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読書の極意、教えます。



読書、というか本を読む上でまず第一に重要なのは、「楽しむこと」である。
「ずいぶんと長い時間をかけて読んだのにつまらなかったなぁ・・・」じゃあ勿体ない。変な言い方だがそれじゃあ、本の読み損であるかと思うし、また読まれた本も可哀想である。

そしてもう一つ大事なのが、テッテー的に《自己を空しくすること》である。
こういった言い方をすると非常に仏教的というか厳めしい印象を受けるが、実際にはそんなに難しいことではない。

仏教的な表現で言えば、自己を空しくする、余計な自我を滅し切って、目の前の襖や障子、衝立などその他すべての障害物を取り除き、文章をできる限り、文章そのままで自己の中に「取り込む」ことである。
また別の文脈から、たとえばイスラーム的な表現を借りるならば、幾重にも重なったヴェールを一枚一枚剥ぎ取っていき、完全に《裸の心》の状態で本を読むことが重要である。(もし文字通り「裸」で本を読んでいたとしたら、それはただの変態である)。

このようにしなければ、文章が自分の中に取り込まれる過程で「歪められて」理解されてしまう。つまり、余計な自我意識というのは、大変出しゃばりなものなので(・・・が好きであるとか、嫌いであるといったある物事に関する個人的な感情や評価など)、文章本来の意味を往々にして容易に歪めてしまうものである。

たとえば、
「私はリンゴが好きである」というような文章があったとする。この文章が意味するところは、この文章を綴った筆者自身が本当はリンゴが好きであるかどうかという事実判断は別にして、この文章内の主語である「私」はリンゴが好きである、というまさにそのことを意味しているものであって、決して「リンゴが嫌いである」ということを意味していないことは確かである。しかし、実際には筆者自身がリンゴが嫌いであったとしても文章上(言葉の上では)、「リンゴが好きである」ということは可能である。ここを取り違えてはいけないのである。従って文章そのものを「文章そのもの」として解析あるいは分析する場合、私自身はもちろんのこと筆者すらもまずは不純物として取り除いてしまうことが重要である。ただ、そうやって冷静に分析した後に、一体この筆者が何者であり、どういう思想を持っており、実際には「リンゴが好きであるか否か」、また好きである(或いは嫌いであるならば)なぜそのように言ったのか、を分析することも確かに重要である。つまり、しっかりと両側面から見つめなければならないのである。

このようにして、もしある文章を分析的に読み込む必要がある場合、徹底的に自己を空しくするべきである。理想は自分自身を、文章を読み取る単なる「ツール」「媒体」という程度に考えることである。たとえば、目やメガネは文字を映しはするが、それ自体は決して思考しない。本当に可能であるならば、目やメガネすらも最悪の場合、文章を「屈折させる」余地を持っているとして、それすらも捨て去ること、それが究極の理想的な読書の方法である。

「本が私なのか、私が本なのかわからない」

そういう状態(一種の神秘主義的理想形態ともいえるが・・・)、それほどまでに本や文章そのものに歩み寄った状態、それが読書の極みである。

・・・

ただ単に享楽として、気晴らしとして本を読むとしても同様のことが言えるかと思う。
本を読んで「悲しい」と思ったら泣けば良いし、「楽しい」と思ったら楽しめば良いし、とにかくその本に共感し、その本が訴えていることを感じ取ってあげることが大事である。そうすれば、たとえどんな本を読んだとしても、それはその人にとってまさに「特別な」本に早変わりする。

「急がば回れ」とはよく言ったものだが、アレは恐らく本当で、
「百回の速読よりも一回の精読のほうが結局は良い」と言えるのではないだろうか。

(文:音楽雑誌Oar編集長 野上郁哉)



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