模索舎WEB月報
TOPへ

古本は流転する



かのギリシアの哲学者ヘラクレイトスは言った「万物は流転する」と。確かにそうだ。地球も、人間の血液も常に循環している。決して止まることなく回転を続けている。そこで私はある二つの言葉をここで述べたい。それはつまり
「古本は流転する」
そして
「人の在るとこ古本屋在り」と。

・・・

凡そ本の読み方には大まかに分けて2つあると思う。それは「消費的読書(受動的読書)」と「創造的読書(積極的読書)」の2つだ。つまり、「消費的読書」とは、ただ単に本を読み物として「楽しむ」ことを目的として読む読み方であり、それは結局のところどこまで行っても消費されてお終いだが(そういう意味では食事に似ている)、一方、「創造的読書」は本をただ単に消費し、楽しむものとは見なさず、そこから得られる知識や情報をもとに、それらを改変・切り取りすることによって、新たな意味づけを加えたり、違った文脈に嵌め込むための知的創造の可能性を常に念頭に浮かべながら批判的・分析的に本を読む読み方だ。私はここでどちらの読み方が良く、どちらの読み方が悪い、ということを言いたいのではない。つまりは、その人の目的にあった方法で読めばそれで良いのだということである。

私はいわゆる「本気違い」というやつで、アラビア学、イスラーム学で有名な故前嶋信次さんの言葉を借りれば「ボードレールの詩散文には、人というものは、てんでに肩にシメール(怪獣)を背負って人生行路を辿っているという意味の一篇があるし、『アラビアン・ナイト』のシンドバードの冒険談の中にも、ひとたび人間の肩につかまったが最後、金輪際、離れることのない「海の老人」(シャイフ・ル・バハル)という厄介な怪物のことが出てくる」(『アラビア学への途−わが人生のシルクロード』、NHKブックス、1982年、p.9-10より)という言葉があるが、私はまさにこの「海の老人」というのに取り憑かれてしまったようだ。

11022101.jpg頭の中には古本屋マップみたいなものがあり、最近は古書店ノートもこっそりと付け始めた。はじめて訪れた町では必ず古本屋がないか探しながら歩いてしまうし、入ったが最後、一冊も買わずにお店を後にするということが困難なほどの重症だ。私は府中在住なので、当然近辺の古本屋には一通り、足を運んだが、中でもお気に入りなのが、府中駅のすぐ傍にある「木内書店」といういわゆる古本屋らしい古本屋だ。どのお店でも足繁く通っているとそのお店ごとの特徴というものが漠然とではあるが見えてくるようになる。木内書店は客層柄もあってか、時々ビックリするような掘り出し物が飛び出してくるのだが、一番最近購入したものの中でお気に入りは、オーストリア出身でドイツ語の詩人リルケの『リルケ書簡集?:ミュゾットの手紙』(高安国世、富士川英郎訳、養徳社、1950年)の初版である。なんと61年前に発行されたものが、今私の目の前にあり確かに存在しているのである。この感動と因縁めいたものを一体どのような言葉で表現したらよいものかといつも困るのである。

110221.jpgつい最近、東京都台東区蔵前にあるアノニマ・スタジオというところで行われた「BOOK MARKET 2011」というのに参加した。今年で3回目になるというイベントである。会場が二つあり、カワウソというもうひとつの会場で出展していた古本屋さんの本を眺めていると、この本がすぐに眼に入ったので、ビックリしてしまった。
元祖「サブカル王」とも呼ばれた文筆・批評家、ジャズ評論家でもある植草甚一さんの追悼特集号である『話の特集』という雑誌だ。生前この雑誌に記事を寄稿されていた植草甚一さんの思い出について語るような内容となっている。かの江戸川乱歩をして「俺の蔵書よりもすごいのがいた」と言わしめた古書蒐集家のゴッド・ファーザー的存在である。雑誌で特集をさせていただいた関係でそれから私もすっかり植草さんに心酔しきっているのだが、こんなところにも思わぬ出合いが転がっているのかと思うと、古本との出合いも一種のご縁だなぁと思わざるを得ないのである。

(文:Oar編集長 野上郁哉)



<   2011年2月   >
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28          
フリーペーパー版模索舎月報
  • 2011:10:10:20:20:21 フリーペーパー版模索舎月報11年10月号配布中!! (10/10)

リンク
★☆模索舎ブログ☆★


特集〜インタビュー・活動紹介など