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音楽と天才



 つい先日、NHK教育で放送していた坂本龍一が司会を務める音楽番組「スコラschola 坂本龍一 音楽の学校」という番組で4回に渡ってジャズの特集をしていた。ゲストに日本人のフリー・ジャズ・ピアニストとして有名な山下洋輔なども向かえ、ジャズの様々な要素について実践を加えながらの解説をしていた。その中で、ほんの一瞬だけではあるが、アルト・サックス奏者チャーリー・パーカーがサックスを吹いている映像が流れた。それを見たときに直感的に感じた。「ああ、この人は天才だな」と。
ちょっと前に読んでいた植草甚一の本の中にこんな言葉が書かれていた。「パーカーがなぜ“バード”という愛称をつけられたかは、いろいろな説があるが、鳥の歌う声とピッチのありかたが似ているからだと考えていいだろう。」(『モダン・ジャズのたのしみ(植草甚一スクラップ・ブック12)』植草甚一著、晶文社、1976年、p.81)より引用。
その映像を見た瞬間にこの言葉を思い出した。チャーリー・パーカーのサックスは確かに鳥の鳴き声のようだ!流麗で自由で楽しそうで。あんなにも自由にピッチを、あるいはサックスを操れる、ヒトが口で語る代わりに、まるでサックスで話をするように吹いている。これは確かに人間だけが理解できるある一定のパターン(型)を持った記号としての「言語」および「言葉」よりも、単なる音の流れとしてヒトの耳には聞こえるという意味で、彼のサックスの音色は鳥の鳴き声に似ていると言っていいだろう。なぜ、チャーリー・パーカーはあんなにも流麗なサックスが吹けるのだろうか?

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その鍵が彼の「天才」だ、と私は思う。
そもそも我々が日常の中でもよく使うこの言葉、「天才」とか「才能」とは一体何だろうか?

彼の「天才性」は、間違いなく弛まぬ努力と練習量の賜物だ。こう言い切ってしまうと、なんだ、そんなことか、と思われてしまうかもしれない。だが、天才を語る上で重要なのはこの後だ。彼らは自分が血の滲むような努力や相当の練習を積んできたことすら意識していない。そのような思考が頭の中にはないのだ。いや、もしかしたらそれを意識しているかもしれない。だが、それは彼らの絶対的自信としてのみ働くのであって決して自分自身に溺れたり、満足してはいない。まさにこのことが彼らの天才性を背後から支えている絶対的要因だ。天才はどこまでいっても満足しない。常に「上」を見つめ続けている。だからこそ、進歩し続けることができるのだ。それが天才を語る上での絶対必要条件であるように思う。

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黒人労働歌やブルースに根を持ち、ニューオリンズにおいて官能の音楽、ダンス・ミュージックとしての基礎を築き上げたジャズは次第にアメリカを北上していき、1940年代になるとニューヨークのナイト・クラブなどでモダン・ジャズ、さらに細かく言えば、「ビ・バップ」と呼ばれるいわゆる「聴く音楽」としてのジャズが発展した。
「バップは一九四六年ごろから一九五三年ごろにかけ、もっともモダンでポピュラーなジャズのスタイルとなった。」(同上、p.102)より引用。
このジャンルのジャズが「ビ・バップ」と呼ばれるようになったのには諸説あるがここでは触れない。トランペット奏者ディジー・ガレスピーとアルト・サックス奏者チャーリー・パーカーはその代表的アーティストといえる。この他にもこの時代には、マイルス・デイヴィスをはじめとし、ジャズの黄金時代を築き上げる数多くの天才たちが登場した。人種差別や劣悪な待遇、低いギャランティー、酒、ドラッグなど様々な周囲を渦巻く環境に手かせ足かせを掛けられながらも生きていた彼らに共通するのは、何だか「楽しそう」、それも底抜けに楽しそうだということだ。彼らは音楽に、ジャズに身を委ね、身の定まらぬ思いに絶えず右に左に揺り動かされながら人生そのものを文字通りスウィングSwingしていたのだった。

ヒトは天才に「生まれる」のではない。天才の天才性によってまさに天才に「成る」のだ。

(文:編集長 野上郁哉)



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