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 2011年も早いもので師走となった。7月からの仙台移住とその生活は、私にとって新たな思考するリズムと感覚を与えてくれたようだ。こうしていま広瀬川を横目に、石油ストーブにあたりながらコーヒーを飲みつつ、この原稿を書いていることがそれを自覚させる。

3月11日の震災、そして原発事故は私の精神・肉体を不自由にさせた。いや、正確に言えば、この天災と人災を報道するマスメディアによって繰り返し流された映像の波に私は溺れた。涙が止まらず、なかなか寝つけない日々。

 4月10日、リハビリのため、東京の高円寺での反原発デモに参加し、路上を闊歩する。家に帰って、インターネットにアップされたその日の映像をリンクづけしてみる。歩きながら撮影されたブレブレの映像や歩道橋から定点でデモ隊を撮影したものなど、一つの出来事を無数の人々が各々の視点で撮影している。
 

 後期資本主義社会における情報の大量な垂れ流しの現在にあって、mass=大衆などもはや存在はしないだろう。「大衆」は、マスメディア、資本、国家が作り上げようとするものでしかなく、いまここにいるのは、あまたの人々=peopleである。人々が自律したメディアを現場から生み出すこと、身体を活発化させるメディアの獲得を思考し実践することに意識を向ける必要がある。

同4月、私は震災後の仙台に向かった。被災地を自転車で走り、津波のあとの生臭いにおいを嗅ぐ。ここでようやく私の意識は覚醒し、もとに戻った。世界が身体にぶつかってくるようで、思わず高揚した。その後、何度か津波で流された跡地を撮影しようとしたが、私の事前の想定はことごとくその風景の前で崩され、眼前にあるものをただただ撮るしかなかった。
私は写真家の中平卓馬の言葉を思い出していた。

「…まさしく世界は作家の、人間の像、観念を裏切り、それを超越したものとして立ち現れてきているのだ。作家が、芸術家が世界の中心である、あるいは世界は私であるといった近代の観念は崩壊しはじめたのだ。そしてそこから必然的に作品を芸術家がもつイメージの表出と考える芸術観もまた突き崩されざるを得ないのは当然のことである。そうではなく世界は常に私のイメージの向う側に、世界は世界として立ち現れる、その無限の〈出会い〉のプロセスが従来のわれわれの芸術行為にとって代わらなければならないだろう。世界は決定的にあるがままの世界であること、彼岸は決定的に彼岸であること、その分水嶺を今度という今度は絶対的に仕切っていくこと、それがわれわれの芸術的試みになるだろう。それはある意味では、世界に対して人間の敗北を認めることである。だが此岸と彼岸の混淆というまやかしがすでに歴史によって暴かれた以上、その敗北を絶望的に認めるところからわれわれが出発する以外ないことは、みずから明らかなことである。」--中平卓馬『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集』(ちくま学芸文庫 2007年 17〜18頁)

震災後、支援などで無数の人々が出会い、交流し、営みを始めている。このように書くと震災で何かが生み出されたようであるが、いうまでもなく、震災が何かを生み出すのではない。そこにある人間の営為こそが何かを発見したり試行したりしながら、社会を築くのである。
こうした人間の営為を含む世界と向き合うこと、仙台での私のメディア活動は身体を解きほぐしながら始まり、継続している。

細谷修平(メディア研究・美術研究)


 



なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集

[2007年10月/文庫/308頁/¥1,200+60] 《ちくま学芸文庫》 著=中平卓馬 発行=筑摩書房

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