模索舎WEB月報
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  久しぶりにウメてみます。基本的にネットスラングでいうところの「チラシのウラ」であります。ところが、これは書店のブログなのだ。ということは、「チラシのウラまでチラシ」ということになるわけです。現在、ことにWEB空間において、「チラシのウラまでチラシ」でないものがどれほど存在するのか、そもそも、それは存在可能なのか、ということを勘案しつつ読んでいただけると幸甚の至りです。それでは、東西東西〜
 
 「あいつとは気合が入らないな」と関取がつぶやくと、それはそれは星を買う、ないしは借りて来い、という付き人に対する指示であるそうな。様々なメディアで大相撲の八百長問題は語られてはきたものの、それを指摘するのは無粋というもの、義憤に燃えて八百長を指弾しようものなら、「注射」「ガチンコ」etc…もはや日常語ですらある角界スラングを用いて取り組みをあれこれ予想、というか妄想してこそ真の好角家である、という日本的?シニシズム、訳知り顔(「相撲はな、神事なんだよ神事!?毛唐の“スポーツ”何ぞとはわけが違うんだよ!?」-ここにおいて「國體」-国民体育大会じゃないよ-が発揚されるのだ!)で説教されてしまう、というわけだ。年功序列制度と階級制度のアマルガム、とか疑似科学丸出しの日本文化論を一席ぶち上げたくさせるほどに、大相撲の八百長問題は奥深い。

「この文章は八百長問題を扱っているようでいて、実は3.11以後の時代状況を告発しているのだ!」とこのグズグズした文章を後世の批評家が(だれ?)慧眼にも見抜いてくれることを期待しつつ(小林秀雄-吉本隆明問題)、このまま八百長問題についてグズグズ書いてもいいのだが、それは妄想がすぎる、言いたいことはズバリ言うべきなのであって、くどいようだが、批評家が沈黙を評価してくれたりするほど世の中甘くない、なんでもいいからイッチョガミすべきであって、それが「チラシのウラまでチラシ」であるところのツイッター社会の倫理というものでありましょう。-バスに乗り遅れるな!-ところがこのバスは満席になり次第発車することになっており、よって、あなたたちが乗らなければいつまでたっても発車することはない。そう、あなたが乗ろうとしなければ決して乗り遅れることはないのだ!

多くの問題は多かれ少なかれつねにすでに指摘されてきたことばかりで、「何も隠されてはいない」のです。大相撲の八百長も、芸能界とヤの付く人々との交流も、マスメディアがうそつきであること(久米弘のきめゼリフ「民放の宿命、CMです」)も、大企業や官僚の隠蔽体質も…。すべて周知の事実ではなかったのか?そうした周知の事実がある日を境に突然問題とされ始める。敗戦、連合赤軍事件、社会主義圏の崩壊、拉致問題…。鬼の首が獲られ、死者が鞭打たれ、死んだ犬のように扱われる。「生きている犬の死んだライオンに対する優越」というヤツだ。では何が変わったのか?何も変わっていないといえばそうだし、決定的な不可逆的出来事が起こった、とも言える。「事実」は重い。「重いことは善なのか悪なのか?」というクンデラ問題、「アウシュビッツ以後詩を書くことは野蛮である」byアドルノ、「200万英霊に申し訳ないと思わないのか」問題、などなど。しかしながら、「事実」は人を変えない。人は信じたいものしか信じない。-真実は愚か者しか傷つけない-byカール・ゴッチ!「キリストの復活」から今日まで延々と続く古くて新しい問題だ。

「事実」が何も変えない、とすれば、何が変わったのか?言説の布置のずれが引き起こされ、無意識がパロールにおいて…、「抑圧されたものの回帰」がどうたらこうたら…、こんなのは「作文」ですよっ(激昂した西尾幹二口調で)!難しそうな批評文を書いて文学フリマとかに出品している頭のよさ丸出しのアンファン・テリブルどもに鼻でせせら笑われそう-『批評空間』(笑)-なので精神分析はよく知らん、と正直に告白しておく。よく知らないくせに続けるのだが、精神分析によると「見落とし」「思い違い」にはそれ相応の理屈があるそうな。ジジェク十八番の小話「穀物になって鳥に食われる妄想を持つ患者」なんかによると、思い込みを指摘してやれば蒙が啓かれ、めでたしめでたし、という具合にはいかないらしい。食べる食べないかは鳥が決めることなのだ。(鳥の小話については『ロベスピエール/毛沢東 革命とテロル』p192)

八百長話のマクラから入って今回のお題であるアルチュセール、およびアルチュセールのイデオロギー論-イデオロギーは真空を恐れる-とかにつなげ、『資本論を読む』とかを読んで(ややこしい)、現代の複雑なイデオロギー状況に「理論的介入」してみてはいかが、とオチがつく。香具師のごときお手並み(錯覚イケナイヨク見ルヨロシ)で購買意欲を掻き立てたい(書店のブログの宿命だ!)ところなのであるが、そうは問屋が卸さない(模索舎は取次ぎを使わない!)。ジジェクの鳥の話で図らずもオチがついてしまい困っているのですが、「路線」を変更せずに、強引にお話を繋げます。

『マルクスのために』『資本論を読む』などによってアルチュセールの思想は当時知的流行の最先端のモード(モードはいつでもおふらんすから!)であった「構造主義」チックなマルクス主義として一世を風靡した、そうな。日本でも「ニューアカブーム」-(笑)をつける権利が誰にあるというのか!-で「構造主義」や「フランス現代思想」が流行ったものです。デリダとかレヴィ=ストロースとか、ドゥルーズ、フーコーなんかだと読んでなくても本棚に飾っとくだけで偏差値が上がったような錯覚に陥りそうなオサレな装丁(「みすず」だとか「叢書ウニベルシタス」-いまだに声に出して読めない-などなど)で出版されていたのだが、アルチュセールは「マルクス主義」だったせいかそうした「路線」から外れた位置にあった、ように思う(もちろん偏見である)。海外(というか欧米)の流行に敏感(「御一新」以来近代日本の宿痾)であるはずのアカデミズム、肝心のマルクス研究者の間でも宇野弘蔵とか廣松渉の研究もあってか、あんまり斬新な思想だと思われなかったようです。

…私は『マルクスのために』と『資本論を読む』を出版した直後の幸福感に浸っていた。…それなのに私は、これらの論文が幅広い読者の面前に裸の私をさらすことになると思い、信じがたいまでの恐怖に襲われたのだった。裸の私とは策略と欺瞞で身を固め、それ以外は何もない、あるがままの私ということであり、哲学史もろくに知らなければ、マルクスもほとんど知らない哲学者のことである。…私は独断的で、マルクスとおよそ無関係な理論の構築にのめりこんだ「哲学者」だと自分でも思っていた。(『未来は長く続く』p193)

アルチュセールの独断的テーゼの数々は相変わらず魅力的である-「認識論的切断」「重層的決定」「構造因果性」「科学が対象を持つ、というようには哲学は対象を持たない」「理論における階級闘争」「真理とは主体なき過程の効果である」「哲学は無の反復である」「唯物論者は行き先のわからない汽車に飛び乗る」etc…。ところが、自伝『未来は長く続く』では自分はあんまり哲学にくわしくない、とか「耳学問が得意」だとか「読んでもいない思想を解説できる」などなど、あけすけに(というか露悪的に)書かれている。アルチュセール自身が「ありもしない哲学をでっちあげた」ことをほぼ認めてしまっているわけだ。たびたび結論を変更し、「自己批判」を重ね、ほぼ同じ前提から真逆の結論を導くことさえある。それでありなおかつ、アルチュセールをいまさら読む意味がどこにあるのか-「狂気の文学」として、アウトサイダーアートとして、一つの「症例」として以外に?

アルチュセールは世界の錯乱なのか自分の錯乱なのかがわからなくなる、とたびたび書いている。それはアルチュセールの持つ特殊な力能(マキャベリを通じて何度も論じられている)-あらゆる秩序の崩壊、世界の「錯乱」において、世界の「錯乱」を自らの「錯乱」へと移し変える力能-なのだ。マキャベリ同様、アルチュセールお気に入りのスピノザの言うように、「主体」とは諸属性の「出会い」の効果としてあり、同じ効果の下で他者との「出会い」は新たな共同体をもたらす。とすれば、世界の錯乱を自己の錯乱へと転移させること、そしてふたたび錯乱を世界にかえすこと-ここにおいて錯乱した世界を未来へ、革命へと繋げる効果が生まれるのだ。しかし、そうでであるなら、潜水艦乗っ取りを妄想するアルチュセールと「権力奪取はすぐそこだ」と力説する10月のレーニンは同じ錯乱のもとにあったということになるのであろうか?-夜に牛を見たけど、すべての牛が真っ黒だったよ!?

アルチュセールの思想は哲学、マルクス主義、経済学(批判)、精神分析、科学論、と多岐にわたるが、どの分野においても固有にアルチュセール的なものを掴み取ることができない。どこか煙に巻かれた気になる。けれども、「もし、アルチュセールを、どの領域においても「疑わしい」がゆえに「全体として」取るに足らない哲学者であったとみなすなら、そのとき私たちは、彼の重要な言葉を聞き漏らしていることになる。(『政治・哲学著作集1』解説より)」。

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雨が降っている。願わくば、この書がまずは単純な雨についての書とならんことを。マルブランシュも自問していた。「なにゆえ雨は海に、街道に、砂丘に降り注ぐのか」。
(「出会いの唯物論の地下水脈」 『政治・哲学著作集1』収録)

この冒頭のフレーズは何度読んでも美しい。すべてが偶然である。そして「偶然の必然」というべき「出会い」がある。永続する「出会い」もあればそうでないものも…。永続しない「出会い」についての感傷にとらわれ抜け出せないままでいるそこのあなた!にレーニンのこの言葉(アルチュセールも気に入りだった)を送ろう!

-共産主義者は孤独ではない-

(文責:ひ。)

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〈文庫〉で読めるもの

 

資本論を読む 上

[1996年10月/文庫/409頁/¥1,200+60]  著= ルイ・アルチュセール/ジャック・ランシエール/ピエール・マシュレー/エチエンヌ・バリバール/ロジェ・エスタブレ 訳=今村仁司 発行=筑摩書房

資本論を読む 中

[1997年1月/文庫/291頁/¥1,000+50] 

資 本論を読む 下

[1997年4月/文庫/350頁/¥1,100+55]

再生産について 上 イデオロギ-と国家のイデオロギー諸装置

[2010年10月/文庫/336頁/¥1,500+75] 《平凡社ライブラリー あ-4-2》 著=ルイ・アルチュセール 訳=西川長夫/伊吹浩一 /大中一彌/今野晃 発行=平凡社

再生産につ いて 下 イデオロギ-と国家のイデオロギー諸装置

[2010年10月/文庫/365頁/¥1,500+75] 

マルクスのために

[1994年6月/文庫/529頁/¥1,553+78] 《平凡社ライブラリー あ-4-1》 著=ルイ・アルチュセール 訳=河野健二/田村俶/西川長夫 発行=平凡社

哲学について

[2011年1月/文庫/238頁/¥1,100+55] 《ちくま学芸文庫ア-12-4》 著= ルイ・アルチュセール 訳=今村仁司 発行=筑摩書房

---〈文庫〉ここまで----


哲学・政治著作集 1

[1999年6月/A5H/632頁/¥8,800+440] 著=ルイ・アルチュセール 訳=市田良彦/福井和美 発行=藤原書店

哲学・政治 著作集 2

[1999年7月/A5H/624頁/¥8,800+440] 著=ルイ・アルチュセール 訳=市田良彦/福井和美/宇城輝人/前川真行/水嶋一憲/安川 慶治 発行=藤原書店

 

各巻600ページ以上、2巻あわせて1200ページ。インナーマッスルの鍛錬にちょうどいい重さ、という戯言はさておく。
「自らの限界にアルマルクス」では、国家を「機械」として論じております。ガソリンエンジンはガソリンで動くが「国家」という機械は階級闘争の「力」で動く、「国家の身体は特別の金属でできている」などなど、イカれているのか的確なのかよくわからない表現が多発し、「党で行われているのは、政治でなければいったいなんなのか」という一文で未完となっている面白すぎる論考です。その他、「マキャヴェッリと私たち」「フォイエルバッハについて」などなど興味深い論文が盛りだくさんです。

未来は長く続く アルチュセール自伝

[2002年12月/四六H/517頁/¥4,300+215] 著=ルイ・アルチュセール 訳=宮林寛 発行=河出書房新社

 

二つの自伝『未来は長く続く』(一九八五年)/『事実』(一九七六年)を収録。
「未来は長く続く」とはド・ゴールの言葉だそうです。こういう言葉のチョイスにセンスがある。というか、そういうインチキなセンスだけでホンとは何も知らないんだよね、とかいろいろ書いてあります。バシュラール、フーコー、メルロ=ポンティ、ラカン、など著名人とのエピソードから、「病気」の話、妻の殺害、ド・ゴールとの架空会談や銀行強盗、潜水艦乗っ取りなど虚実妄想入り混じった奇書です。
 

ルイ・アルチュセール 訴訟なき主体

[2001年4月/四六判/283頁/¥3,000+150] 《エートル叢書》 著=エリック・マルティ 訳=椎名亮輔 発行=現代思潮新社

 

アルチュセールの思想を「狂気の文学」-ニーチェやマラルメに連なる-といった観点から読み解こうとしている本です。
ルソーは理論的困難を「文学への転移」によって抜け出した、とアルチュセールは論じているそうです。そしてこの本の著者によれば、それはアルチュセール自身のおこなったことでもある、などなど。
 

アルチュセール ある連結の哲学

[2010年9月/四六H/335頁/¥3,400+170] 著=市田良彦 発行=平凡社

 

アルチュセールの解説本のつもりで読むと、ますますわからなくなる。というか、まったくわからない。いや、わからなくて当然だ。「本とはそもそもわからないものなのだ、と佐々木中も言ってるよ」とか自己正当化するのは、佐々木中に怒られそうだから、しない。わからないが、面白い本であります。
 

パリ五月革命私論 転換点としての68年

[2010年7月/新書/477頁/¥960+48] 《平凡社新書595》 著=西川長夫 発行=平凡社

 

アルチュセールのこともちょこっとでできます。北朝鮮労働党と日本共産党との関係をアルチュセールに聞かれた著者は、答えられなかったそうです。

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元大鳴戸親方 相撲協会一刀両断 [復刻版]

[2011年3月/四六H/239頁/¥1,429+71] 著=高鉄山孝之進 発行=鹿砦社

 

連日ワイドショーを賑わせていた八百長問題。このころ海老蔵のことが忘れられていたかどうかも忘れ去られているのだが。頼みづらいことを頼む時、手抜きしたい時、ドッキドキ!LOVEメールを送りたい時、職場で、学校で、多くの人がこの「魔法の合言葉」を、「魔法の合言葉」ランキングにおいて「やればできる」から王座を奪取したこの「魔法の合言葉」を送信したハズだ(身に覚えがないとは言わせない)-「あとは流れでお願いします」-。

折角復刻出版したのに3.11が…。

 

 



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