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〈ウメウメ書評〉ないものは、ない…。



 ウメます。〈ウメウメ書評〉は本来的には徒然なるまま「チラシのウラにでも書いておくべきことども」、すなわち「チラウラ」であります。が、書店のブログでもある、ということは販売している本の宣伝、すなわち「チラシ」でもあるわけです。ということは、「チラシのウラまでチラシ」ということになるわけです。現在、ことにWEB空間において、「チラシのウラまでチラシ」でないものがどれほど存在するのか、そもそも、それは存在可能なのか、ということについて少しばかり。

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・・・いい換えれば純粋の資本主義社会は具体的には決して実現されないが、しかし一定の発展段階では自力をもってそういう方向に発展しつつあったということが、そしてその裏にはその発展が逆転して終末を予想せしめる歴史的過程であるということが、その体系化を完成せしめることとなるのである。・・・

  ・・・たとえばマルクスが資本主義の革命的変化を期待した恐慌現象も、原理的には資本主義社会の根本的矛盾をなす労働力の商品化を根拠として出現するものとして解明される−と私は考える−が、しかしそれは直ちに資本主義社会を崩壊せしめるものとしてではなく、むしろ反対に資本主義の発展がこの矛盾を根本的にではないが、現実的に解決しつつ行われるものとして明らかにされる。原理としかかる過程が、マルクスもいうように永久的に繰り返すかのごとくに説くほかはないのである。 ・・・

(『 マルクス経済学 原理論の研究』 岩波書店1959 宇野弘蔵 より抜粋)

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 書店のブログでありながら、売っていない本の引用から入るのはイケナイことなのだ(しかも長い。ここまでどれほどに人が読んでくれているのか?- 「ウメます。まで読んだ」…)がそこはご愛嬌。いろんな媒体でいろんなことを書いている佐藤優が最近宇野弘蔵についての著作を出しているらしい。が、この本も模索舎に置いておりません。

 宇野理論については巨大なスクールが形成されており、迂闊なことを言うと怒られそうなので、正直に言うと、「宇野経済論」について詳しいわけではない。名著、古典とされている『経済原論』や『恐慌論』も読んではいない(やはり模索舎で売っていない)。宇野が自身の『理論』について語っている小文をいくつか拾い読みしているだけであります。

 で、宇野理論なのだが、どうも不思議な理論に思えてならない。「理論」が「理論的」であるのはその対象が「理論的」に運動しているからなのだ、というこの理屈。よくわからない。「即自」とか、「対自」とか、ヘーゲルとか詳しい方ならどうということもないのかもしれませんが(宇野自身はヘーゲル論理学を参照した、と明言している)。こういうことは物理学等の自然科学では当たり前に思えてしまう。ある人々がたとえばこの地上を支えているのは巨大なカメさんたちである、と妄想しようがしまいが、惑星は「理論的」に運行しているのだ(それでも地球は回っている)。けれども、宇野理論が対象とする資本主義経済はそうではない。歴史的誕生の日付をもつ。ある時代、ある地域において生まれたものなのだ。

 「資本」はある時期から法則的に運動し始めた。そしてその運動が法則性を獲得してはじめて「資本」となる。教科書的にはこの資本の法則性に着目し「経済学」の始祖となったのが重農学派やアダム・スミスである、ということになっている。かれら経済学の開祖たちはなぜ開祖たりえたのか?実際に資本が法則性をもって運動を開始し始めた時代に生き、その運動に巻き込まれて、資本主義の世の中を生きているからだ。そしてその開祖たちの経済学が資本の運動を解明することによって、同時に資本主義社会を正当化していくわけだ。つまり、彼らが「経済はこのように動いてますよ」と言うことによって経済を動かすことになる。

 ようするに、マッチポンプ、ジサクジエンというわけだ。〜が大流行、としつこく繰り返すことによって流行を創り出し、パフォーマティブに言説と対象を一致させてしまう。システム論風に言うと「システムの分化」「内部観測問題」ということになる、のか?「学問」というサブシステムが社会システム全体を表出しうるのは、社会システムに内属しているからであり、その限りにおいて社会を表出しうる、というモナドロジックな構造によってその「真理」を担保されている、というか、「真理」すらシステム内部におけるメディアに過ぎず…

 流行っているといい続けることによって流行らせる-こういう香具師の手管(言説だけでなくそれを流通させる装置も含む)をマルクス主義的には「イデオロギー(装置)」と呼ぶ。イデオロギー=虚偽意識、ではない。「流行」を「流行」たらしめ(ようと)ているのは紛れもなく「装置」(たとえばお台場とかにあったりする?)ではないか?そしてそのジサクジエン性が丸見えであることによって、「あえてノッテみせている」人どもを動員していくーそこが丸見えの底なし沼!byI編集長-な「装置」なのだ。「社会主義社といえど少なくともその生活資料は商品として購入しているわけで、マルクスもエンゲルスもこのイデオロギーから完全に自由になることはできなかったのではないかと思うのです」(『社会科学と弁証法』より)。そのような「マッチポンプ」的な経済学ないし社会システム論は「ブルジョア経済学」「ブルジョア社会学」であり、イデオロギーなのだ。それは未だ「理論」としての資格をもっていない。(システム論は結局のところ現状肯定のイデオロギーに過ぎないのか?-「ハーバーマスvsルーマン論争についてはまったく知らない)。

 と、ここまでは一応ここまではいわば教科書的な?マルクス主義のお話であります。「理論」と「実践」、「史的唯物論」と「弁証法的唯物論」、「構造」と「移行」というのはマルクス主義の永遠の課題で、理論の「科学性・法則性」ばかり強調していると、経済決定論に陥り、究極的には「歴史的必然であれば何もしなくていいんじゃね?」というニヒリズム、シニシズムを生みだし(『敗北の文学』とはいいタイトルだ!)、かつその反動で主意主義的、実存的、主体的な実践主義が生みだされる。

 宇野理論の特異性はその独断的なまでの理論性であります。宇野はあくまで「理論」にこだわる。「理論」が「理論」として完成するのは、理論の対象であるところの資本主義の終末を捉えることにかかっている。資本がその法則を貫徹できない地点にこそ、理論が誕生する。「その発展が逆転して終末を予想せしめる歴史的過程であるということが、その体系化を完成せしめることとなるのである」。そしてそしてその理論体系の内部では、資本の運動は「永久的に繰り返すかのごとくに説くほかはない」のである。自然科学の叙述方法との根本的な差異がここにある。繰り返し再現可能な実験室での検証ができない一回きりの歴史においては「死」がそのまま「永遠」へとつながれているのだ。ミネルバの梟?「永遠の生命」と「死の欲動」?

 「力(=権力)のあるところ、抵抗はある」とはフーコーの言葉だそうです。どの本で言っているのかは知らない。そもそも本当に言ったのかすら怪しいものだ。偉人の言行録とか常にかくの如し。ようするに、抵抗が存在するとき、はじめて「理論」が完結する。そしてその「理論」のなかでは資本の運動は「永遠の相のもとに」(スピノザ)ある。抵抗は確かにある、が、それは理論の中には書き込まれない。抵抗は「理論」の「そと」にあるのだ。「死」が理論の円環を閉じるのではなく、われはれは常に既に抵抗してしまっているのだ。「理論」が資本の運動をが資本の運動を永久に続く悪夢として、「出口なし」の完全無欠な体系としてあるのは、むしろ、「抵抗」の存在証明なのではないか?(『知への意思』以降のフーコーの転回?)

 「理論」の「そと」にある「抵抗」は「段階論」「現状分析」と次々と理論の階梯を生産していく。理論を生産していくのは宇野自身なのか、「抵抗」なのか、あるいは宇野が「抵抗」そのものと一体化しているのか?宇野弘蔵はこの書き込まれない「抵抗」をもさらに「理論」として捉えたい、という衝動を抑えきれない特異な理論家なのではないか(宇野自身は「私は実践の経験がない」とすこぶる謙虚なのですが)?

 ネット社会において、かつてのユートピアがデストピアとして反転した。歴史は終わり、もはやアーキテクチャーの問題しか残されていない、というシニシズムは、3.11以降、確実に「父性への回帰」という反動を生み出しつつあるように見える(…違ったらごめんね)。繰り返された茶番である。ネット社会が万能であり、永遠に続く自己増殖システムであるかのようにあなたの目に映っているとしたら、それはチャンスなのだ。そこに「抵抗」が存在しているのだから。

(文責=ひ。)

社会科学と弁証法

[2006年11月/四六H/382頁/¥3,800+190] 《こぶし文庫 45》 著=宇野弘蔵/梅本克己  編・解説 =いいだもも 発行=こぶし書房

戦後思想界の巨頭対談。『資本論』の中に革命の契機を、プロレタリアの主体性を見いだしたい梅本と、『資本論』にはそういったものは、ない、ないものはない、なぜなら「理論」だからだ、とかわし続ける宇野ー異種格闘技戦のようなイマイチかみ合っていない応酬がスリリング!

i「物質」の蜂起をめざして レーニン、〈力〉の思想

[2010年5月/四六H/366頁/¥2,600+130] 著=白井聡 発行=作品社

ないものは、ない、と言い切ってしまうある意味ドライな宇野理論であるが、その理論はドライであるが故に巨大な開放感をもたらす。理論は理論、あとは政治の領域です、と半ば認めてしまっているからだ。

 宇野理論がなぜ新左翼諸党派に影響を与えたのか、ということについて少しばかり触れられております。

プレカリアートの詩 記号資本主義の精神病理学

[2009年12月/B6/261頁/¥2,800+140] 著=フランコ・ベラルディ 訳=櫻田和也 発行=河出書房新社

ビフォはユートピア/デストピアの分岐、70年代のラディカリズムが現在においてネオリベラリズムとして結実している、ということを問題化しています。

記号資本主義下では人は端末にすぎない。頼まれもしないのにSNSで日記を書き、日常の些事をツイットし、自ら進んで端末と化しているそこのあなた!はユートピアを行きているのか、デストピアを生きているのか?
東西冷戦が自由主義陣営の勝利のうちに終結した、とされる90年代、資本主義のオルタナティブは消滅し、インターネットの爆発的普及によってあらゆるものが記号となり、サイバースペースの勝ち組とされるIT長者どもはプロザックをむさぼり、バイアグラを注入して断片化した身体を奮い立たせ、金融商品は世界を席巻し、小国の経済を破壊し、市場経済万能主義を受け入れない「野蛮なテロ国家」にミサイルを撃ち込み平滑な空間へと地ならししていく…そしてすべてが崩壊した。
世界に鬱が蔓延している。人間は結局情報処理の端末にはなりきれない。多くの認知的労働者は鬱病を発症している。端末の発症する病はそのままサイバー空間の病であり、世界に鬱が蔓延している。金融危機は鬱病の発症なのだ。
 


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ネット社会について、およびそれと親和的なコンテンツ(アニメ、ニコニコ動画などなど)などに詳しくないので、オタクカルチャー世代、というより、もはやオタクがオタクでなくなった「ゼロ年代」批評家たちに教えを乞いたいです、という方々は手始めに以下の本などをつまみ読みしてはいかがでしょうか?
 

ised 情報社会の倫理と設計 [設計篇]

[2010年5月/A5/490頁/¥2,800+140] 編=東浩紀/濱野智史 発行=河出書房新社

ised 情報社会の倫理と設計 [倫理篇]

[2010年5月/A5/480頁/¥2,800+140] 編=東浩紀/濱野智史 発行=河出書房新社

i思想地図beta vol.1

[2010年12月/A5/384頁/¥2,300+115] 特集=ショッピング/パターン 編集長=東浩紀 発行= 合同会社コンテクチュアズ

i思想地図beta vol.1

[2011年9月/A5/252頁/¥1,905+95] 特集=特集震災以後 編集長=東浩紀 発行= 合同会社コンテクチュアズ



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