
頭も四肢もないトルソーのような民話をつくる。
 
「汎やぽにあ」は水平を抱きながら、身をよじる土地だ。
通路の復旧の手を一時休めて、
私らのテント劇は、この土地に再生・創生する民話と民話を架線し、
互いを引き寄せながら、この途上の一夜に立ちつくす。


<梗概>
 
「やぽにあ」と呼ばれている土地がある、いや、それはあるともないともいえない土地だ。それは、聞いた覚えのない民話で語られた昔の地名であるのか。あるいは、町に覆い被さっている憂いの薄皮をめくって現れようとしている新しいマチを、だれかがそう呼んだのかもしれない。八百比丘尼を自称する姉妹が経営する「福引屋」という宿がある。この宿を舞台に物語がおこっていく。八百比丘尼は、人魚の肉を食べたばっかりに、不老不死となった女性のことだ。周辺をうろつく牡鹿の一群は、どこかの作業現場から逃げ出した労働者が変幻したものらしい。
 

 「やぽにあ」のうわさを聞きつけて、「おろち」がやってくる。「おろち」は遠い昔、自分の尾から盗まれた刀剣を探しているのだった。それが「やぽにあ」にあるという。また、「大鴉」と呼ばれる男は「泣き男ヒトデ」と「笑い袋ムカデ」を使って逃げだした労働者を追っている。そしてこの土地に「やぽにあ」を幻視し、烏族のかつての烏托邦(ユートピア)を見る。「かもめ」という名の旅をする女はどうやら本当の八百比丘尼らしい。「無常鬼」というのはジゴク保険会社からやってきたソロバンを鳴らす鬼だ。彼もまた調査のために「泣き男ヒトデ」と「笑い袋ムカデ」を雇う。
 

他に、遠い南の島からは「天花」という南天雑伎団の団員。かつての飢饉の果てに沼に身を投げて鮒となった「すわ」。家族のお祝いに赤飯を食べさすために自身は沼になってしまった小豆洗いの「ヌマ」。欧州からやってきた巨人「でいだらぼっち小栗」などが登場する。


<東北公演の様子>

http://www.youtube.com/watch?v=4EQVJo0GP20
http://www.youtube.com/watch?v=_TviQ9cEBJ8

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野戦之月海筆子2年ぶりの日本公演!
小規模簡易型テントによる「民話劇」 


野戦之月海筆子 2011年秋公演
「汎やぽにあ民話ーフクビキビクニ譚」

<牡鹿石巻版>

9月21日(水)牧山市民の森 第二駐車場

9月22日(木)阿部喜一様宅 庭
住所:石巻市沢田字志の畑73-1

9月24日(土)元JAいしのまき渡波支店横 空き地
住所:石巻市渡波2丁目1-23

9月25日(日)石巻旧牡鹿公民館 駐車場
住所:石巻市鮎川浜湊川63番地


<東京・横浜版>

10月22日(土)23(日) 東京夢の島公園第五福竜丸前テント
10月29日(土)     横浜寿町寿町生活館前公園テント
11月3日(木)4日(金) 東京井の頭公園西園ジブリ美術館となりテント


<開場・開演時間>
(牡鹿石巻版、東京・横浜版とも)開場 18:30 開演 19:00

<公演時間> 
(牡鹿石巻版)約1時間20分
(東京・横浜版)約1時間50分

<料金>
前売り・予約 2000円、当日 2500円、
中高生 1000円、小学生以下 無料
(牡鹿石巻の4カ所公演は無料、横浜寿町公演はカンパ制です)
 桟敷自由席で受付順の入場になります。


<予約・問合せ>
携帯 090-8048-4548
E-mail yasen2011@ezweb.ne.jp

 メールでの観劇予約を受付ております。
 予約をされる方は、お名前と、観劇予定日、
 枚数を送信下さい。


<演員>
ばらちづこ 森美音子 つくしのりこ 阿花女 許雅紅 武内理恵 志
衣めぐみ リュウセイオー龍 瓜啓史 ロビン 渡辺薫 濱村篤 
桜井大造
(牡鹿石巻版のみ)台湾海筆子

作演出 桜井大造
照明 2PAC 
音効 新井輝久
衣裳 裸の鋳型
宣伝美術 春山えみ
通信 濱村篤 水野慶子 
印刷 制作室クラーロ
翻訳 李彦
後見 伊井嗣晴 崔真碩 太田なおり 阿久津陽子 中山幸雄 遠藤弘貴
制作 野戦之月制作部 VCを支援する会・山形 押切珠喜
協働単位 台湾海筆子

協力 マダンの光 独火星 広島アビエルト 「山谷」制作上映委員会
 クニタチ読書会 国立木乃久兵衛 中国北京「臨」テント劇連絡会

音楽 野戦の月楽団 原田依幸 
生演奏 (牡鹿石巻版のみ)大熊ワタル楽隊

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心はいつも15歳…嫌な言葉だ。
しかし実際、物心ついた辺りからだろうか、自分が成長したという実感が持てずにいる。なんなら、明日朝起きたら学ランを着て学校に行けと言われれば行ける。それくらい、昨日という時間は今日の前日なのであって、それが1年前であっても20年前であっても、大して差を実感できないのだ。
だから、自分にとっての楽しみというものが加齢と共に変遷を辿るということが、全く理解できない。子供の頃から好きだったマンガが、いつどの瞬間で嫌いになれるのか。いや、仕事や雑事に追われ、それどころではなくなるという環境の変化なら理解できる。時間的にも金銭的にも、仕方なく「断ち切る」という行為だ。
しかしだからといって嫌いになったわけではない。いつだってあの頃に気持ちは戻れるんだ。ただ、今ちょっと大人の事情でお休みしているだけなんだ。
という下手な言い訳をしながら、多くの人は老い、戻ることなく死んでいくのだろう。一度切ったら戻れない。切るべきか続けるべきか。さぁ、さぁ、さぁ!

そんな究極の選択、知ってか知らずか、切ってしまった人にこそ読んで欲しいのが本著。
上級生に怯えつつ駄菓子屋でもんじゃつついてゲームやって、夕暮れ時、湯気立つ夕げの匂いを嗅ぎつつ、買い食いした駄菓子片手に家と家の隙間を塀づたいに探検して、錆びたトタンのボロ家から出てきたオッサンに恐怖し、宵闇迫った街灯の明かりに浮かび上がる銭湯帰りの女の濡れ髪にドキドキ…
そんな子供が大人になって、狭い平屋の中華屋でチャーハン食って、10円玉を弾く駄菓子屋の隅にあったゲームをコレクションした博物館で興じ、肉屋の軒先で揚げたてのメンチを頬張り、履物屋やお茶屋が連なる商店街の路地を抜け、民家転用された遊廓跡や旧日本軍の施設におののき、宮造りの寺のような銭湯に浸かって、崩れかかったような煤けた大衆酒場で酎ハイを煽るのだった。

全く変わってない! 駄菓子がフライになり、アルコールが加わった程度で、大人として許される範囲でも、やりようはいくらでもある!
本著シリーズは各地域ごとの特徴を自分なりに取り上げ、自らルート設定し徘徊を暴食を実践することで、具体的方策を提案する。
最新刊11年夏号『戦跡商店喰い』では、板橋〜蕨宿の中山道沿いを中心に、焼き鳥やカレーパンを頬張りながら商店街を巡る。戦前商店建築や旧軍施設跡に着目し、銭湯に立ち寄りつつ、半ちゃんラーメン、喫茶店のナポリタン、牛丼カツ丼を貪る、という誠以って怠惰ながら、その上あの頃そうであったボクらにとってはこの上なく甘美な休日が羅列されていることだろう。
またその副読本として、未掲載店のレポートや写真を収めた限定制作の手製中綴じ本『街道をくう02−ガチンコ!中山道』も併せて御笑覧頂ければ、路地裏迷宮の混迷度も増すことだろう。

私自身は谷根千と呼ばれるエリアの路地の奥の奥で、スペシャリティと呼ばれる流通の難しい珈琲と、日本で唯一無殺菌の許された搾りたての牛乳本来の味が保たれる想いやり生乳を扱う飲食店を営んでいる。お一人様メインで、読書などでマッタリと過ごされている人がいる場合、会話禁止とさせてもらう大人の空間である。公共空間として、他人に迷惑をかけないという最低限のマナーが守れないものには注意を促すが、それは本来個人商店が持っていた教育的機能であって、子供時分に駄菓子屋などでバアさんや上級生から学ぶべきことだ。それが確実に機能しなくなりつつある現代でも、維持させるべく、いわば一つの使命として、自らの店の空間を保つようにしている。
常識が通用する空間で、ホンの一瞬でも日常を忘れることができる時間と味が、僅かながらの町歩きに関連した店内閲覧可能書籍(拙著バックナンバーも一通り揃う)と共に提供できたら。

代わり映えのしない日常に、ほんのひと時、あの頃の情熱を。

特別生乳と珈琲の店「結構人ミルクホール」店主 刈部山本
(→結構人ミルクホールHP)


本文で挙げられた『街道をくう02−ガチンコ!中山道』も入荷取り扱い中です(模索舎)


デウスエクスマキな食堂 11年夏号 戦跡商店喰い

[2011年8月/B6/120頁/¥1,050] 著=苅部山本 発行=山本晋



ガール・ジン 「フェミニズムする」少女たちの参加型メディア』発刊によせて

 「わたしはミニコミを作っています/読んでいます」を英語で言うと、 "I make/read zines" 。ZINEはMAGAZINE(マガジン)のジン、FANZINE(ファン ジン=ファン・マガジン)のジン。個人が制作する、少部数の、非商業的な(利益を出すことが第一の目的ではない)出版物のこと。

 本書『ガール・ジン』は、そのなかでも特に少女と女性によるジン活動に注目した、アメリカの学術書です。誰にも頼まれていないけれど、そうせずにはいられないから自分たちでメディアを作ってきた女性たちの事例が丁寧に紹介されています。

たとえば、今日のブログ・SNSの流行に先行する「個人による情報発信」の歴史と成果。激動の出版界とインディペンデント雑誌の諸展開。「ガーリーな」意匠の使われかた。メディアが表現する母親像・子育て情報の変容。複合的なアイデンティティと差別の問題。性差別と人種差別、貧困その他が交わるところで、どのように語り、行動すればいいのか。

そんな現代文化の重要トピックの数々が考察されているわけです が、何がいいって、すべて著者のアリスン先生の感動が出発点と なっているところ。不安なのはあたりまえ、夢見なきゃはじまらない。そう自分に言い聞かせてる感じ。伝わるでしょうか。伝わるといいなあ。生きている人間の呼吸、熱がたっぷり吹き込まれた研究書です。


『ガール・ジン 「フェミニズムする」少女たちの参加型メ ディア』
アリスン・ピープマイヤー 著・野中モモ 訳/太田出版
目次:
第1章 もし私がこういうことを書かないでいたら、ほかの誰かも書きはしないだろうからーーガール・ジンが継ぐ、フェミニストの 遺産と第三波の起源
第2章 なぜジンは重要なのか?ーー物質性と身体化されたコミュニティの創造
第3章 ドレスアップをプレイする、ピンナップをプレイする、ママをプレイするーージンとジェンダー
第4章「わたしたちは、みなひとつではない」ーーガール・ジンに見られる交差的アイデンティティ
第5章 「第三波フェミニズム」するーー希望の公共教育としてのジン


野中モモ:翻訳・文筆業。『ポストパンク・ジェネレーション1978-1984』(共訳)、『アンダーグラウンド・ロックTシャツ RIPPED』(監修)など。ZINEを紹介するオンライン書店 Lilmag(lilmag.org)店主。

ガール・ジン  「フェミニズムする」少女たちの参加型メディア

[2011年9月/B6/415頁/¥3,500+175] 著=アリスン・ピープマイヤー 訳=野中モモ 発行=太田出版

一人きりに回帰 バルトロウとは?



 1986年に東映動画から発売されたファミコンソフト「バルトロン」というシュ―ティングゲームをご存知でしょうか?初期のファミコンは、エンディングがない「エンドレス」な進行設定のゲームが多く、バルトロンもそんなエンドレスゲームの一つでした。宇宙ステージでゲームは始まり、湾岸、基地、鍾乳洞の4ステージと分かれていますがエンドレスに続きます。脳味噌みたいな形のボスキャラが登場しますが、倒してもまたまたエンドレス。親切なことに、タイムスリップ機能が搭載されていますが、何てったってエンドレスなゲーム。

鍾乳洞でタイムスリップ機能を使っても基地ステージに戻るというか進むだけ。やがて幾度目の鍾乳洞ステージに突入・・・。子どもながらに「無意味な機能だなあ」と思いました。

が、私はそんなバルトロンをこよなく愛し、延々とプレイし続けました。親が新しいソフトを買ってくれないからという事情もありますが、まわりはグラディウスやスターソルジャーにうつつを抜かしている最中、私はバルトロンに熱中した・・・。

私にとってのバルトロンとは、暗い部屋で孤独に延々とやり続けるには打ってつけのゲームでした。現実は、親が新しいソフトを買ってくれない事情なんですが・・・。

 一人でやりつづける?

 ・・・何かよくわかんない動機ですし、1970年半ば・第2次ベビーブーム世代じゃないとわからないゲームネタですよね。用は、これまでの私は「小金井駅は宇都宮線だもん」という「小市民のつぶやきカルチャー」的なミニコミを発行していましたが、今回は寄稿者を募らず、一人きりでのミニコミ発行なのです。雑多に言えば、一人きりの「小金井駅は宇都宮線だもん」と解釈してくれれば結構です。今後もバルトロンのゲーム進行のように、エンドレスに続けられればと思います。

 ミニコミ発行以外での私ですが、フルタイムで仕事をしています。ブログ上での自己紹介では「公共サービス委託労働者」という大枠な肩書ですが、これについては11年前の勤労大学生時代から、現在に至るまで生業としています。寸志のような年3回のボーナスのおかげでミニコミの印刷代や交遊費に充てることができましたが、5月に子どもが産まれたことにより、現在の肩書ではギリギリな生活を強いられるでしょう。

「早く大人になって私達を養ってね(笑)」「どうかグレないで、映画版『積み木崩し』のようにならないでね(笑)」と、敗北主義な思いを子どもの寝顔を見ながら語りかけている今日この頃です(半分嘘で半分本気)。

 今回の別冊で注目して欲しいのは、一番は「地震の日から現在まで」という8月現在までの地震体験記ですかね。3月11日の東北太平洋沖大地震は皆さん、よく覚えていると思います。模索舎も店内の商品が崩れまくったようですね。

 今回の地震は東北全域、関東でも甚大な被害と大きな揺れを引き起こしました。その後、地震によって制御を失った福島第一原発は爆発し、漏れ出した放射能によって東北、関東も汚染が拡大。私においても震度5の揺れ、それによる帰宅困難、現在も続く放射能漏れに驚愕し、そのさなかに子どもの出産(彼女のお腹から)もあり、嬉しい反面、放射能による子どもの健康上の心配など、現在までの想いと精神状態が綴ってあります。

 その他の特集ですが「レッツ場末中華」とか「キモいしイタイ系」「テレビに言いがかり」無駄に長い「ビバ盆地」という旅行記は、小金井駅は宇都宮線だもんのエッセンスが散りばめられていると思います。

「世相に訴える」「気が重い映画でも観なさい」は、別冊発行を意識した硬い内容を意識しています。(勘違いと偏見大ですが)

 昨年はミニコミ系のイベントは全部すっぽかしてしまい、後悔しています。既に下半期ですが、今年(来年今頃まで)の抱負は別冊バルトロウを片手にイベント参加もしてみたいですね。どこかありませんか?

 模索舎さんには8年くらい、ミニコミ発行と納品でお世話になりっぱなしですし、今後もそうなることでしょう。

模索舎にお越しの際は、是非ともミニコミコーナーに注目してみてください。

 
河田ソム夫(サムりゃい社):ブログ「小金井駅は宇都宮線だもん@ブログ版」も検索してみてください。

 

バルトロウ 小金井駅は宇都宮線だもん別冊

[2011年8月/A5/81頁/¥450] 著・発=河田ソム夫

渾沌船『ブブ』の大航海  



『ブブ』は、B5サイズに一人一ページで、誰が何を書いてもよいという季刊の自由寄稿誌です。したがって、参加する動機も、テーマも、書き方も、みなそれぞれ異なっていて、ワープロも手書きもイラストも外国語もあります。そうして、送られてきたみんなの生原稿をそのまま印刷してまとめますので、悪く言えばバラバラでまとまりがないのですが、とてもバラエティに富んだ誌面になっています。読者は、思いがけないさまざまの《ことば》に出会うことができるのです。

たとえば、靴みがき屋さんがいるとします。靴みがき屋の《ことば》というものは、本来的には毎日靴を磨くという行為の中にあります。心をこめて丁寧に磨いたり、お客さんとお話ししながら軽快に磨いたり、靴底を修理したりと、日々さまざまな無言の行為としての《ことば》を紡いでいるわけです。その人に『ブブ』の一ページを書いてほしいとお願いすると、当然靴みがき屋としての生き方の《ことば》と、文章表現としての《言葉》との間にズレが生まれます。靴みがき屋さんは文章のプロではありませんから。そのズレの巾を想像していくことが、実に楽しいのです。全ての人は、それぞれの人生を背負っていますから、文章の巧みな人が、靴みがき屋さんのページより優れているということ にはならないのです。そのように、一ページ一ページのそれぞれの書き手の背景を読むことによって、たくさんの発見があります。全く異質な《ことば》に出会って、自分が守ってきた価値観を根底からひっくり返されてしまうこともあるのです。

実際私は、人生の夢や挫折、喜びや希望や失意もほとんど『ブブ』を通して体験してきました。人はみな、なんとまあ渾沌とした宇宙を渾沌としたままさまよっているものだろう。人生の目的とか生きがいだとかも、本当に人さまざまだ。人生はそんなに簡単に、ひとことで整理できるものではないのだろう。

そんなみんなの《ことば》が詰まっている『ブブ』を作ることほど面白い仕事は、この世の中にないだろうと思っています。面白くて楽しくて、気がついたらついつい26年が過ぎていて、このたびまた模索舎へ103号を納品してきました。―――というわけで、あなたも次号に何か一ページ書いてみませんか?参加費千円、配本2冊デス。

編集発行人 白戸郁夫


ブブ 103

[2011年/B5/44頁/¥350] 編/発=白戸郁夫

【KATSURA STYLE】出版記念ツアー




カツラで日本縦断!!!
・日程……9月1日北海道をスタート。後はテキトーです。生きていたらmixi(豆蔵、カツラスタイルで検索)で時々報告します!応援メッセージ待ってます!
・ルート……北海道から沖縄まで。(勢い余って世界まで行っちゃう?!)
・装備……ヘルメットの上からつけたカツラをなびかせながらバイクで疾走!
・五大ドーム制覇……札幌・東京・ナゴヤ・大阪・福岡ドーム(の横の路上)で本を販売!
・マスコミ……ラジオ関西出演!番組で「KATSURA STYLE」が紹介されました!
・書店営業……営業経験ゼロの著者がカツラを装着し全国の書店に炎の飛び込み営業を敢行!

KATSURA STYLE

[2011年7月/A5/118頁/¥1,050] 著=豆蔵 発行者=森内竜



 現心は「うつつごころ」と読みます。この言葉には「しっかりした気持ち」と「夢見るような気持ち」という両義的な意味があります。まるで集団催眠状態にあるような社会を、いかに現(うつつ)を抜かして生きるか、生きないか、そんな問題意識から選書してみました。
 

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ハーポプロダクション
社会起業家ハーポ部長によって興された芸脳プロダクション。他者や書物との語らい(脳の恊働!)が唯一資本の社会的企業(く わだて業)。雑文生産、映像制作、媒介業など。「着る思想」をコンセプトとしたTシャツブランド「RLL」の商品開発、販売促進を担当。RLL http://www.rll.jp/
 








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パンフ『かくめいのうつつごころ』模索舎店頭にて配布中!
通販でお買い上げの方にも差し上げます。













◆アンテルナシオナル・シチュアシオニスト 全6巻

夢世界にうつつを抜かしてたシュルレアリスムを批判的に継承し、ふらふら漂流をキメこんで路上に祝祭をもたらした愉快な文化政治グループの機関誌(全12号を6冊に凝縮!)。年表、解題、注釈、図版多数。上野俊哉氏をはじめバラエティに富む解説陣の筆も奮っている。彼らの活動は、パリ5月革命をはじめ、60年代以降のラディカルな文化運動に多大な影響を与えてきたが、その余波が当時池袋で大卒フリーターをしていた若きプレカリアートをものみ込んだ。膨大な武器庫から取り出した「労働の拒否」(サボってよし!)と「転用」(パクってよし!)は、今でも大事に懐に忍ばせている。パリ発ジュンク堂池袋店人文書棚経由の恐るべきポトラッチ。

状況の構築へ ──シチュアシオニスト・インターナショナルの創設

[1994年7月/A5/410頁/¥4,000+200] 《アンテルナシオナル・シチュアシオニスト 1》 監訳=木下誠 訳=石田靖夫・黒川修司・田崎英明・原山潤一・安川慶治 解説=小倉利丸・杉村昌昭・木下誠 発=インパクト出版会(発売=イザラ書房)

迷宮としての世界 労働と余暇をめぐる闘争

[1995年3月/A5/390頁/¥4,000+200] 《アンテルナシオナル・シチュアシオニスト 2》 監訳=木下誠 訳=田崎英明・安川慶治・石田靖夫・黒川修司・原山潤一・武内旬子 解説=コリンコバヤシ・平井玄 発=インパクト出版会(発売=イザラ書房)

武装のための教育 ──統一的都市計画

[1997年7月/A5/344頁/¥4,000+200] 《アンテルナシオナル・シチュアシオニスト 3》 監訳=木下誠 訳=石田靖夫・黒川修司・原山潤一・安川慶治・榊原達哉 解説=池田浩士・布野修司・伊藤公雄 発=インパクト出版会(発売=イザラ書房)

孤立の技術 ──日常生活のスペクタクル

[1998年5月/A5/426頁/¥4,000+200] 《アンテルナシオナル・シチュアシオニスト 4》 監訳=木下誠 訳=石田靖夫・黒川修司・原山潤一・安川慶治・武内旬子 解説=伊田久美子・上野俊哉 発=インパクト出版会(発売=イザラ書房)

スペクタクルの政治 ──第三世界の階級闘争

[1998年12月/A5/522頁/¥4,000+200] 《アンテルナシオナル・シチュアシオニスト 5》 監訳=木下誠 発=インパクト出版会(発売=イザラ書房)

一つの時代のはじまり 五月革命の権力

[2000年3月/A5/446頁/¥4,000+200] 《アンテルナシオナル・シチュアシオニスト 6》 訳=石田靖夫・黒川修司・原山潤一・安川慶治・北原ルミ 監訳=木下誠 解説=吉見俊哉・田崎英明 発=インパクト出版会(発売=イザラ書房)

来たるべき蜂起 L'Insurrection qui vient

[2010年5月/四六判/188頁/¥2,000+100] 著=不可視委員会 訳=『来たるべき蜂起』翻訳委員会 発行=彩流社

ポスト・シチュアシオニストを標榜する『ティクーン』誌の運動の流れから出現した匿名グループ「不可視委員会」による「ひとつの事件」のような本。昨年の「なんとかフェス」で一晩中踊り明かした翌朝、ハンモックに揺られながら夢うつつな気分で耽読したこの本の世界が、今年になってもの凄い速度で現実展開されている。蜂起とコミューン、胡蝶の夢。去年、ペペ長谷川氏が常に持ち歩いていた重要本。

T.A.Z.   一時的自律ゾーン

[1997年10月/B6/288頁/¥2,300+115] 著=ハキム・ベイ 訳=箕輪裕 発=インパクト出版会(発売=イザラ書房)

みんなが大好きな概念「TAZ=一時的自律ゾーン」。はたしてちゃんと通読している者がどれだけいるだろうか。Tシャツにしてしまうほど大好きなボクでさえ、拾い読みしかしないのに。概念の感覚的把握と日々の実践が重要な一冊。

怠ける権利

[2008年8月/文庫/236頁/¥1,200+60] 《平凡社ライブラリー 647》 著=ポール・ラファルグ 訳=田淵晉也 発行=平凡社

美娘ローラと、父親(カール・マルクス!)の反対を押し切って結婚したキューバ生まれの熱血混血活動家(マルクスに一番近しいマルキスト?)によるスーダラ・マニフェスト。「怠ける権利」を主張しておきながら、実は本人はやたら精力的に活動した後に計画的自殺しているんだけど・・・当時はまだ文庫が出てなかったのでボブ・ブラック『労働廃絶論』などと一緒にネット上にあった翻訳で読んだのだと思う。「一日三時間しか働かず、残りの昼夜は美味いものを食べ、怠けて暮らすように努めねばならない」という主張は馬鹿らしいと思ったが、それも一理あるな、とシューカツ中だったボクは、活動の方向をくるりの反転させ、ポール・ボウルズ(ギルロイと共にボクの三大ポール)のいるモロッコのタンジールに逃避。ボウルズの家に向かう最中の旧市街の迷路で強盗に遭遇し、やっぱ真面目に働く世界のほうがいいかも、とそのときは思ったのだった。


象徴の貧困 1 ハイパーインダストリアル時代

[2006年10月/四六H/256頁/¥2,600+130] 著=ベルナール・スティグレール 訳=ガブリエル・メランベルジェ+メランベルジェ眞紀 発=新評論

どうやら怠けている場合じゃないぞ、と思わせるのがこの本。テレビを見ながらごろごろしてるなんてもってのほか! 20代の多感な時期に銀行強盗の罪で5年間監獄生活を余儀なくされた著者のその後の向上心がすごい。出獄後はデリダのもとで哲学を学び、フランス文化政策の要職を歴任して現在はポンピドゥー・センター文化開発部長。「テレビを見るとバカになる」とよく言われるがこの本の主張も同じ。マーケティングによる感性の条件付けがボクたちの「こころ」を貧しくし、生きづらくさせている。フジテレビ相手にデモをするくらいなら、「象徴の貧困」の温床であるテレビという装置/文化産業に対してデモを! 彼の主著『技術と時間』シリーズは哲学門外漢には難解過ぎるが、『象徴の貧困』シリーズは哲学書を読まない人にこそオススメ。ただ翻訳が追いついておらず、第2巻「一般的感覚器官の組織学のための基礎」(副題意味不明だけど)が待ち遠しい。


出来事のポリティクス 知-政治と新たな協働

[2008年6月/A5H/382頁/¥2,800+140] 著=マウリツィオ・ラッツァラート 訳=村澤真保呂・中倉智徳 本文組版・装幀=洛北出版編集 発行=洛北出版

以下はエピグラフで使われているフランスのあるテレビ局社長の発言。 「ある広告のメッセージをテレビの視聴者に受容させるためには、彼らの脳を働いていない状態にしなければならない。われわれにとって放送という仕事は、人々の脳を働かないようにすることである。つまり、人々を愉快にさせ、二つのメッセージのあいだでゆるんだ状態にすることである。われわれがコカコーラ社にたいして売っているのは、人々の脳が働いていない状態にある時間なのである。」
オルタ認知資本主義のリーディングカンパニー、ハーポプロダクション推薦「脳の恊働」の正しい実用ヒントを教えてくれる「左翼系ビジネス書」(廣瀬純)。


ポストフォーディズムの資本主義 社会科学と「ヒューマン・ネイチャー」

[2008年2月/四六判/238頁/¥2,500+125] 著=パオロ・ヴィルノ 訳=柱本元彦 発行=人文書院

人間は他の動物より劣っていることをまず自覚しよう。人間は「ネオテニー」(慢性的な幼年期)の動物であり、なんとも弱々しい存在なのだ。動物は、環境の中の生態的ニッチに完全に対応した器質と本能を持っているので生き方に迷いがないが、そんな安定した環境を持てない人間は、まさににっちもさっちもいかない状態。その代わりに「世界」や「疑似環境」というものを作るわけだが、これが不安定極まりない(原発はその極み!)。「フレキシブル」こそ人間の条件だと思えばなんとかやっていける、のか。人間的能力のすべてを剥き出しにして労働へ動員するポストフォーディズムを生き抜くための「左翼系成功哲学書」(ハーポプロ)として読んでみよう。アフォーダンス系の本と絡めて読むと実務にも役立つだろう。


ガブリエル・タルド 贈与とアソシアシオンの体制へ

[2011年5月/四六H/448頁/¥3,200+160] 著=中倉智徳 発行=洛北出版

夜の社会学者タルド、その二重生活者ぶりに興味があった。パリ国立図書館勤務の傍ら、しこしこエロ小説を書いて匿名で出版したバタイユ然り。貴族の出、裁判官であり後に司法省統計局長まで昇りつめたこの男と思想的な友達になれるかどうかという悩みを解決してくれたのが本書。ラッツァラートの功績も大きいが、この本のおかげでタルドが「あっち側の人間」から「こっち側の人間」になった。洛北出版の本はおもわずレーベル買いしてしまうくらい毎度装丁や帯のコピーがイケている。「社交性の花を咲かせよ」を座右の銘にしよう。


模倣の法則

[2070年09月/B6/547頁/¥5,800+290] 著=ガブリエル・タルド 訳=池田祥英・村澤保 発行=河出書房新社

タルド曰く「社会とは模倣であり、模倣とは一種の催眠状態である」。模倣癖の悪さを自覚している人間が自己肯定をするために読む本であると同時に、選書テーマである「革命の現心」のキモとなる分厚いヤバ本。模倣と模倣どうしが幸福な出会いを果たす発展場(発明場?)が今後さらに重要になってくるだろう。


ドゥルーズとガタリ交差的評伝

[2009年8月/A5H/537頁/¥6,900+345] 著=フランソワ・ドス 訳=杉村昌昭 発行=河出書房新社

一人の人間における観念的な思想と実生活における振る舞いの差異を研究すべく思想家の自伝や評伝をいろいろ読んできたが、その中でも滅法面白いのがこれ。なにせ二人ぶんの伝記が交差し響き合っているのだから。議論が大嫌いなドゥルーズ、性急に回答を迫る活動的なガタリ。まったくリズム感の違う二人がいかにして共同作業機械となってD&Gのビートを刻んでいくのか。創作の妙はコラボレーションにあり、と考える者にとってその秘密に触れられる喜びは大きい。D&Gの著作を読みたいけど、どこから入っていいか迷っている方にはまずこの大河ドラマから入ることをオススメしたい。


ニューヨーク烈伝 闘う世界民衆の都市空間

[2006年12月/四六判/524頁/¥2,800+140] 著=高祖岩三郎 発行=青土社

NYという街にとくだん興味がないという理由だけで本書を読んでいないとしたらきっと人生損している。社会に不満を持って都市の巷(ちまた=道股)をうろつく無数の無名民衆必読書。単なるNYストリート史の興味深いエピソード集に収まらず、ゲイ/レズビアンの創造的かつ感動的な運動や、グリーン・ゲリラやイッピーたちの頓知の効いた闘争の歴史が、東京の巷(界隈ともいう)の今に接続可能な仕組みになっている。とりあえず群れることからはじめよう。厳しい状況を描きながらも、文章が喜びに満ちあふれている(「!」多し)のは基調音としてD&Gビートが流れているせいだろう。続編『流体都市を構築せよ!』(青土社)とグーグルアースをお供に。


スピノザ 共同性のポリティクス

[2006年3月/四六判/302頁/¥2,600+130] 著=浅野俊哉 発行=洛北出版

喜びは汝の活動力を増大させるから善で、悲しみは逆に減少させるから悪。実にわかりやすい。高校の倫理の教科書に指定したい。

新自由主義と権力 フーコーから現在性の哲学へ

[2009年11月/四六H/200頁/¥2,400+120] 著=佐藤嘉幸 発行=人文書院

前半はフーコーでバビロンシステムの仕組みを解説し、後半はドゥルーズで抵抗の仕方を探る。実にわかりやすい。高校の公民の教科書に指定したい。

プレカリアートの詩 記号資本主義の精神病理学

[2009年12月/B6/261頁/¥2,800+140] 著=フランコ・ベラルディ 訳=櫻田和也 発行=河出書房新社

これは道徳の教科書に指定・・・いや無理だ。「未来なんて心配ない、そんなものないのだから」「自殺こそが希望だ」なんて高校生に教えるのは酷過ぎる。しかし、もうここまで社会が悪くなったら、うつ病やひきこもりになるほどの暗闇から始めないと、本当の光なんて見えてこないのかもしれない。「会うと飲み屋」と粉川哲夫氏に揶揄された「ならず者」集団?アウトノミアの運動史を描いた『NO FUTURE』(洛北出版)を併せて読むといい。廣瀬純氏によるビフォへのインタビューを読むと彼のパーソナリティーが掴めて、本書の読み方に変わってくるだろう。「世界中のひきもりたちよ 団結せよ」という日本の読者向けた熱い文章を書く男がネガティヴ人間なわけがない。いや、単に躁鬱なだけかもしれないが・・・米西海岸で交流したサイバーパンクカルチャーの影響か、文体がユニーク。薬物と神経系と経済を絡めた分析が面白く、政治に目覚めたバロウズやディック好きにもオススメ。


汝の敵を愛せ

[2004年9月/四六判/318頁/¥2,600+130] 著=アルフォンソ・リンギス 訳=中村裕子 発行=洛北出版 (発売元=松籟社)

エロス万歳! この本こそ(不)道徳の教科書に指定したい。旅する哲学者リンギスが茶の間から遠く離れた異邦の地で哲学的妄想に耽る官能的な一冊。油断してると読者はとんでもない思考の旅に連れていかれるはめになる。『信頼』(青土社)と共に旅立つ友に贈りたい本。

革命 資本主義に亀裂をいれる

[2011年4月/四六H/400頁/¥4,700+235] 著=ジョン・ホロウェイ 訳=高祖岩三郎/篠原雅武 発行=河出書房新社

ビフォが離脱派だとしたら、ホロウェイは拒絶派。彼の魂の叫びは実に単純明快。世界を破壊しているこの耐え難き資本主義をつくっているのはわれわれなのだから、無数の異なったやり方でこれを拒絶し、その代わりに他の何かを為せ、と本書は複数の声で何度も呼びかける。資本主義を支えることを拒み、日常レベルでの抵抗運動を煽る詩的な有害図書。きっと貧乏人には買えない高価な値段設定も、新刊にもかかわらず図書館の書庫に眠らされている(杉並区中央図書館)のも、この本の破壊力を恐れてのことだろう(笑)。もうすでにこの国、亀裂だらけなんだから!


アルトー 思考と身体 [新装復刊]

[2011年5月/四六H/379頁/¥4,500+225] 著=宇野邦一 発行=白水社

アルトー現れるところ、すべてに亀裂が走る! ボクにとってのスター?アイドル?アンチヒーロー? 学生時代、「卒論」という名のアルトーZineを作ってしまったくらいのファン。想像を絶する強度の痛みを身体にかかえ、それを必死にモルヒネで抑えるも切れ、禁断症状に苦しみながらメキシコの山奥に幻覚キノコを求めて旅するアルトーの生そのものが残酷の劇場である。著者の師匠であるドゥルーズ(とガタリ)の言葉を引用し、内在的な知覚をもたらす麻薬の効果が「器官なき身体」に深くかかわることを指摘し、アルトーが追求した<身体>がたったひとつの麻薬の効果でたちまち獲得できてしまうのは悪い冗談に似ている、とぽつり。そう、麻薬とはまさに悪い冗談のことだ。


平民芸術

[1993年11月/A5H/621頁/¥6,796+340] 著=平岡正明 発行=三一書房

平岡さんの本はやはりでかい方がいい。「趣味は世界革命」という彼の思想(と金玉)のスケールのでかさにフィットするサイズのものがいい。そうしたら本書か『大歌謡論』になるだろうか。「庶民」という語はいかがわしく「市民」は水くさい、「大衆」は鮮度にとぼしく「人民」は生硬で、「プロレタリア」では目がつぶれる・・・という平岡さんの「平民」にはスクウェアな「のっぺり感」はなく、なぜか強烈な「スイング感」がある。芸能とジャズ、もっとでかくいえばアジア大陸とアフリカ大陸がぶつかり共振する平岡ワールド。実は密かに『おい、友よ』や『週間本7 河内音頭・ゆれる』というすごく小さな本を個人的には偏愛している。
※この冊子製作中に『平民芸術』が売れてしまい、出版社にも在庫がないというので、代わりに手前みそで恐縮ですがハーポプロ企画『平岡正明のDJ寄席』(愛育社)をお求めください!


◆ うつと身体 〈からだ〉の声を聴け

[2009年5月/B6/384頁/¥2,600+130] 著= A.ローエン 訳=中川吉晴/ 国永史子 発行=春秋社

この選書のテーマ「うつつごころ」とかけて、「うつ」の本を紹介しているのではなく、逆に「うつ」の本を紹介したいがためにこのテーマをつけた。われわれはみな病人である、これ、最近のボクのスローガン。リストにあるような頭でっかちの本にうつつを抜かしてこじれてないで(元も子もない!)、少しは自分の<からだ>の声を聴け、と自戒を込めて言いたい。著者は「オルゴン・ボックス」で有名なW・ライヒの弟子らしく、生体(性)エネルギー重視。世の中が狂ってるんだから、うつになって当然、権力の追求が快楽の体験を制限している、と現代文明を憂いている。症状改善のためのさまざまなエクササイズが紹介されているので、アルトー的症状には効果ないかもしれないが、ビフォ的症状の方には自信をもってオススメしたい一冊。まずは地揺れする大地にしっかり足をつけることから。


天才 勝新太郎

[2010年1月/新書/303頁/¥940+47] 《文春新書》 著=春日太一 発行=文藝春秋

勝新太郎率いる映画製作会社、勝プロダクションの存在は常にハーポプロダクションのインスピレーションのもとになっている。あの黒沢明も一目置いていた「映画監督勝新太郎」に迫った一家に一冊は欲しい新書。タイトルがすべてを物語っている。

VOL 03

[2008年7月/B5変形/206頁/¥2,200+110] 特集=反資本主義/アート 編=萱野稔人、高祖岩三郎、酒井隆史、渋谷望、白石嘉治、田崎英明、平沢剛、松本潤一郎、松本麻理、矢部史郎、デヴィッド・グレーバー、ジム・フレミング 発行=以文社

178ページに「盗みの品格」というタイトルでハーポプロダクションの会社案内と部長インタビューが掲載されている。

砂漠  vol.1

[2011年8月/A5/85頁/¥500] 特集=食べる 発行=砂漠

ハーポプロダクションが「おいしい生活」というハーポプロダクション一文を寄せている。




辺境で生きるカラスです



 三重県津市という町をご存じの方がどれだけいるでしょうか。三重県といえば伊勢神宮や鈴鹿サーキットが有名ですが、津と聞いても真っ白なままで、何も思い浮かばない方が大多数かと思います。津という一字からうかがえるように、目の前に伊勢湾が広がる穏やかな海の町です。これでも一応、県庁所在地なんですけれどね。そんな絵に描いたような小さな地方都市で、kalas(カラス)というこれまた小さな冊子をつくっているのが私です。誌名は嫌われ者の黒い鳥から貰いました。不気味で怖い印象もあるけれど、間抜けでユーモラスな顔もあります。今でこそゴミを荒らすという理由で嫌われますが、それも私たちが街中に生ゴミを撒き散らかしているせいかも。人間に飼い慣らされない社会の観察者として、時にユーモラスに、時に鋭く突っつく存在でありたいと思います。

 自分が暮らす町で一人きりでつくっているという点が、この本の特徴とも言いにくい特徴です。企画、取材、撮影、編集制作、営業、納品の全てを、寂しく一人で行っています。群れないカラスという訳です。本の発行は3カ月に一回。「のんびりと作れて良いですね」と言われたりもしますが、実際は全く余裕がないのです。一冊出しては放心状態に陥り、ようやく正気を取り戻したと思ったらまた締切が、という負のサイクルを繰り返して5年が経ちました。
 よく訊ねられる問いは、「で、どうやって食べているの?」です。広告も数えるほどの商売っ気のない内容を見て、誰もが「これは趣味の本に違いない」と思われるようです。ですがこれには「この妙な冊子で食べているんですよ」と一応言うことが出来ます。なにせ他に仕事をしていないので! とはいえ、本の売り上げと僅かな広告収入で印刷代を調達しながら、その他の雑務で損失補填に励んでいるというのが実情。時には冊子を入口に仕事の依頼も寄せられますが、3カ月毎に出すこの本が足枷となって、副収入的な仕事に向き合う時間はさほど取れません。そんな具合で田舎町を走り回っている零細編集者ですが、地域から差し伸べられる様々な愛の手で生かされています。これぞ地方に根ざして本をつくる者へのご褒美です。

 地方出版の楽しみは意外に多くありまして、最近は冊子発行と並行してイベントを開催する機会をいただいたり、休眠状態の古ビルに編集室を移して、ショップや表現者と協働での拠点づくりにも精を出しています。本をつくりながら町の形成にも多少は関われること、これも辺境の地でこんな仕事を続けている理由だと思います。また小誌は模索舎さんをはじめとする心ある書店さんのおかげで、三重県外でも少しずつ取り扱いをいただけるようになってきました。津という無色透明な町の新たなイメージを、全国の人に届けることが出来る。これも最近のカラスの大きなやりがいとなっています。ほら、これでもうあなたも、この星に津という町があることを知ってしまった訳です。
 役立つ情報が見あたらない妙な小冊子ですが、隠れ里的県庁所在地・津のガイドとしては今のところ世界唯一です。いつか知らない駅のホームで、「つぅ〜、つぅ〜」と車掌さんのアナウンスが流れたら、途中下車してカラスの巣にもお立ち寄りください。

カラスブックス 西屋真司


津の小冊子 kalas  12号

[2011年1月/A5/60頁/¥400] 特集=これからのダイヤル 編=西屋真司 発行=カラスブックス

新規入荷 株式会社デコの本



株式会社デコ

代表、高橋団吉。
1988年、編集プロダクションとして設立し、2009年より出版事業をスタート。
編集プロダクション業務としては医療・健康系、アウトドア系、田舎暮らしをテーマとした媒体中心に、ファッションも食も園芸もコミックエッセイも、幅広く扱っています。
2010年から出版事業を強化。現在までに詩集やエッセイ集、ビジネス書、実用書など7冊を出版しました。
今後もジャンルを問わず、長く親しまれる本を出版・編集していきます。

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ぼくらの昆虫採集

[2011年7月/A5/366頁/¥2,800+140] 監=養老孟司・奥本大三郎・池田清彦 発行=デコ

健康半分

[2011年7月/四六H/100頁/¥1,200+60] 著=赤瀬川原平 発行=デコ

スマートメディア 新聞・テレビ・雑誌の次のかたちを考える

[2010年12月/B6変形/223頁/¥1,200+60] 著=中村 滋 発行=デコ

眠って生きろ

[2010年7月/四六判/215頁/¥1,200+60] 著=鳥越俊太郎/塩見利明 発行=デコ

すごい虫131 大昆虫博公式ガイドブック

[2010年6月/A4変形/68頁/¥1,400+70] 監=養老孟司・奥本大三郎・池田清彦 発行=デコ

詩集 あさって歯医者さんに行こう

[2009年6月/四六判/108頁/¥1,400+70] 著=高橋順子 発行=デコ

うちこハローノート

[2007年10月/B5/46頁/¥600+30] 編=DECO 発行=デコ

 


『なまいき』発刊によせて




そもそも、5月の8日にふと、思い立って一気につくりあげたのがこの本です。
各所にアポをとり、コラムを頼み、インタビューをし、原稿を起こし、編集をし、一から十まで、自分の手によってつくりました。ちょうど、思い立ってから二カ月で、本の形になりました。震災から四カ月の日、無事に発行することができました。
取材の最中の、遠藤ミチロウさんのインタビューへ向かう途中、井の頭線でふと目を上げて咲いている紫陽花をみて、わたしは、震災は、もはや遠くなった、と、思いました。
こうしている間にも、震災の日は、いちにちいちにちと、遠くなります。
震災によって、わたしたちの生活は、一度、壊されました。
文化は、そのようなときになにができるのか。どのようにして、文化的日常が再構築されたのか。その後を生きようとしたのか。それをなるべく新鮮な記録として残し、人の手に渡したいと思いました。
3月11日以降、わたしたちの生活は一変してしまいました。この、世界の終わりのような世の中で、文化はなにができるのでしょうか。
音楽は、いつもわたしのそばにありました。ライブハウスの暗がりに集まれば、いつもの誰かがいる、馬鹿騒ぎ、くだらない話、笑い声、予定調和があって、そういう日々が一度失われた。その経験を、特集として、生の声で、伝えたい、と思いました。音楽に限らず、芸術にまつわるような景色には、同じようなものがどこにでもあるのではないかとわたしは思っています。
そのような景色をいとおしく思うひとがいれば、ぜひこの本を手にとっていただきたいです。
とりかえしのつかない日常を、わたしたちは生きてゆかなければいけません。生きることは、強くも、難しくも、そして簡単でもありません。ただ生きてゆくだけです。その生活について、すこしだけ目を向けてみる、そういうきっかけにこの本がなれば幸いです。




なまいき

[2011年7月/B5/40頁/¥500] 特集=震災後を生きる 

『祝祭 vol.5』発刊によせて



「震災後、私たちは一体何人の友人を失ったのだろうか。そして、一体どれだけの人々と共謀の関係を練り上げたのか。さまざまな言葉がその意味を変え、私たちが自明と思っていた諸関係がいとも簡単に吹き飛んだ今、私たちはただ混沌の塊として街路に現れる。人間としてではなく、日常に裂け目を入れる、突然の降雨や落雷のような気象現象として。」―和泉亮
「荒地を踏んで歩いているのは誰なのか。結い目をほどき、また結ぶ。この結び目が逃走線となりあらぬ方向へ駆けだしていくとき、彼(女)らはようやく浜へと揺り戻ることができる。」―中里勇太
写真と言葉によるジン「祝祭」は、5号目を迎える。これまで通り藝術と内戦を問題にしつつ、今号の特集は「原発反対」である。

祝祭 vol.5

[2011年6月/B6/¥680] 特集=原発反対 発行=祝祭



 いま関東では、情報感度の高い人びとを中心に、巨大な意識革命が起こりつつあります。もちろん福島の原発災害がその大きな原因です。
 遠隔地に危険な施設を押しつけ、情報を遮断し、「絶対に安全だ」とくりかえす。しかし自分たちがそこにとどまり、リスクを共有することは絶対にない。そうした政府・学者・大マスコミの姿勢は、米軍基地問題とまったく同じ構造にもとづいています。そして詳しくは本書に譲りますが、実は「沖縄=米軍基地問題は原因」で、「福島=原発災害はその巨大な結果」なのです。米軍基地問題をきっかけとして、日本は憲法が機能しない国になってしまったからです。
 いま、福島や関東一帯で危機感をもち、自分の手でわが子を守ろうと立ち上がったお母さんたちや、一般市民の人びと。その巨大なうねりが、やがて沖縄に目を向け、そこに60年以上前からいまの自分たちと同じ構造のもとで苦しんできた人びとの姿を見出し、そこに問題の真の原因があることに気づいたとき、時代は、そして日本という国は、大きく変わっていくのだと思います。
 反米軍基地運動と反原発運動は、やがて必ず手を結ぶ。そして新しい時代の扉を開くのだと思います。

書籍情報社 矢部宏治


本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知ってること 沖縄・米軍基地観光ガイド

[2011年6月/四六判/351頁/¥1,300+65] 監=前泊博盛 写真=須田慎太郎 文=矢部宏治 発行=書籍情報社



 JR高円寺駅。南口を出て中野方面のガード下を2分ほど歩いたところに、突如昭和の薫り漂う飲み屋通りが出現します。その通りの片隅にまんま みじんこ洞という店があります。看板にはロールキャベツや里芋のコロッケ、豚肉の角煮などの文字。どこにでもありそうな家庭料理店です。しかし模索舎月報に寄稿させていただくには、ただの飲食店ではいけません。…そう、ここは月に一度ミニコミ・フリペ好きが集う店なのです。
その月一イベントであるミニコミ会では、各自持参のフリペ・ミニコミの紹介・配布・販売を行っています。普段はコソコソと一人または少人数で作っていると思われる制作物の編集・印刷・製本・販売秘話などを飲んだり食べたりしながらみんなで語り合っています。そしてときにはトークライブや朗読、ボードゲーム大会、シール交換会、弾き語りライブ、テーブルマジックなど、面白そうであればミニコミに関係のないことも行っています。
  ちなみに7月3日(日)は一日でフリペを作るワークショップを予定しています。このイベントはミニコミ・フリペの制作者ではなくても興味のある方はどなたでも無料で参加できる、かなりユルくて自由な会なのでぜひお気軽にお越しください。(※飲食店なので要オーダーとなります)

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(写真:みじんこ洞店内・トークライブ・弾き語りライブ)

  さてさて、これを機にこっそり私のミニコミもご紹介させていただきます。タイトルは『MINORITY』。私がミニコミの楽しさを知ったのはこの本を作りはじめたのがきっかけでした。今年でなんと8号目です。元来グウタラなため、年に一度しか発行しておらず、しかも新刊は二年ぶり…。そんなダメダメ編集人ですが、素敵な作家さんのお陰で読み応え抜群の作品がぎっしりと詰まっていますのでどうぞよろしくお願いします。模索舎にて発売中!!
文/みじんこ洞  辺見塵子

まんま みじんこ洞サイト
http://mijincodou.jimdo.com/
みにこみ洞サイト(ミニコミ会についてはこちらをどうぞ)
http://minicomi.jimdo.com/

minority(マイノリティ)8

[2011年6月/B6変形/92頁/¥500] 編=みじんこ 発行=マイノリティ編集室

『どくろく臨時増刊号』発行によせて



 『どくろく臨時増刊号 ひとり震災不安定日記』は、その名の通り「東日本大震災」と「福島第一原発事故」でグラングランになった自分の精神状態と人間関係を一ヵ月半に渡って綴った「チラシの裏」的な本である。普通、そういったチラシの裏は時が経てば破棄するものだろうし、人目に晒したり、ましてや印刷して本にするなど気狂い沙汰なのかもしれないが、今の日本の状況そのものが気狂いじみているし、冴えない庶民が関東大震災や太平洋戦争の真っ只中で書いたチラシの裏だったら私も読んでみたい気がしたので、ただちに刊行した次第だ。
 
 でも、もし震災と原発事故だけをテーマにするつもりだったら、私はこの号を作らなかったと思う。この震災がきっかけで、私は長年来の大切だった友人を失うかどうかという事態に陥っており、それを何とかしたくて、他に方法が思いつかなくて、この本を出した。一般的な対処法としてはむちゃくちゃだろうが、自分にはこれしかなかったのだ。
 
 3月11日から三ヶ月以上経った。私はいまだに日常でスカートやヒールの靴をはけないでいる(もともとあんまりそういう格好はしなかったが)。福島の異常な状態にチューニングが合っている限り、元に戻るのは難しいだろう。
 週末に予定が無かったり、現実問題として身近に感じられる孤独死など、世間一般から言ったら「短調」そのものなありさまに焦点を絞って作ってきたのが「独身者による独身者のためのろくでもないミニコミ」である『どくろく』だったのだが、今回の福島の短調さ加減は、規模が違う。個人の生活レベルを超え、いつまで続くのか分からない短調だ。もともと短調に反応しやすい私のアンテナは否応無く福島に向いてしまい、それがこれからもずっと続くのだと思う。
 
30数年生きてきたが、あの日を境に自分の人生が「B.S.(ビフォア震災)」と「A.F.(アフター福島)」に分断されるとは思ってもみなかった。厳密に言えば、引き合いに出されるのは福島ではなく、東電による原発事故なのだが、「福島」という単語は、もうどうしようもなく私のどこかに焼きついてしまったようなところがあるのだ。

 スカートがはけない日々は、その分、やりたいことや、やらなければならないことに向かう時間として費やしたいと思う。いい加減な私のことだから、そのうち適当にスカートなりムームーなり着始めるだろう。

 まったく話は飛ぶが、この本の原稿を入稿した6月頭くらいから『魔法少女まどか☆マギカ』をネットで見まくっている。友だちの少ない人を本気にさせると、ありえないくらい頑張っちゃうもんなんだよね…、という点で嘆息をつきながら見返しているのだが、最近のアニメのクオリティには驚愕を禁じえない。

 あと、今さらながら一つ言い訳をしておきたいのですが、日記の中で私が加熱用マグロを刺身として食すくだり、普段はあんなこと滅多にしないですから!あの時はたまたまほんとに鮮度の良いマグロのアラが手に入ったからで、武蔵野ヘルスセンターでは魚屋の片隅に追いやられたあのドス赤い魚肉の塊を、いつも生で食べているとは思わないでください!…えー…これだけはどっかで釈明しておきたかったもので…。
 
…と、それが締めくくりかよ!みたいな自薦文ですが、震災で人間関係が破綻してしまったり、原発に対する周りの人との温度差にヤキモキしている方に本書を手にとっていただければ幸いです。
また、武蔵野ヘルスセンターでは、次号『親を亡くした独身者』特集の準備に入っておりますので、独身で親を亡くしてまいっている方がいらっしゃいましたら、アンケート(簡単なものです)にご協力いただければありがたく存じます。ぜひdokuroku969※アットマーク※yahoo.co.jp(※アットマーク※を@に変えてください)までご連絡いただけますようお願い申し上げます!

震災から一ヵ月半の間で感じたことや言いたかったことは、この一冊にぶち込みました。消化不良で生モノ感満載の今号ですが、どうかこれからも武蔵野ヘルスセンターならびに『どくろく』(あと『週刊車窓』も)をよろしくお願いいたします!

武蔵野ヘルスセンター あらみ
 




 大学生だった頃は、かなり堅苦しく〈純文学〉というものを考えていた。ちょうど笙野頼子が〈純文学論争〉で孤軍奮闘していた時期で、好きな作家は多和田葉子、町田康、中上健次、古井由吉であり、古いところでは吉行淳之介、堀辰雄、牧野信一、坂口安吾である。おまけに、卒業論文では芥川龍之介の最晩年を扱ったものだから、なかなかの筋金入りだ。そんな話をバイト先の塾でしたら、先輩の国語講師から、「最後の文学青年の生き残りだ」と笑われた。そして、当時入っていた文芸サークルが、上智大学紀尾井文学会である。私は、サークル同人誌の編集長という立場を、2年ほど引き受けていた。
 それから10年が経った。当時の会員たちを集め、OB会の会誌という形でまた同人誌を作ろうということになり、ふたたび編集長という役職を頂いた。それが、困った。なにしろ、論文をちらほら書くようになった今の専門は明治20年代の文学と、ライトノベル・アニメーションを中心とした現代のサブカルチャーなのである。
 明治文学というと、どうも、夏目漱石や森鴎外、坪内逍遙といった人たちがクソ真面目に文学を考えており、それが原因で日本文学がツマラナイになってしまった……というのが、一般的なイメージらしい。たしかにある部分ではそうとも言えるのだが、大抵の場合、その実態は真逆である。すなわち、物語の構成は滅茶苦茶、内容はやりたい放題で、美少女が出てこなければ許されない……そんなまさしくラノベのような世界が、少なからぬ明治文学なのである。大学院に進学し、芥川はもっと溯らなければ扱えないと考えた結果、思いも寄らなかった世界に叩き込まれたのだ。
 そういうところで遊んでいたのだから、ラノベやアニメで論文を書いてみないかと誘われたとき、まったく抵抗感がなかったというのも当然のことだった。むしろ、下らないものとして位置付けられてきた作品群を大真面目に論じることができなければ、純文学を頂点とする文学イデオロギーと、あたかも純文学が中心であるかのように紡ぎ出された従来の妄想じみた近代文学史を、対象化することはできないと考えるようになった。
 そんなわけで私には、学生時代のように同人誌を作ることを期待されても、もはやかつてのように〈純文学〉を扱うことができなくなっていたのである。だから、新たに紀尾井文学会OB会の同人誌を作るにあたり、本のコンセプトをどうするかについて、かなり真剣に考え直さなくてはならなくなった。
 けれども、今の自分が持っている思考の枠組みから離れることは、簡単ではない。それならいっそ、その問題意識を突き詰めたところで、いつも論文として書いているものよりも自由に表現してみよう。そう考えた末、思いついた言葉が「ポリフォニー」である。
 ミハエル・バフチンは『ドストエフスキーの詩学』(望月哲男・鈴木淳一訳、筑摩書房、1995年)のなかで、「ポリフォニー」を、ある主体によって紡ぎだされる言説が、他者の言説によって浸透されていくという、言説編成における自己と他者との関係性の問題として捉えた。たしかに現代においては、たとえば純文学が詩や哲学といった旧来のジャンルだけではなく、戯曲やテレビドラマ、映画、キャラクター小説といった多様なジャンルと少なからず接続している。このことに端的に示されるように、現代における表現行為は、常に他者による言説(声)とどのように向きあうかという問題を常に含んでいるのであり、一つのジャンルにしばられるのではなく、複数のジャンルを越境していくことでおこなわれているのである。文学がこのような状況にある現在において必要なのは、たとえば小説であれば、純文学、エンタテインメント小説、さらにはライトノベルまで、次々にジャンルを越境していくような作品と、それを載せることができる媒体であろう。そういう場を作り出してこそ、私たちの「いま・ここ」にある文学を模索することができるのではないか。またそうすることではじめて、旧来の文学において特権化されてきた〈純文学〉というジャンルを、もう一度捕捉しなおすことができるのではないか。
 上智大学紀尾井文学会OB会会誌『Polyphony』は、このような問題意識のもと、半年に一回を目処に刊行していく予定である。表紙の絵にひるまず、手に取っていただければ幸いである。

(上智大学紀尾井文学会OB会・編集長 大橋崇行) 

Polyphony(ポリフォニー) 創刊号

目次:〈詩7篇〉犬のような男 アルファベティカル・オーダー エシュア 拾う 猫人の国 生きる 帰りに知らない道を歩いたら =公野祐也/〈小説〉魔術少女(おとめ)あやね=大橋崇行/〈小説〉カインド・オブ・ブルー=辻本紫苑/〈短編小説3篇〉いばらの褥 ローズ、バイオレット、マーガレット オン・ザ・ワインディングロード =久保藍星/〈コラム〉寄る辺なき暗夜、いくらかのカレーとともに=埃っぽくて青い猫/〈エッセイ〉大橋崇行のラノベ道 出張版/原稿募集のお知らせ
[2011年6月/A5/120頁/¥500] 編=大橋崇行 発行=紀尾井文学会OB会

反逆の手芸



半年ほど前から、手芸作品やミニコミを制作し、都内の雑貨屋やラディカル・ショップに置いてもらうようになった。先日模索舎に納めた「オリオン座から来たロボット −物語と作り方−」と「会社で働くペンギン −物語と作り方−」も、その中のものだ。どちらも、前半はユーモラスなキャラクターが繰り広げるショート・ストーリー/絵本、後半はそれぞれのキャラクターをモチーフにした雑貨の作り方の詳述、さらに巻末には型紙を添付してある。イラストも多く、ぱらっと眺めた分には、いわゆる“カワイイ”キャラクター・ブックである。しかし、少し中を読んでみれば、作品中には現代社会へ向けた鋭い毒が染み込んでいることに気付くだろう。
 いま、街にはたくさんの物があふれている。洋服、アクセサリー、玩具、通信機器…。たくさんの物が街を彩り、次の季節を待たずしてニュー・モデルへと移し換えられ、廃棄されてゆく。そうした煌びやかな店頭で売られている商品には、グローバル資本のもと日本を含めたアジア諸国で低賃金、過重労働、健康被害など、労働者を様々なリスクにさらしながら製造されているものも多い。華やかな現代生活をおくる消費者にとって、商品の背後にいる生産者の存在はあまりにも遠く、彼ら/彼女らの暮らしなど知るわけもなく、気まぐれに商品を使い捨ててゆくのである。製造工場の労働者たちが割り当てられるのは、主に単純・反復作業だが、有名ブランドのデザイナーが出入りするセレブリティな世界と生産現場の実態が如実に非対称を示しているように、商品の企画・販売部門に対し、生産部門はあまりにも不均衡な対価しか得られない仕組みになっている。これは、現代人にとって自分の手作業で何かを作り出すことが、価値の低い行為になりつつあると読み変えることもできるだろう。
 拙作は、そんな経済システムへの反逆だ。中身のないものを大量に生産し、生半可に消費し、廃棄してゆく社会は貧しい。人が使い捨てないのは、自分が手間をかけて作ったもの、大切な人が作ってくれたもの、それから思い出やメッセージの詰まったものである。このミニコミたちは、矢継ぎ早に新商品を押しつけてくる資本主義を尻目に、手芸作品に込められた物語を共有し、物を作ること、使うことの意味を問い直す挑戦だ。日本では、手芸というと「女性のおしとやかな趣味」というイメージが強いけれど、本来手工芸は生活に密着した営みであるし、自分の欲しい物は自分のセンスで作ってやろうという思想はロックだ。もちろん、人には向き不向きがあるから押し付けはしないけれど、手芸が苦手な人も、この本を読めばものを作る楽しさがいくらか伝わるだろう。そして、形骸的な付加価値が盛りつけられた物ばかりこんなにいらないこと、普段自分が使っている日用品の後ろにも作ってくれた人たちの物語が広がっていること、色々なことに気づくだろう。
 すでに、途上国の生産者たちに公正な対価を支払おうというフェアトレードの取り組みは世界的に広まりつつあり、日本でも少しずつ始まっている。日本のアマチュア手芸作家やほかアーティストも、見かたを変えれば手工芸品の小規模生産者と呼べるだろう。人々が互いの生活を対等な立場から支えあう経済がひろがり、他の国々の生産者たちへの連帯にもつながっていくと良いと思う。巨大資本によって市場が閉ざされているなかでは長い道のりになるだろう。その中では何らかの明るさがなければやっていけない。だから作品中では、キャラクターたちにブラック・ユーモアで社会を語らせよう。
 毎晩、そんなことを考えながら文字を打ち、絵を描き、針をすべらす。いつしか部屋には朝日が入り込んでいる。眠気を紛らわしながら身支度をして、今日も日本の小規模生産者は、あてのない毎日に出かけるのだった。

 やすざるの妄想と手作り感満載のサイト↓
http://www.justmystage.com/home/monkeyaero/

2011年6月21日 やすざる


会社で働くペンギン 物語と作り方

★温暖化によって南極に住めなくなったペンギンが、日本の会社員にまぎれて働く風刺のきいた絵本と、ペンギンをモチーフにした小物の作り方を詳説する、物語に沿った手芸本。ユーモラスなイラストや写真も満載。
[2011年5月/B6/36頁/¥300] 著=やすざる 発行=やすざる

オリオン座から来たロボット  物語と作り方

★オリオン座から落ちてきた生意気なロボットのショート・ストーリーと、ロボットのストラップの作り方を詳説する、物語にそった手芸本。ユーモラスなイラストや写真も満載。
[2011年2月/B6/28頁/¥300] 著=やすざる 発行=やすざる"





 「多様なるソーシャルデザイン」というテーマをみて、読者は何を思うだろうか。メタ視点への嫌悪感、上から目線の地に足の付かない上滑りする議論の数々だろうか。もしかしたら、批評の業界におけるアーキテクチャ批評の文脈と重ね合わされるのかもしれない。しかし、今回の未来回路が目指したのはその文脈に乗ることではない。
 アーキテクチャ批評は環境管理型権力が支配的な今日の状況の下で有効な批評的手法として立ち現れた。その中でも日本での批評環境はウェブを中心としたサービスへの言及とその技術革新によって何が可能になるかということが大きな関心事として押さえられている。例えば、現在の議会制民主主義のシステムは、成立当初の情報技術の環境によって算出されたものであり、現在の技術に合わせてシステムを構築しなおせば、より理想的な民主主義を実現できるのではないか、といったような議論がそれにあたる。
 確かにそれらの技術革新は、そこに住む人間たちの全てにとってのインフラとして機能する可能性を持ったものだ。だが、その可能性の先端として分析の対象となっているのは、例えば「オタク」のようにある特定のクラスタやコミュニティであることが多かった。ある特定のクラスタに未来への可能性のイメージを重ねるのは物語としても受け入れやすいものではある。「我々は前衛であるのだ」、というように。少なくとも90年代の半ばくらいからこの2011年3月11日に東日本大震災が起こるまでは、その身振りはある程度の説得力と共感が持てるものでもあった。なぜならば、自分とは違う存在と出会わなくても生活できる社会的環境が整っていたからである。人々はコミュニケーションのコストとリスクを最小限にして生きていくことが可能な生活環境を作り上げ始めていた。私たちは自分の信じるものを信じ、その中に埋没していられたのだ。例えば、「他者に手を伸ばそう」といった言葉自体にも、「(許容できる範囲で)」という暗黙の前置きがデフォルトとなっている。まったくの他者は風景となり、後景化し、そして視界から消えていく。
 けれども、状況は震災後に大きく変化した。いや正確には、変化は着々と準備はされていたのだ。これまで私たちは、状況が大きく変化しているのにも関わらず、私たちが所属するシステムを変えていくことを先延ばしにしてきた。今回の福島第一原発の崩壊は、ここ数十年続いた高度成長イデオロギーの終焉を象徴的に表しているものでもあるのではないだろうか。そのような状況化で「ソーシャルデザイン」を考えていくこと。それは、上から目線の設計でもなく聞き慣れた世間話でもない。新たな状況に対応した様々な想像力を発揮すること、そここそに力点が置かれる。私たちは、これから様々な概念の更新を行っていかなくてはならない。『未来回路3.0』は「ソーシャルデザイン」という言葉の持つイメージを書き換えていくこと、コミュニティの多様性をソーシャルデザインの多様性に置き換えていくことをテーマとして編まれている。

未来回路製作所・中川康雄



未来回路 3.0

[2011年6月/A5/111頁/¥800] 特集=多様なるソーシャルデザイン 編=中川康雄 発行=未来回路製作所

大杉栄『日本脱出記』の再生



初刊は1923(大正12)年10月。関東大震災の混乱の中で虐殺された大杉の遺著として刊行され、軍の暴戻を改めて印象づけるものとなった。震災の痛みにあった人々には、躍動する大杉の風姿が励ましになることがあったであろう。本書が東日本大震災の直後に、土曜社の創立第1冊として、新装復刊されることが、因縁のように感じられる。
 いまは、震災による甚大な被害や原発事故のもたらす国難のただなかだが、そうでなくとも、姿こそちがえ、大杉が生きた大正期と同様の社会難に覆われた時代だ。大杉の精神を思い起こし、甦らせてみる価値があろう。『日本脱出記』の復刊は、その精神を現代社会に置いてみたとき、そこに貫くものを提起する企てでもある。
 と言っても、本書はアナキズムの思想を語っているわけではない。ベルリンで開かれるはずの国際アナキスト大会に出席するため、フランスに密航しての旅行記だが、併せて二年前、上海でのコミンテルン極東社会主義会議の内実をも語って、国際的な運動の動向を伝えるドキュメントでもある。上海、マルセイユ、リヨン、パリと場面が転換していく中で、人物が躍動し、大杉という人間のおもしろさを感じとるには最適の書だ。情勢探索をしつつも、「女の尻を追いかけ」たり、監獄で「呑気に暮らし」たり、愉快に過ごすのが流儀である。どんな状況にあっても、楽しみを見出し、追求するのが大杉流「生の拡充」と言うかのようにである。
 ただし、それらは止むなくそうなったので、危険を冒しての「日本脱出」は、本来、国際連帯の活動であった。20(大正9)年の上海は、共産主義者中心の会議だが、日本から出席者のいない変則を看過できず、主義を越えた連帯への熱意からだった。国内で、社会運動の各派が大同団結、日本社会主義同盟が創立するのと軌を一にしている。帰国後、共産主義者を交えて週刊『労働運動』を発刊したのは、共同への熱意の具現化だ。
 二度目の密航では、会議の延期によって、連帯の実ならずのようだが、上海、フランスと中国人同志との集会を重ね、交流を深めている。東アジアでのアナキズム同盟を視野に入れた活動であった。フランスの同盟と連絡もついた。そして帰国後、こんどは国内での同志結束への活動を開始。中絶した「同志諸君へ」はそれを語るはずであった。
行動の書だが、そうした連帯の精神を底流させ、共同の熱情を語った書でもある。大杉といえば「叛逆の精神」が想起されるが、非権力の側とは、国境、場合によっては主義を越えて結びあう共同性を訴えたのである。共同性を失った現代社会には、その精神をこそ想起したい。難を開く再生のメッセージとしてである。
大杉豊

日本脱出記

目次:日本脱出記・ヨーロッパまで/パリの便所/牢屋の歌/入獄から追放まで/外遊雑話/同志諸君へ/年譜/解説(大杉豊)
[2011 年4月/新書/205頁/¥952+48] 著=大杉栄 発行=土曜社



 「The Art times」を最初に置いてくれた本屋さんが模索舎であった。どこの馬の骨がつくった雑誌かよく確かめもせずに、置いてくれたばかりか、毎号注文までいただいている。いまではこの雑誌の販売数トップの本屋さんとなった。なんと第5号の平岡正明追悼号は、60冊以上を売っていただいた。大手書店にはない本がいっぱい並んでいる模索舎は、「The Art times」にとって居心地のいい場所であることは間違いない。
 「The Art times」を発行している我がデラシネ通信社について一言説明させていただこう。もともとは売れないノンフィクションを何冊か出していた私が、返品された自著を売りさばくため、さらにはいま書きたいことを発表するため2000年8月に開設したHP『デラシネ通信』が母体になっている。大学時代卒論を書くときに手伝った(3分の2を書いた)ことを理由に当時CGグラッフィックをコンピューターをつかって制作していた後輩の大野康世を半ば脅迫して、このホームページを立ち上げた。コンピューターやインターネットのことは大野に任せ、自分は好きなことを書くだけだった。なんの縛りもなく自由に書きたいことだけを書くというのは実に気持ちのいいものだった。さらに付録というか、これがインターネットの魅力なのだろうが、ホームページを通じての交流はなかなか面白いもので、ここで書いた原稿が出版社の目に留まり本になったり(『虚業成れり−「呼び屋」神彰の生涯』)、実にさまざまな人たちと知り合うことができた。一方通行ではなく、未知の人たちと交わえる「場」が生まれたことが、とても新鮮な発見となった。
こうした流れから「The Art times」が生まれていった。最初は私が評伝を書いた神彰が興した会社アートフレンドアソシエーションが毎月発行していた機関誌「The Art times」を、函館で開催した『神彰とアートフレンド』展のときに、復刊しようということでつくったもので、続けて出していこうようなんてまったく思っていなかった。ただ何人かの人に原稿をお願いし、編集スタッフ(この時は3人)で集まり、ぐちゃぐちゃ話し合いながら、つくっていく過程が実に楽しかった。(もしかしたら楽しかったのは自分だけかもしれなかったが・・)
「インド魔法」を特集した2号、ロシアアヴァンギャルドを特集した3号と、まったくその場の思い付きと、ノリで7号の『ハマ野毛復活!』まで出し続いている。思い付きもあるのだが、私自身の本業が興行師ということもあって、イベントとタイアップ(というかイベントをつくり)売るというタイミングを見計らっている。
ちなみに次号は(今年9月か10月に発行予定)は「桑野塾のいま」と題した特集を組むことになっている。「桑野塾」とは、バフチンの対話、そして広場の思想を研究、実践、さらにアヴァンギャルドの青春を伝え続けてきた桑野隆に惹きつけられた人たちが集まって、立ち上げた会。教える、教えられるという関係ではなく、バフチンの「広場」のように、さまざまな人たちが出会い、思いや考えを交錯させ、刺激し合う場として不定期で開催している会で、いままで8回開催されているが、学会や研究会にはない知的好奇心に満ちた会になっている。(第9回は7月9日メイエルホリド最後の弟子、そしてメキシコ演劇の父といわれた佐野碩について)。
これを機会にHP「デラシネ通信」をご覧になっていただきたい。そして「The Art times」を手にとってご覧になっていただきたい。明確な理念をもたず、きまぐれで文章を書き、雑誌をつくっているというのがよくわかってもらえると思える。
風の向くまま気の向く彷徨い続けること、これが我がデラシネ通信社の社訓なのである。

デラシネ通信社大島幹雄



アートタイムズ Vol.7

[2011年4月/B5/64頁/¥800] 特集=「ハマ野毛」復活 ヨコハマ野毛は「げい」の街! 責任編集=森 直実(大道芸実行委員会アートディレクター) 発行=デラシネ通信社

アートタイムズ Vol.6

[2010年7月/B5/60頁/¥800] 特集=「サーカス学」誕生 発行=デラシネ通信社

アートタイムズ Vol.5

[2009年12月/B5/48頁/¥800] 特集=野毛版・平岡正明 葬送パレード 責任編集=福田豊 発行=デラシネ通信社

アートタイムズ Vol.4

[2009年4月/B5/28頁/¥500] 特集=道化師(クラウン)が日本にやってきた!―クラウンカレッジ・ジャパンから20年   発行=デラシネ通信社

アートタイムズ Vol.3

[2008年5月/B5/24頁/¥500] 特集=新レフ―最後のロシア・アヴァンギャルド 責任編集=桑野隆 発行=デラシネ通信社

アートタイムズ Vol.2

[2007年4月/B5/12頁/¥300] 特集=インド魔術  発行=デラシネ通信社

アート・タイムス 2006

[2006年7月/A5/12頁/¥300]  発行=デラシネ通信社 






1.共和主義は日本に適さないか?
 筆者は、2009年、憲法の第1章・天皇条項を削除することを論議した「天皇条項の削除を!」を刊行。その際に、「時機尚早」の論議が噴出した。
「時機尚早論」には2つある。ひとつは日本の民衆が共和制段階まで「成長していない」という意見。もうひとつは、第1章・天皇条項の削除を論議することが、改憲の「追い風」になり、改憲反対運動の「分断」とする意見である。
 本書は、この問題について、「グローバルな視点」を導入することによって、西暦2011年の日本における「共和制完全無血革命」の可能性を追究した。
 いっぽう、一部の無党派運動や無政府主義者からは、共和制を論議すること自体が「国民国家の再編」「共和主義では国民国家の解体に結びつかない」として、意識的に敬遠されてきた。
共和制段階を経ないで、天皇制廃止が可能か?
立憲君主制の「日本国憲法体制」から、いきなり無政府状態を獲得できるのか?
今回、わたしたちの運動体に内在する「共和制アレルギー」にも「メス」を入れた。
「天皇条項の削除を!」に続き、憲法第1章と9条の矛盾を追究した、「本邦初」の「現代共和制論集」である。
2. 「脱原発共和国」を構想する。「無党派」から「共和派」へ。
東日本大震災では、自衛隊が10万人規模で動員。米軍は原子力空母を派遣。首相官邸に米軍が乗り込み、軍服で会議が行われた。9条改憲を待たずに、国内で実質的な「臨戦態勢」が構築されてしまった。やはり「9条守れ」では、反戦運動のロジックとして限界がある。
すでに天皇夫婦が罹災所を「見舞う」パフォーマンスが繰り返されている。国民統合の装置としての天皇制の強化と戦争国家化に向けた動きが、水面下で進行している。
それと反比例するかのように、かつてない勢いで9条が無力化しつつある。「日本国憲法」体制そのものに、今日の戦争国家化の危険性が内在していたと指摘せざるを得ない。
イラク反戦・有事法制・反原発・沖縄反基地闘争と、昨今の反戦市民運動はシングルイッシュー的傾向が顕著だった。個別課題の現場主義を評価するいっぽう、個別に切り離された課題を結びつける「思想的バックボーン」について、もっと議論してもいいのでは?の不満が残る。
バラバラに分断された運動現場をつなぐ思想的なもの。それが「共和主義」というのが筆者の見解。
新左翼のアイデンティティだった「無党派」性。だが、その「無党派」なる言葉は、すでに大衆によって乗り越えられてしまった。
無党派「性」が、共和「性」を獲得できるのか?自発的な大衆運動の個別課題性が、共和「性」を自覚できるのかに、今後の大衆運動の社会変革の可能性があるように思われる。
このような問題意識から、今回、9条を1条にし、原発廃止や死刑廃止も「加憲」した、画期的な「共和制憲法」を試作した。
9条を1条に。護憲から共和制へ。改憲・護憲両者に支持が集まっていない状況をうまく利用して「共和制論議」を進めていく。
改憲を恐れない。改憲の危機を「共和制=第1章の削除」の好機に活かす「コペルニクス的転換」が、今、求められている。

◎栗林忠道中将記念碑建設を阻止したぞ!
近年、新自由主義史観の浸透により、地域史においても、戦前の日本の侵略戦争で果たした人物を「再評価」する動きが強まっています(松山での坂の上の雲記念館など)。
長野では、映画「硫黄島への手紙」が公開された時に、渡辺謙が演じた硫黄島の指揮官だった栗林忠道中将が、長野市の出身だったことから、注目を集め、その記念碑を建設しようとする動きが起こりました。
わたしたちは、運動の中心人物だった原山茂夫氏(日教組の役員だった!)に猛抗議。最終的に、記念碑建設の動きは、支持が集まらず、資金も集まらなかったため、立ち枯れになったことを、ここに報告します。       
 文責・堀内 哲



いま、「共和制日本」を考える 9条を1条に

目次:1 いま、共和制を考える=堀内哲/2 “抑止力"としての天皇制-日本において“共和制"を構想するとはどういうことか?=杉村昌昭/3 裂け目は閉じられたのか?-素人による「憲法の歩き方」=平井玄/4 「憲法」の「天皇」条項とどう向き合うか-さしあたり問題を整理することから=池田浩士/5 共和制の可能性-憲法草案を試作する=堀内哲 協力・岡嵜啓子/6 資料 憲法草案比較/追記 「共和制=国民国家の再編」批判について=堀内哲/
[2011年5月/四六H/218頁/¥1,500+75] 編=堀内哲 発行=第三書館



閑居と呼ぶしかない日々を「神様がくれた夏休み」にパラダイムシフトして、家に籠って好きなだけ本を読んでいるうちにアイディアが湧いてきて像を結び「今、もっともやりたいこと」が見えてきたのが二月のこと。
それらがリドリー・スコットの映画よろしく地面からもやのように立ち上ってきて、むわむわむわとかたちになったのが、純粋個人雑誌『趣味と実益』だ。
むわむわの中には中里介山がいる。
蝶花楼馬楽がいて、きだみのるがいて、明治の演歌師がいる。
それらをとりまとめるべく宮武外骨がいる。
いわゆる明治の奇人と呼ばれる彼らを見習って「自分中心主義」を貫徹するのが、本誌の趣旨である。
「純粋個人雑誌」というのは中里介山の個人雑誌『峠』のサブタイトルだ(正式には「中里介山純粹箇人雜誌 峠」)。
介山は『大菩薩峠』という大著を生涯書き続けた多忙の身でありながら、印刷機を買い入れて隣人之友社を立ち上げ、大量の書籍やパンフレットや雑誌を自費出版した。その意気にあやかろうと思ったのがひとつ。
「趣味と実益」という言葉は宮武外骨「滑稽新聞」のキャッチコピーで、カットや各項目の題字などもここから拝領した。
このタイトルの解釈を、本誌二ページ目「口上」に於いて、雑誌創作=「趣味」、本誌の売上げ=「実益」と位置づけたが、それは表向きのこと。
一冊五〇〇円が一〇〇部売れたとてたった五万円では実益にほど遠く、趣味で作るには手がかかるわけで、なんのことはない、雑誌販売が趣味(酔狂)で、作成が実益(精神衛生上の)なのである。
明治の昔、辻々でバイオリン片手に風刺歌を歌っていた演歌師はザラ紙に印刷した歌詞を売って生活していたが、通りがかりの人が投げ銭をすると「乞食ではない。歌詞を売っているのだから歌詞を買え」と怒ったという。
わたしも演歌師の気持ちで売りたいと思っている。

純粋個人雑誌『趣味と実益』が扱うのは物語である。
読んで何かを感じても良し、感じなくても良し。
どこから読んでもいいし、どう読んでもいい。こんな人がいた、こんなことがあった、もしくは執筆者はこう思った、というだけのことである。
それらによってなんとなく気分が楽しくなってもらえれば本望である。
内容は、平安時代から現代まで落書(らくしょ)の歴史を総まくりする「落書」、明治の奇人に自分中心主義を学ぶ「明治奇人生活誌」、兎吉(ぬいぐるみ)のお見合い相手募集の「つりがき」、電話にまつわる奇妙な話を集めた「電話奇譚」、初めての場所を探検する「剽碌お目見得探検」、言葉で現代を探る「当世流行語辭林」、その他「不真面目広告」「自分中心俚諺集」漫画「すかたん商會」などなど。
今後は三ヵ月に一冊、年四冊を目処に出すつもりでいる。

純粋個人雑誌『趣味と実益』、どうぞ、ご贔屓に。

平山 亜佐子




趣味と実益 純粋個人雑誌

[2011年5月/B5/20頁/¥500] 編/発=平山 亜佐子 発行=趣味と実益社



 放射能が日本各地に降り積もっている
 前作「東京ファミリーストーリー」を出した直後、オレは4〜5年付き合っていた彼女と別れることになった。同棲までして、お互いに結婚をしよう、という雰囲気にまでなった仲だったのに。ところが、未来は読めないもので、彼女は出ていくと言い、オレは泣く泣く実家に引き下がることになった。泣く泣くだったのは彼女も同じだったのだから、男と女というのはつくづく面倒くさいものだと思う。
 大学卒業後フリーターで自活してやってくから、といって親の心配をよそにバンド生活を始めたオレにとって実家に戻るというのは苦渋の選択だったが、オヤジの「戻ってこいよ」の一言に涙を流し、その涙を隠しつつオレは実家に戻った。母は死に、オヤジと姉貴とオレは3人は当然家族であり、しかし今一緒に過ごすことが不思議にも思える、それでいて単調な生活を送った。実家は、オレが想像しているより居心地のいい場所だった。
 オレは新しい仕事につき、日々を送っていたが、毎日毎日は何故か不安や悲しみに襲われることが多かった。それは何か具体的な不安や悲しみではなかったが、何となくトーンはマイナーだった。オレはギターを触って思いのままにコード進行を作り、バンドでやるための曲を夜な夜な研究するのであったが、やはりどの曲もマイナーにでき上がってしまっていた。そうかといってマイナーに劣等感を持つことはほとんどなかった。何故ならオレの人生はマイナーでいいし、暗い悲しみとは異なるマイナーが存在することを確信していたし、何より自分がよく聞く音楽がほとんどマイナーコードに彩られていたからかもしれない。
 前作「東京ファミリーストーリー」から2年半、赤い疑惑はようやく作り溜めた曲を録音することにした。エンジニアーが僕らの曲を聞いて「暗いよねー、僕なんかネ、もう何にも考えてないようなサ、パーっていう音楽しか聞けなくちゃってねー」と冗談混じりに言った。冗談混じりでもオレにはこたえた。そんな正直な感想をぶつけてきたのではっきり言って戸惑ってしまった。そして一瞬自信を失いかけたのだが、媚びちゃいけないゾ、と思い直し、いやいや、暗くたっていいじゃん、オレにはこうすることしかできなかったし、これが最高だろうと思い、そう言い聞かせ、一気呵成にアルバムを完成させたのだった。
 録音が終わり、マスタリングをお願いする前々日、東北地方であの大地震が起きた。勿論メンバーは無事だったし、その後マスタリングも無事に完成したのであったが、あの地震、そして原発事故以降に聞く自分の音源は、震災前と後とでまったく響き方が違ってしまった。これはまさに想定外な出来事だった。変な言い方になるが、天災が、社会が、赤い疑惑の音源に磨きをかけてしまった。そんな気がしてならない。
 震災後動揺する気持ちを抑えながら、オレはアルバムのリリースに向けた活動を仕事の合間に続けていたが、ツイッターから流れる原発関連ニュースの数々があまりにも刺激的すぎて、ほとんど何にも集中できないソワソワした気分だった。それでも仕事とライブなどをこなしながら忙しくしているうち、気付くとオレは反原発・脱原発デモの現場にいたりするのだった。オレは何に導かれ、何のために生き、何のために働くのか、30歳を超えてもまったく分からなかった。
 高円寺の街でも大きなデモがあった。オレは本能的にその渦中に身を投じ、そこに集まった人々の一人一人のエネルギーを感じながら、今までとは別な角度で「日本で生きてる」実感をつかまえた気がした。
 「原発反対」と大きな声をあげるデモ隊の中で一際大立ち回りで団旗を降るかっぷくのいいオトコに見覚えがあった。模索舍で知り合って、一時はよく顔を合わせたK君だった。彼が振る黒い旗は、解放された路上に大きく勇敢に円を描いた。未来はまったく分からなかった。 
                                                                                                〜赤い疑惑 アクセル長尾




〈CD〉オレ達ハ日本デ生キテル/赤い疑惑

[2011年/¥1,575] 発行=赤いプロダクション

〈CD〉東京ファミリーストーリー/赤い疑惑

[2008年10月/全14曲/¥2,300] 《aka-004》 発行=赤いプロダクション

〈CD〉東京フリーターブリーダー/赤い疑惑

[2005年4月/¥1,500] 発=赤いプロダクション

〈CD〉AKAI-GIWACK LIVE 2005.11.05 /赤い疑惑

[2006年5月/¥1,200] (発売元=赤いプロダクション)





 1年半ほど前、私が制作しているミニコミ誌「蜜月」の紹介文を「模索舎月報」に書かせていただきました。その直後が恐らく模索舎での「蜜月」の売り上げピークで(とはいえ大した部数ではない)、最近ではお店に顔を出せば、売上減少の理由を「制作に身が入ってないからだ」とまで言われる始末…。このまま模索舎との関係が下降線をたどっていくように思われたのですが…。
今回、第8回開高健ノンフィクション賞次点作で私の初の著書『ミドリさんとカラクリ屋敷』(集英社)の出版イベントのお誘いと共に、なんと、二度とくることはないだろうと思っていた「模索舎月報」の執筆依頼がきました! らしからず、ミニコミではなく「ちゃんと流通している本」のPRが今回の依頼内容です。
 なんだか1年半前(模索舎と関わりだした頃)には想像もできなかった展開になっています…。「その間にいったい何があったんだっけ?」と我ながら考えてしまう変わりようなので、この際、「模索舎」と「蜜月」を軸に『ミドリさんとカラクリ屋敷』が本になるまでのことを簡単に整理してみることにしました。
そもそも「蜜月」は、3年ほど前(08年夏)に、地域情報誌の記者をしていた仕事仲間同士で「自分の発信媒体がほしい!」という思いからつくりはじめました。その後、「蜜月」を続けながら、それぞれ別の出版社へと再就職してステップアップしてゆき、私は10年間取材を続けてすっかり虜になっていた「ミドリさんとカラクリ屋敷」をどうにか形にしたいという1人若干ずれた夢へと向かって突き進んでいきました。1年半前といえば、あと数ヶ月で作品を完成させて次のステップに進もうというプランがすでに自分の頭の中にできあがり、最後の追い込みにかかる直前に、私ははじめてふらりと模索舎を訪れたということになります。
その数ヶ月後には作品を完成させて、以前から憧れだった「開高健ノンフィクション賞」に記念応募しました(そのときは、こんなにすぐに結果がでるとは思ってもみなかった)。その頃模索舎は50周年を迎え、直後、私が次のステップへと踏み出すより前に集英社から連絡をいただき、1年かけて作品を本にすることになりました。
 どんな本なのかも書いておかなければならないので、最後に『ミドリさんとカラクリ屋敷』(集英社)について、概略を紹介します。
――湘南の住宅街に、屋根から電信柱の突き出た不思議な家が立っている。なぜ屋根から電信柱が突き出ているのだろう? その真相を突き止めるべく家を訪ねてみると、そこには家に負けないくらいに謎めいたミドリさんというお婆さんが住んでいたノ。ミドリさんのルーツ(北海道開拓の歴史が絡んでくる)を追いながら、カラクリ屋敷の秘密を解き明かしていくノンフィクション作品(実話)です。
 第8回開高健ノンフィクション賞次点作で、本の帯はノンフィクション作家の佐野眞一さんと脳科学者の茂木健一郎さんの推薦文付き。装丁は鈴木成一さん…と「豪華な本」に仕上がっています。発売2日後の5月28日に模索舎で行われる「出版記念トークイベント」に加えて、期間限定でお店で本を販売してくださるということなので、ぜひ模索舎で、「蜜月」とセットでご購入ください。    
 ――鈴木遥
(『ミドリさんとカラクリ屋敷』著者&『蜜月』編集者) ――

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★イベントのお知らせ★
 『ミドリさんとカラクリ屋敷』(集英社)刊行記念イベント
HONEYMOON TALKSESSION 〜蜜月なお話し

〈出演〉
鈴木遥 (『ミドリさんとカラクリ屋敷』著者&『蜜月』編集者)
南陀楼綾繁(ライター・編集者)
〜お話し その2から 出演〜
刈部山本(『デウスエクスマキな食堂』 発行人&「結構人ミルクホール」店主)
日時:528日 18:00〜21:00
場所:模索舎 東京都新宿区新宿2-4-9 (地図
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ミドリさんとカラクリ屋 敷

電信柱が突き出た家に住むミドリさんの正体は!?屋根から電信柱が突き出た不思議な家。そこに住む97歳の元気なおばあちゃん、ミドリ さん。27歳の著者は、謎多きこの家とミドリさんにひかれ、電信柱のお屋敷に通うようになる。そして・・・。
●「序章を読んで傑作の誕生を予感した」(佐野眞一氏)
●「ノンフィクションの新しい分野に挑んだ力作」(茂木健一郎氏)

蜜月  第6号(2010年夏)
蜜月  第5号(2010年初春)
蜜月  第4号(09年夏・秋)




ミドリさんとカラクリ屋 敷

電信柱が突き出た家に住むミドリさんの正体は!?屋根から電信柱が突き出た不思議な家。そこに住む97歳の元気なおばあちゃん、ミドリ さん。27歳の著者は、謎多きこの家とミドリさんにひかれ、電信柱のお屋敷に通うようになる。そして・・・。
●「序章を読んで傑作の誕生を予感した」(佐野眞一氏)
●「ノンフィクションの新しい分野に挑んだ力作」(茂木健一郎氏)

蜜月  第6号(2010年夏)
蜜月  第5号(2010年初春)
蜜月  第4号(09年夏・秋)






『同和と在日』〜示現舎より



示現舎は2010年6月にひたすら同和ネタを収集するアングラなジャーナリスト鳥取ループと、政治からサブカルまで幅広く扱うルポライター三品純により発足した出版社である。毎月「同和と在日」という電子雑誌を発刊して、その名のとおり同和と在日にからむマスコミが触れたがらない話題を現地取材と行政文書を通して徹底取材してきた。本書はその総集編のリアル書籍版である。

環境・防災担当大臣という今まさに重要なポストにあるはずなのに、その人柄を全くと言っていいほどマスコミが触れない部落解放同盟副委員長・松本龍氏を採り上げる。さらに、同和地区住民を対象とした固定資産税減免を実際に申請してみたり、「部落出身」をカミングアウトした猿回し芸人、村崎太郎氏の実家を訪れてみたりと、少し過激な取材も試みている。同和というと関西というイメージがあるが、関東の読者にも身近に感じてもらえるよう、横須賀の同和住宅も取材した。そこで目にするのは、マスコミが作り上げてきた空想上の同和と在日ではなく、とても人間臭いリアルな同和と在日である。

はっきり言って、取材には大変な手間がかかっている。関東からはるばる中国地方や九州に出向いて、取材先で罵倒されて帰ってくることもある。その一方で、同和問題の現場は綺麗事だけではないことを知って欲しいと、進んで取材に協力していただけることもある。その苦労の甲斐があって、我ながら読み応えのある本ができたと自負している。今後も「同和と在日」に限らず「同和と在日的なるもの」を取材していきたい。

なぜ示現舎を発足させたか、その動機は「同和と在日」に向けられたものというより、メディアの現状への批判精神である。

「ジャーナリズム」がどんなものかは知らない。だが少なくともアジテーションであってはならないはずだ。ところが昨今のメディアを見るに、政治スタンスを問わずジャーナリストという方々が美しいこと、勇ましいこと、カッコいいことを声高にアジる。むしろジャーナリズムが「アジ演説」の類になってはいないか。こんな疑問を感じている。

「反権力」がどんなものかは知らない。この反権力という言葉を発する人は自民党、官僚、経団連、これらに対しての批判は鮮烈だ。他方、彼らの「反権力」や「批判精神」は特定の団体、民族、国家に向けられることはない。

ことに「同和と在日」このキーワードが関わるとき「ジャーナリズムと反権力」は機能停止に陥りがちだ。

残念ながら我々、示現舎の報道には「勇ましいアジテーション」も「美しい人権賛美」もない。ここにあるのは「人権」というキーワードに裏打ちされる暗部とファクトのみである。

もしかしたら我々の取り組みを弱者の「排除の論理」や「排外主義」と批判する人もいるかもしれない。だがそうだろうか。むしろ「同和と在日」に関わるファクトが「示現舎」という形でしか報じられない状況こそ、「排除」や「排外」と考える。むしろ示現舎こそが真の「ジャーナリズムと反権力」の実践者であると自負している。

残念ながら我々の取り組みは今世においては評価されることはないだろう。だが何十年後、何百年後かは知らない。必ずや後世の人々によって再評価されることを信じている。

同和と在日 さらばテンプレート記事 さらばなんちゃってジャーナリズム

[2011年4月/B6/152頁/¥1,200+60] 著=鳥取ループ・三品純 発行=示現舎

『映画批評MIRAGE 第2号』



『映画批評MIRAGE』は、映画批評の雑誌であり、あるいは映画批評のための雑誌です。
映画批評の雑誌ということで、ざっくばらんに言ってしまえば、「映画について書く」ことを主眼として成り立つ雑誌であるとひとまず断定することができるでしょう。しかし、そうしたオーソドックスな断定が断定として機能する地盤そのものが不確かになっているという現状が困難さを伴うものとしてあることを我々はまず再確認しなければなりません。
「映画について書くこと」がもはや簡潔明瞭で自明のものではないという状況、そこにはいわゆる現代的とも言える大きな問題が横たわっています。
そもそも我々は映画というものを規定する術を持ち得ていない時代の地平に投げ出されているといっても過言ではありません。ある一つの映画を見るという行為は、映画館で見る、TVで見る、DVDで見る、インターネットで見る……等にわたって多様化し、その形式性を厳密に問うことがもはやそれほどの効力を持たなくなっています。すなわち全てが映像(Visual)という一義的な意味合いに還元可能な、極度に均質化された時代に我々は生きているという認識を前にした時、我々が向き合っている映像とは従来の映画として規定しえるものなのか?という言葉を口にせずにはいられません。
「映画について書くこと」の不確かさとは、そうした書く対象である映画それ自体の形式的な不確かさと言っても過言ではありません。その不確かさゆえに、はたして我々は映画をかつてと同じ映画として「見た」のだと自信を持って言えるのかどうか。そして「見た」対象が漠然としたまま「映画について書くこと」はこれまでのようにアプリオリとして実践できるのか。
しかし、取り急ぎ我々が主張すべきと考えているのは、映画とは映画館で不特定多数によってスクリーンに映写されたフィルムを共有するものである、というような形式の原理性とそれに伴う確実性を今一度顕揚し保護することではありません。むろん、それも映画体験の流動性を憂い、かつて大衆娯楽文化の雄であった「映画」を取り戻すという意味では必要的行為としてあるでしょう。しかし、それよりもまず「見る」立場である我々が、もはや形式的枠組みを超えて液状化しつつある映画に対して向き合うためのリテラシーを身につけることです。それは、すべからく批評性(Critical)という言葉を我々が改めて問いなおすことへと辿り着くことになるでしょう。批評性という言葉においては「見る」ことと「書く」ことは同義であり、言い換えれば、「見る」ことと「書く」ことには等しく批評性が伴わなければならないのです。今一度、映画を前にして我々が語るべき、あるいは語り得なかった言葉を紡ぎだすことの意義を振り返ること。映画批評はようやくそこから始まるのです。
『映画批評MIRAGE』が目的とするのは、「映画について見ること=映画について書くこと」への実践と思索を行うための空間の構築と提供です。そこでは全てが思考錯誤の反復であり、不断の継続となるでしょう。映画(批評)とはいかにあるべきかという「真理」を安易に求めるがあまりに硬直化するのではなく、常に書き手と読み手に向かって開かれた柔軟な姿勢こそが、映画と我々の関係をもよりいっそう明確なものにするのです。
第2号では、特集「反=映画」で「反抗こそが映画である」という定義をもって、北野武、ペドロ・コスタ、王兵、ゼロ年代映画についての批評を掲載。他に『アブラクサスの祭』監督の加藤直輝氏、フィルムセンター研究員岡田秀則氏のロングインタビュー、エッセイ、分析、論考を収録しています。

MIRAGE編集発行人 藤原遼太郎



映画批評MIRAGE 第2号

[2011年2月/A5/106頁/¥300] 特集=反=映画 発行=MIRAGE編集部

「恋と童貞 第2号』ついに完成!



“乙女心より純情なドウテイ心をむやみに探求する雑誌”
「恋と童貞 第2号」ついに完成!

 まずは、幣紙 1号をお買い上げ、お読みいただいた方々にお礼を申し上げます。

 さて、ついに、待ちに待った(誰が?)「恋と童貞 第2号」が完成しました。
 2010月8月に1号を発売して以来、「今年の冬に2号出ます」と言い、冬には「新年には出ます」、明くる2011年1月には「3月に出ます」、そして3月には「4月には」と、もはや「これは『出す出す詐欺』という、新手の詐欺を確立したのではないか?」と編集部員すら感じていたほどだったので、1号をお買い上げいただき、2号にも期待していたであろう読者の方々(いるの!?)には、深く深く頭を下げる次第です。

 この2号は、大変長い時間をかけてゆっくりゆっくり作ってきただけあって、自信の1冊となっております。
 新たな童て…いや、書き手を3人加え、1号より約40ページ増とボリュームを大幅に増やし、それに伴って、版形がB5からA5へとリニューアルを行いました。
 特集1は、「こんな乙女に恋しい!」と題し、童貞どもが、自分の理想とする“乙女”を絵と文字にして持ち寄り、「どの乙女が童貞にとって最高の乙女なのか」を競うという、これぞ「ザ・童貞」の名にふさわしい企画を行いました。
 ほかにも、歌人・佐々木あらら氏の主催する「冷えピタ女子」という謎のイベントを取材したり、童貞が無謀にも逆チョコをもらおうと目論んだり…と、バカでバカでひたすらバカな童貞どもが己の欲求を文字に換え、精魂込めて作っております。「童貞基金」に募金するつもりで、どうかどうかお買い上げくださいませ。
 また、
 Twitter:@koi_dou
 Amebaブログ:http://ameblo.jp/koi-dou/
では、幣紙編集長がぶつぶつと、世間のよしなしごとや、最新の童貞情報(!?)をつぶやいております。よろしければこちらもご覧ください。 (「恋と童貞」編集部 )

●恋と童貞 第二号 乙女心より純情なドウテイ心をむやみに探究する雑誌

[2011年3月/A5/100頁/¥500] 特集=こんな乙女に恋したい! 編/発=恋と童貞編集部

●恋と童貞 第一号 乙女心より純情なドウテイ心をむやみに探究する雑誌

[2010年8月/B5/56頁/¥367] 特集=男子諸君!恋文を書こうではないか。 編/発=恋と童貞編集部





『ウメウメ書評』と銘打っているわりにはまったくウメておりません。前回ウメてから1年以上が経過しております。年度末で予算を使い切るためだけにする道路工事のごとく、とにかくウメろ!…ウメたって「乗数効果」なんてないんだよ!?ということで福祉国家のオルタとして注目を浴びてきたベーシックインカム論もまた再考を余儀なくされ…というはなしはそのうちできたらするつもり。
(追記:書店のブログなのでタイトルに書名をいれました。―11.4.26)


 「鉄腕アトム」は原子力モーターによって100万馬力を発揮し、その頭脳は電子計算機であり、宇宙空間にだって飛んでいく―この時代、原子力、コンピューター、宇宙開発は子ども向け読み物、漫画、アニメなどの三大囃子であり、登場する科学者のモデルは日本初のノーベル賞受賞者湯川博士であり、アインシュタイン博士であった。
 
 1895年レントゲン博士によるX線の発見以来、放射線・原子物理学の研究は進み、広島長崎に実戦で使用されたのが1945年だから放射線研究の創成期から原子力の実用までだいたい40年ぐらいかかっていることになる。コンピューターの開発はほぼ原爆と同時期に進められ、ノイマン型コンピュータでおなじみの天才・フォン=ノイマンは「マンハッタン計画」にも参加している。

 現在から振り返れば、コンピューターの発達は当時の空想科学読み物の想像を遥かに凌駕している。 i-podなどの携帯端末ですらアポロ計画時代のコンピュータ(ファミコン以下だったそう)など問題にならないくらいの性能なのだ。原子力はどうかというと、水素爆弾、中性子爆弾など、原子力爆弾以上の核兵器は開発される。1950年代には原子力の平和利用が喧伝されたりしたけれども、結局のところ、核兵器以上の「発明」はなされていないのではないか? 「原子力発電所」は「原子力」で動いている、というと、なんだかスゴイことをやっているようだが、結局ぐつぐつお湯を沸かし、タービンをまわして発電しているにすぎない。原子力でお湯を沸かし、発電し始めた当時においてはバラ色の未来が約束されているハズで、核廃棄物を無害化できる技術も確立され、人類の夢である「永久機関」さえ実現している予定だったのだが、現実はご存知の通りである。三人どころか、総掛かりでも人類はなお「もんじゅ様」におよばない。かつてライバルであったコンピュータに大きく水をあけられてしまった。

 科学技術の進歩は日常を大きく様変わりさせる。電線に弁当を結びつけたり、テレビの中に小人が居たりと、新たな技術は常に好奇心と畏怖の対象であった。最先端の科学であると同時に人類を滅亡させかねない脅威でもある―プロメテウスの火!―原子力は多くの空想科学読み物の格好のテーマであった。鉄腕アトムは原子力、マジンガーZが光子力、蒸気機関とかディーゼルエンジンとか電気なんかとか比較にならないぐらい高度な科学力で動くんだよ!?と子どもたちをだまし、いな、夢を与えていたわけである。おとなだまし?としてはキューブリックの映画に描かれるマッドサイエンティストなんかがある。
 
が、悲しいかな、原子力はもうとっくに前時代のテクノロジーとなってしまっている。現在のパソコンの原型となったIBM PC/AT互換機が1984年、スリーマイル島原子力発電所事故が1979年、たぶんこの時期に原子力は「最先端」の座を滑り落ちている。エネルギー政策の「最先端」は「スマートグリッド」(ここでもインターネット!)と接合された「風力」であったり「太陽光」であったりする。古いものが一周遅れで「最先端」だったりするのが世の習い、アメリカで原子力発電が再度推進されているのは「最先端」だからではなく、リバイバルにすぎないのである。大学でも原子物理学部門は理系の秀才どもを捕獲するのに苦労しているらしい。にもかかわらず、莫大な研究費が助成されている、という問題については後日かく、かも?。
 
想像してみよう、鉄腕アトムの原子炉がお湯を沸かし、その蒸気でタービンをまわし、発電しているさまを!アトムの胎内では水が循環し、蒸気を放出しているのだ!!これでは「機関車やえもん」ではないか!?そう、まさしくやえもんなのだ!やえもんは「石炭食っておいしいか!」とディーゼル車に愚弄され、あげく、そのまき散らす火の粉で火災を起こしてしまうのだ。核廃棄物をまき散らすアトムは「核燃料棒くっておいしいか!」と侮辱され汚辱にまみれなければならない…。やえもんはスクラップ寸前で交通博物館で余生を送るという幸運に恵まれたが、アトムの運命や如何に?

 原子力はかつてのそしていまある技術革新―鉄道や自動車、電話、インターネットなど―のように目に見える形では人々の生活を変容させたわけではない。かつての空想科学読み物が想像したように原子力自動車は走っていいないけれども、原子力、というよりその最大の成果である核兵器は「冷戦」という政治的効果をもたらした(カールシュミットは陸、海に続く「第三のエレメント」を「空」と想定していたようだ)。いな、「冷戦」というマクロな政治のみならず、日常的な『空間』そのものを変容させたのである。

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「原子力都市」はひとつの仮説である。「原子力都市」は、「鉄の時代」の次にあらわれる「原子の時代」の都市である。「原子力都市」は輪郭を持たない。「原子力都市」にここやあそこはなく、どこもかしこもすべて「原子力都市」である。それは、土地がもつ空間的制約を超えて海のようにとりとめとなく広がる都市である。―『原子力都市』より
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 繰り返すが、原子力はもはや遅れたテクノロジーでしかない。原子力にはかつて誇示していた空間を再配分する「政治力」も失われ、空想科学読み物のネタとしても、インターネットをはじめとするコンピュター、遺伝子工学、などなどに取って代わられてしまった(『ブレードランナー』公開が1982年『マトリクス』公開は1999年である。最近では評伝ものだが『ソーシャル・ネットワーク』)。エネルギー政策の都合によって多くの村がダムの底に沈み、島が「軍艦」となった。そして産業構造の転換によって多くが「廃墟」となり、打ち捨てられ、野ざらしにされ、マニアの愛玩物に成り果てている。原子力発電所は凡百の「廃墟」ではない。何百年と管理され、訪れるものすらもない(というかできない)「廃墟」になるのだ。(模索舎:ひ。)

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原発関連のパンフレット


◆原子力都市

よく知られているように、放射性物質による汚染は、原子力発電所や高速増殖炉や再処理工場の敷地を越えていく。…危機にさらされているのは現在だけではない。未来の、原子力産業に何の責任もなく、原子力産業から何の利益も受けないだろう人々が放射性物質による健康被害に脅かされるのである。これがか原子力の開拓した新しい地平である。原子力都市は、空間と時間を平滑にすることで、拡張された新たな意識と実践を惹起するのである。(本文より抜粋)

[2010年3月/四六判/192頁/¥1,600+80] 著= 矢部 史郎 発行=以文社

◆廃墟という名の産業遺産

[2008年7月/A5/208頁/¥2,400+120] 編=伊藤将之/堀田匡崇/大畑沙織 監=酒井竜次 発行=インディヴィジョン

ブックフェア開催中!!

秘宝館を知っていますか?



秘宝館を知っていますか?



 超弱小ながら、年に一冊出るか出ないかのインディーズ出版活動を続けている八画出版部(旧名:INDIVISION)です、こんにちは!廃墟や珍スポットなど、街角で見つけた滑稽なものの謎を追い、日々街を徘徊しています。5年に渡って追い続けた昭和のあだ花『秘宝館』をテーマにした三部作を紹介させて下さい!! (営業部)

※クリックすると購入ページへとびます。

I LOVE 秘宝館

★2007年に発売してすぐに完売してしまった幻の人気作『消えゆくニッポンの秘宝館』では伝えきれなかった5大秘宝館の魅力を余すことなく徹底的に紹介した、秘宝館の完全ガイドブックです。さらに脱力お色気スポットから性神、エッチな奇祭、過激なR指定物件まで、列島のエロスカルチャーを網羅した、 2000年代エロスの金字塔ガイドブックと自負しております。

[2009年6月/A5/208頁/¥2,400+120] 編=酒井竜次/大畑沙織 監=酒井竜次 発行=八画出版部

〈DVD〉石和秘宝館ロマンの館 十年の眠りから目覚める異形の芸術たち

★勢い余って、書籍だけでなくDVDも作ってしまいました!マニアの間では存在が囁かれていましたが、その実態は謎のベールに包まれていた石和秘宝館。我々編集部は、ついにその秘密を暴くことに成功しました。山梨の寂れた温泉郷に取り残された一輪の妖花、昭和のロマンを集めた館の一夜限りの復活劇、ぼろぼろの看板に再びライトが灯ったときは感動的、神秘的ですらありました。//〈特典映像〉館内おもしろ展示&グッズ紹介/パネル「パンティーで彼女のセックスがわかる」/失われた秘宝館「石和秘宝館ロマンの館」スライドショー/「韓国済州島秘宝館×三館」DVDダイジェスト/

[2009年/90分/¥3,800+190] 企画=ローカル銀座 制作=八画株式会社 発行=ローランズ・フィルム (発売元=八画株式会社)


〈DVD〉韓国済州島 秘宝館×3館  JEJU LOVE LAND×Sex

★済州島に現存する韓国版の3つの秘宝館を収録した貴重な記録映像です。乱立する巨大エロオブジェの数々や、世界のエロティックアート作品が一堂に会した展示など、儒教の国なのに大丈夫かと心配になるほど、セックスをエンターテインメントしきった素晴らしい異文化エロス交流が、花開いている済州島をじっくりご覧ください。

[2009年/90分/¥3,800+190] 企画=ローカル銀座 制作=八画株式会社 発行=ローランズ・フィルム (発売元=八画株式会社)


徐々に、しかし確実に姿を消している秘宝館に、ぜひ足を運んでみて下さい!
 公式ウェブサイトもよろしくネ!! 
 ■八画文化会館 http://www.hakkaku.cc/cultureunion/


模索舎店内にてブックフェア開催中!!
〜八画出版部(旧名:INDIVISION)書籍〜

◆廃墟とい う名の産業遺産
◆ニッポン の廃墟
◆やりすぎ 廃墟音頭
◆離島の戦 争遺跡
◆SILENT RUNS
◆ミステ リーゾーン ちょっとアレな廃墟図鑑
◆Are you ready to say good-bye? サヨナラする覚悟はできている?




「もりのようせいさん」制作小話



 私がこのような粘土でセットを作って絵本にするということをし始めた理由としては、絵本を通じて何かを表現したいとかいったたいそうなものではないだろう。デザインフェスタやコミティアといったイベントに出てみたい、自分の作ったものを大勢の人に見てもらい、ときどきそれを気に入ってくれた人が自分の手元にもって帰る、そういった輪に自分も加わりたい、といった単純なものであったように思う。もともと粘土造形を趣味で作っていたので、これで何とかイベントに出られないものだろうかと考え始めた。最初置物やストラップなどグッズを作って販売するという事を考えた。しかし私は背景や舞台設定を考えそれを粘土や絵で表現するのが好きであって、オブジェやグッズを作りたくて粘土造形を作っているわけではない。かといって粘土造形を写真にとってポストカードにしたものだけ、というのも少し物足りない。やはり私の作っているようなものでは展示するぐらいで、なにか手軽な値段で自分の作品を誰かの手元に持って行ってもらうことはできないのかなぁと考えながら日々を過ごした。



 そんななか、私はCG関係の仕事をしており、2Dの背景画と3DCGを合成し組み合わせたアニメーションの制作を手伝わせていただく機会があった。このとき私はふと思った、こんなふうに自分の作った粘土造形と背景画などを組み合わせてアニメーションは難しくとも、絵本なら何とか自分ひとりの力でも作れるのではないだろうかと思いついたのである。それからひたすら粘土をこねる日々が続きこの「もりのようせいさん」という絵本ができあがった。

 こういうのはクレイ絵本としてシリーズ化したほうが楽しいから(特に私が)、ということで2作目が完成しつつある今、部屋が粘土であふれかえりそうになりながらも何とか続けていきたいと思っている今日この頃。

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もりのようせいさん

  

[2011年/¥500] 著=幹野きみ 

毛と穴"創姦"!!



毛と穴"創姦"!!
執筆および参加者 いちむらみさこ、上間愛、うてつあきこ、桐田史恵、栗田隆子、根来祐他―

―2010年4月某日(詳細は穴の巻を参照のこと)宮下公園のナイキ化に反対する女達が公園に集まり"穴あきの会が生まれた―。
宮下公園は皆の公園なのだと主張する運動のなかでともすると「ジェンダーの視点」は忘れられやすい。また「女性や子どもの安全のために」と女性や子どもを利用する形で宮下公園のナイキ化計画は進められた。それに対して「NO!」を突きつけるものとして“穴あきの会は誕生した。
実際、女にとって公園が居心地が良いかと言われればYes、とは言い難い。公園で穴を掘ったらヤジられる(これに関しては本誌参照のこと)、夜集まれば“見回りです”と赤いベレーの男たちが来てしたり顔、とかく女に居場所がない―ということだ。それはとりもなおさず女たちが公的空間においての居場所がないという社会そのものなのである。穴あきの会は「公園に居続けること」が活動の大きな目的となっていた。またさらに「運動」という公的な営みにおいても女性は居場所がなく、排除すらされてきている現実に対し、女たちで力を与え合う場所にもなった。
この同人誌「毛と穴」は、穴あきの会の有志たちが集り、自ら編集・印刷そして創刊、もとい "創姦"したものだ。姦という字は禍々しい。それはこの字を生み出した社会が、女達が集まり力を持つことへの恐れを表しているのだろう。そういえば小さい頃から女が集まると「姦しい」だの「ぺちゃくちゃしゃべって」だの「仲良しごっこ」だのと言われてきた(今も言われることがある)。しかし女性が集まることを警戒する人間たちこそ、もっとも女性たちの力を知っているのだろう。私たちは自らが集まることの可能性を信じ、自らの力 に変え、社会へと表現し、この冊子を三人以上の多くの女たちと出逢ってゆくための媒体にさせてゆきたい。



毛と穴 毛の巻/穴の巻

毛と穴"創姦"!! 執筆および参加者 いちむらみさこ、上間愛、うてつあきこ、桐田...

[2010年12月/A5/各44/¥500] 編=栗田隆子 発行=毛と穴

自選文-『シナリオ読もうぜ!』



 現在の映画はあまりに人物の内面に寄り添いすぎていないだろうか。それではあまりに謎が少なすぎる。あるいは人物の性格の特異さや設定や展開の奇妙さにのみ依拠しすぎていないだろうか。それではあまりに謎が多すぎる。いずれにしても自意識は温存され、映画は何も揺り動かすことはないままである。
 シナリオライター井手俊郎はそうした自意識の遊びには一切興味を示さなかった。彼は人物の「目」をただひたすら見つめ続けた。目には全ての情報がある。人物のアクティヴィティーが集約されている。だが、それはあまりにも強すぎて、わずかなやり取りだけで何もかもを変化させてしまう。目は物事を見定めるための器官ではない。眩暈を起こしつつ、物事を変化させる器官なのである。
 我々は井手のシナリオを読みつつ、人物たちの眩暈に巻き込まれていく。彼の作品には常にさわやかで生々しい風が吹いている。人物たちが自分の立ち位置を、取り巻く関係をその「目」で見つめ直すときに風は吹き荒れ始め、彼らをすっかり変えてしまう。だが、彼らには自分を変化させたものを見定め、名付けることができない。風はその場でその一瞬に吹いたきり、彼らの元には戻ってこないのだ。
 井手俊郎のシナリオは戦後映画に画期をもたらした。彼は死に至るまでの30年以上に渡り、アクチュアルなシナリオライターであり続けた。だが、同時に明確で一貫した主張や美学の見出しにくい作風ゆえに、共同作品や脚色が多いことも相俟って不当に(あるいは正当に?)軽視され続けてもいたと思う。本書の目論見の一つは、彼の代表的なシナリオやエッセイの紹介、フィルモグラフィーやビブリオグラフィーの作成によって、戦後映画史における井手俊郎という存在が占める位置を確定しようというところにある。だが、それ以上に、むしろその主張や美学に収斂されない曖昧さに現在の映画を活性化する要素を見出し、再導入しようとするものでもある。いかに風を吹かせられるか。いかにシナリオを自意識から可能な限り自由にできるのか。生誕100年、井手は今もなお新しい。

シナリオ読もうぜ!

目次:井出俊郎について=中矢名男人/〈作品論〉:洲崎パラダイス 赤信号/妻の心/母三人/銀座の恋人たち/河口/B・G物語/二十才の設計/旅愁の都/若草物語/河内カルメン/続・何処へ/ほか

[2010 年/A5/108頁/¥500] 特集=生誕百年 井出俊郎を読む 



「女性の視点から性を主体的に観る」という一貫したテーマをもって300本以上のピンク映画を撮りつづけてきた浜野佐知監督。彼女の一般映画4本目となる『百合子、ダスヴィダーニヤ』が、この10月クランク・インします。
●    映画『百合子、ダスヴィダーニヤ』とは●
ロシア文学者・湯浅芳子と作家・中條(後に宮本)百合子の二人の濃密な青春時代が描かれたノンフィクション『百合子、ダスヴィダーニヤ -湯浅芳子の青春』(沢辺ひとみ著/文芸春秋/1990)と、宮本百合子『伸子』、『二つの庭』(の一部)の3作を原作とした作品です。
大正時代、湯浅芳子は女を愛する女であることを隠さずに生きました。一方、宮本百合子は、芳子との共同生活のなか、作家として充実した時間を送ります。百合子はその後、後に日本共産党書記長となる宮本顕治と結婚。プロレタリア作家として大成し、芳子との関係を明確に否定的に描いていきます。それに対して芳子は、一切反論せず、沢部ひとみさんの取材を受けるまで、真実の思いを吐露することはありませんでした。
ノンフィクション『百合子、ダスヴィダーニヤ』に刺激を受けた浜野佐知監督が、長年あたためてきた芳子と百合子の物語を、満を持して映像化します。
●    浜野佐知監督の作品DVD販売中!●
このたび、模索舎様で浜野佐知監督の過去の一般映画作品DVD『百合祭』(税込5250円)、『第七官界彷徨―尾崎翠を探して』/『こほろぎ嬢』(2作品組・税込8400円)の2本を取り扱っていただくことになりました。この2本の売り上げは『百合子、ダスヴィダーニヤ』制作費にあてられます。

●●『百合子、ダスヴィダーニヤ』(平成22年度芸術創造活動特別推進事業)●●
【キャスト】
中條百合子役:一十三十一、湯浅芳子役:菜葉菜、荒木茂役:大杉漣
吉行和子、大方斐紗子、洞口依子ほか
【監督】
浜野佐知
【製作】
株式会社 旦々舎

【関連URL】
公式ブログ:映画『百合子、ダスヴィダーニヤ』を支援しよう!http://d.hatena.ne.jp/hamanosachi/
旦々舎 http://www.h3.dion.ne.jp/~tantan-s/

twitter
映画『百合子、ダスヴィダーニヤ』http://twitter.com/yurikoyoshiko
湯浅芳子・宮本百合子 http://twitter.com/yoshiko_yuriko
浜野佐知監督 http://twitter.com/hamanosachi

mixi
「映画/百合子、ダスヴィダーニヤ」コミュニティ http://mixi.jp/view_community.pl?id=4998832
【浜野佐知監督を支援する会事務局】
〒283-0802 千葉県東金市東金1407-4 雑貨&カフェ ルバーブ内(11:00〜20:00・火曜定休) TEL&FAX: 0475-53-2323 e-mail:yurikoyoshiko@gmail.com



〈DVD〉百合祭 Lily Festival

キャスト:吉行和子 ミッキーカーチス 正司歌江 白川和子 中原早苗 原知佐子 大方斐紗子目黒幸子//タブーだった老年女性の性愛をカラッと描いて、日本中に衝撃を与えた映画が、ついにDVD化! モントリオール国際映画祭で笑いの渦を巻き起こし、トリノ国際女性映画祭では準グランプリ受賞、その ほか香港国際映画祭、台湾国際女性映画祭など、ニューヨーク、ロサンゼルス、ミネアポリス、シカゴ、パリ、ボルドー、ミラノ、アンカラ、シドニー、サンパウロ、ベルリンなど、26ヶ国・57都市で上映され、今も世界中で引っ張りだこ。国内では男女共同参画センターや女性センターなどを中心に上映され、熱い議論の的になる。年をとったこと、女性であること、の二重のカセで封印されてきた老年女性の性愛が、女性監督浜野佐知の手で今、解き放たれた!

[2010年5月/100分/¥5,000+250] 監督=浜野佐知 発行=旦々舎

『野宿入門 ちょっと自由になる生き方 』



『野宿入門』は、あの手この手で、あれやこれやと、「野宿をおすすめしよう」としている本です。
なぜおすすめするかというと、「あなたが野宿をすると、きっといいことがあるのではないか」と、わたしは思うからです。誰にいいことがあるのか。それは、わたしに、ある。
体感として、野宿を一度でもしたことのあるひとは、したことのないひとより、野宿をしているひとに、ちょっとやさしい。親近感がわくのか、なんとなく暖かい目で見てくれるような気がするのです。
すると、好んで野宿旅行をしたり、酔っ払うと家に帰るのが面倒くさくなってその辺でごろんと寝ちゃいたくなるわたしには、とても助かる。多くのひとがどんなものかと野宿をしてみて、野宿をしているひとに理解を示してくれるようになると、とっても助かるわけです。
などと書いていくと、これはもー、じぶんのことしか考えていないようで、よくない。
 
なので、話を変えたいと思います。
 
ええっと、これまで、わたしは「野宿に特化したハウツー本」というものを読んだことがなかった。ので、そういうものを書いてみたいと思いました。
それで、書き始めた。いちおう、なんらかの野宿のコツを、スバラシイ野宿のやりかたを、みなさまに、お教えしよう、なんて、考えたのです。生意気です。
でも、書こうとしたら、そんなにたくさんコツを知っているわけでもないし、なにより、書いてゆくうちに、そういうことを書こうとすることが、めんどうくさくなった。なんて書いていくと、今度は、ぜんぜんやる気がなさそうで、よくない。
 
ので、言葉を替えたい。だから、替えます。
 
ええっと、教えられたって、教えられその通りやってみたって、ツマラナイのではないか、と、思いました。
やっぱり、なんでも自分で考えて、好きにやってみたほうが、面白いのではないか。
だから、あんまりためになることを書くのはやめることにしました(けっして、書けなかったからではないのです!)。それで、わたしは野宿が好きだ、というようなことも書くことにしました。すると、どんどんどんどんぐだぐだしてきて、なんだかよく判らない本になりました。
 
とはいえ、もしかして、読んでくださったら、もうちょっとはきはきした本かもしれませんし、役に立つことも書いてあるかもしれません。わたしには判らなくとも、あなたには判る本かもしれない。
だからぜひとも、読んで、いや、読まなくてもいいので、どうかどうか、買ってください。
あなたが買ってくださると、とってもいいことがあるのです(わたしに)。
できれば、模索舎さんで買ってください(わたしだけでなく、模索舎さんにもいいことがあって、わたしが嬉しいのです)。
というわけで、人助けだとおもって、どうかどうか、『野宿入門』を、宜しくお願いいたします。
(かとうちあき)
 


野宿入門 ちょっと自由になる生き方

不況でも、雨の日でも、いくつになっても…寝袋ひとつあれば、生きられる。そう思えば、今よりちょっとだけ強く生きていける、かも?//目次:1. 野宿のはじまり/2.野宿グッツ/3.積極的野宿のススメ/4.その先の一歩/5.野宿の疑問、こんなときあんなとき

[2010年10月/B6/223頁/¥1,050] 著=かとうちあき 発行=草思社

音楽雑誌Oar No.003



2008年5月に、こっそりと産声を上げた音楽雑誌『Oar』の第3号です。歴史の波に飲まれて消えていく人・消えていく雑誌は数あれど、この雑誌は地獄の底からだって這い上がってきます。
今回の号は4月14日に大地震の発生した中国青海省のチベット族自治州玉樹と中国アンダーグラウンド・ミュージックの特集です。
平均高度3680メートル、寒さと戦い、チベットの狂犬とも戦い、取材しました歌舞の郷。秘儀的な色彩を帯びるチベット音楽を内面から見つめるべく街中を彷徨い、人々や町並みを観察し、うまい料理に舌鼓を打ち、悪夢にもうなされ、人生にも彷徨い…旅の軌跡を辿りながらの読みやすい紀行文となっております。音楽というものは何の文脈もなく、無理やり押し付けられてもよっぽどの音楽キチガイでない限り、興味のないものについては中々受け入れられるものではありません。色々聴いてはみたいんだけど・・・そんな人たちの興味や関心を感化すべくまずは彼らチベット人の生活・文化・宗教などの音楽に関わる様々な諸相を紹介しようと相成るわけであります。
その他の特集としまして、経堂にあるCDショップ、ハスキーレコードの店主ハスキー中川さんのご協力を得て、ジャズ評論家・元祖サブカルチャー王、植草甚一さんの特集も掲載しています。生前に植草さんと親交のあったハスキーさんとの3時間17分に及ぶロング・インタビューをもとに対談形式の記事になっています。今の若い人たちはあまり知らない人が多いかと思いますが、明治生まれのスーパーじいさんとして学ぶべきところも多いのではないのでしょうか。
さらに、40カ国・全54枚のCDを紹介した世界のヘヴィー・メタル特集や最新のパキスタン・ロック事情をアカデミックに、されど解りやすく紹介していただいた和光大学・立教大学兼任講師村山和之先生による記事、古代ギリシア音楽、パラグアイ音楽紀行、そして日本の大衆伝統芸能浪曲(浪花節)などなど相変わらず節操なく紹介しています。
今回の雑誌のサブタイトルは「他の追随を許さない」なんて強気に出ましたが、そもそもこんな阿呆な雑誌は誰も追随しないよ、なんて冷めた批判はごもっとも。まずは騙されたと思って手に取ってください。騙されますから(笑)まぁ、ワンコインですから、側溝に500円玉を落としたとでも思って観念してください。



音楽雑誌Oar No.003

目次:〈小特集〉植草甚一とは何者ぞ?−真実の植草甚一を暴き出せ!(ハスキー中川×Oar編集長)/植草甚一氏の私的覚え書き(ハスキー中川)/パンジャービー詩人故Jatindar Pal Singh Jolly詩への追悼と詩「プーラン・アプーラン(完全・不完全)」/Heavy Metal All Over The World―ヘヴィーメタルは世界の至る所に・・・/世界のロック/プログレ/HR/HM特集(編集長他)/聖者の宮廷開講録(村山和之:和光大学・立教大学兼任講師)/禁酒国パキスタン清涼飲料音楽館(村山和之)/ムーサの娘とアポロンの子〜古代ギリシア音楽〜(中川未来:東京外国語大学)/パラグアイ音楽紀行(三浦類:東京外国語大学)/空っぽになってこの身を浪曲に・・・(村山和之)/一本釣り:Oarの勝手気ままなCD紹介。今回からは音楽関連の書籍も紹介。

[2010年8月/A4/60頁/¥500] 特集=青海省玉樹(ジェクンド)チベット族自治州と中国アンダーグラウンド・ミュージックの旅 発行=Oar出版

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フリーペーパー版模索舎月報
  • 2011:10:10:20:20:21 フリーペーパー版模索舎月報11年10月号配布中!! (10/10)

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