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『怪処』発刊にいたる経緯



 はじめまして。『怪処』編集長の吉田悠軌と申します。本誌は「オカルトと場所」をテーマに、心霊・怪奇・珍スポットから温泉にソウルフードまで、オカルト全般を調査・紹介するポップでキッチュなオカルト総合雑誌です。また、場所性にもこだわり、そのオカルトが目の前に何らかの形で確かにあること、その現地に必ず足を運ぶことを信条としております。「オカルト」という言葉はネガティブなイメージを持たれがちです。時には「間違ったもの」を指し示す揶揄の言葉に使われたりもするでしょう。しかしオカルトとはそもそもラテン語で「隠されたもの」という意味。私たちはオカルトを敢えてポジティブに捉え、世間から隠れた/隠されたものとして広く定義し(なにせ温泉もソウルフードもオカルトだ!と強弁してますから)、常識や自明とされる価値観に対して「こんな世界もあるんだよ」と提示できれば良いなあ、と、そんな意気込みであります。

 そんな『怪処』発刊にいたる経緯は、少し長くなります。すいませんが、せっかくの機会なのでお付き合いください。そもそも私・吉田悠軌は、怪談サークル「とうもろこしの会」の会長であり、怪談、中でも実話怪談を集め、語ったり文章にする活動をしていました。……のっけから「怪談の活動」「実話怪談」ってなんじゃらほいという感じですね。実話怪談とは、心霊にまつわるような怖い体験、不思議な体験をされた方に直接取材し、その体験談を発表する作業です。近代科学では説明のつかない、科学的モノサシの世界でいえばバグのような現象を集め、物語として怖く&面白くする構成すると言えば良いでしょうか。抽象的に言えば、怪談現象とは本質的に不条理かつ再現不可能の一回性のもの、近代科学の根本である「特定条件での再現性があり検証・観察可能な事象」から漏れてしまう体験そのものです。それを「実話」でやろうというのだから「体験談」としてしか提出できないのは当たり前で、虚実の淡いを横断するような形になってしまいますが、そこにこそ実話怪談の面白さの醍醐味があるとも言えます。

 私が怪談を始めたのは、就職にも結婚にも失敗して、雨にうたれた野良犬のような心境だった25歳の頃。たまたま稲川淳二の怪談ライブを観てしまったのが全てのキッカケでした。ライブ後の興奮さめやらぬ中、同行した知人と「俺たちも怪談をやろう!」とトチ狂い、「とうもろこしの会」なるサークルを始めてしまったという次第です。時折しも『新耳袋』『「超」怖い話』といった実話怪談の先駆者たちの仕事もあり、日の目を見なかった怪談・実話怪談が隆盛していくタイミング(一般の方にはピンとこないでしょうが、十年前と比べれば昨今の怪談の盛り上がり度は天地の差です)。そんな時流もあり、私の怪談活動は楽しみながらそこそこ上手くいきました。社会からはみ出したという失意のズンドコにいた自分にとって、現代の世界観の枠組みからはみ出した「怪談」は相性が良かったのでしょう。

 怪談活動を通して友人知人も増えました。そんな奴らと遊びに行くとなると、変わった神社仏閣、或いは心霊/パワー/B級/珍スポットといった場所になります。初めはただ無邪気に、そんな場所の物珍しさを楽しんでいたのですが、次第に「なんでこんな変な場所がかつて出来上がり、そして今もあるんだ?」といった歴史的背景や人々からの享受のされ方が気になってきました。そして、それを調べていくとたいへん面白かったのです。例えば、人形供養のための和人形がズラリ何百体も並んで、不気味な心霊スポットとして有名な和歌山の淡島神社。そこに人形が並ぶ由来は、神功皇后や天照大神の娘・淡島神の受難に始まり、穢れ払いと雛祭りのルーツ、古来からの日本社会における女性問題とも関わってきます。そうなると淡島神社を語るには「人形が沢山並ぶ不気味なスポット」では済まされず、古代史や神話、宗教学や民俗学に人類学、もしかしたら社会学の領域まで掘っていく必要があるかもしれません。他にも、変な温泉や奇祭、ソウルフードに即身仏からキリストの墓など、一見ただの珍百景に過ぎなさそうなものでも、キチンと調べていけば、原始から現代までの日本人の精神性、被差別部落や在日朝鮮人の問題、日本での仏教のあり方、戦前の世界情勢が生んだ思想、などに話が及んでいきます。

 もちろん、そんなの考えなくても娯楽としてワイワイ楽しむことは出来ます。それら「あまり知られていない面白珍しいもの」を単純に楽しんで消費するだけでも悪いとはいいません。ですが私は変な場所巡りをするうちに「あまり知られていない面白珍しいもの」には必ず「なぜそれらが今の世界観や価値観とはズレた珍しいものになったか」の理由があり、現代における社会や我々の考え方のあり様を逆照射してくれる機能があると気付いていったのです。これは近代科学的視点とはズレたものを取材する「怪談」とも共通することなので、怪談の活動を経たからこそ、こういった視点を持てるようになったのでしょう。
 

そして一年半ほど前、私はそんな観察方法を総称して「オカルト」と定義し、まとまった形で発表したいと思うようになりました。口はばったいですが、オカルトという視座を使えば、学際的に世界を捉え直す作業が出来るのではないか。今、我々が当たり前に思っていることは、実は時代の流れによる価値判断に過ぎず、普遍でも絶対でもないのだと証明できるのがオカルトではないか、と。また「俺を受け入れなかった現代社会憎し。でもお前ら現代社会とは別のあり様の世界もあるんだぜ。どうだこっちも面白いだろ!」と皆にぶつけてみたい、せせこましい欲求もありました。「俺が社会に合わせるんじゃなくて、社会が俺の好きなものに合わせて変わっていけ」とも思っていたし、実は今でもけっこう思ってたりします。そのためにオカルトという武器を使おうという、まあこれは卑近なルサンチマンですね。しかし、面白珍しい場所を、人を、文化を、表層だけなぞって消費する姿勢にはどうしても馴染めないのも事実で、現代の基準で照らせば脱社会的・反社会的である場合が多いオカルト的なものたちを、なんだか今のところヨロシクやっている「あちら側」に合わせた形で紹介してやるもんかという、この恨みつらみは崩したくありません。

 映画監督のヴィム・ヴェンダースはかつて、政治的な映画こそが最も非政治的ではないだろうかと語っていました。逆に言えば、まったく政治的では無いと作り手も受け手も思っている映画こそが、真に政治的なのではないか、と。「一番政治的なのは娯楽映画だ。人々に毎日何かを見せながら、彼らの頭に叩き込むことのできるメッセージで最高に政治的なのは、世の中には何一つ変化なんてないということだ。何か変化する可能性のあるものを見せると、人々は変革という概念を受け取ってしまう」(『夢の視線』河出書房新社)。僕は現代の資本主義も高度消費社会も、そこまで全否定する気はありません。ただ、「こんな世界もあるんだよ」とオルタナティブを幾つか提示したいだけなのです。だからそれは「世の中には何一つ変化なんてない」というラディカリズムよりは、よっぽど穏健なノンポリ的態度ではないでしょうか。そんなことをウジウジと考えながら、それでも、いっちょやってみっか、と友人たちを誘って「オカルトと場所」をキーワードにした同人誌を出してみることにしたのです。
 やっぱり長くなりました。これが私・吉田悠軌がオカルトスポット探訪マガジン『怪処』を創刊するに至った、ウダウダとした言い訳というか、決意です。『怪処』、買ってください。

 

怪処サイト
http://mg-kaisyo.jugem.jp/

とうもろこしの会サイト
http://ameblo.jp/tomorokosinokai/

 

 



怪処 vol.3 オカルトスポット探訪マガジン

[2012年8月/B5/72頁/¥1,000] 編/発=とうもろこしの会

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