ひ。: 2007年1月アーカイブ

諜報の認識論

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書評などを。
『諜報機関にだまされるな!』(ちくま新書632)(著=野田敬生 税込価格¥777 筑摩書房)
 筆者は元公安調査庁でCIAに研修経験あり。
インテリジェンス/インフォーメーション、諜報/操作、パズル/ミステリー等多、諜報活動の基本概念について適宜解説しながら、イラク、アルカイダ、朝鮮半島情勢等の諜報活動を分析していく内容で、タイトルから暴露本的なものを期待した読者は肩すかしを食うかも。
 諜報活動に関するアポリアは非自然科学的分析全般にあてあてはまる。先に出てきたパズル/ミステリーを例にとろう。「パズル」とは「情報がそろえば解ける」問題であり、「ミステリー」とは「現状では予測不能」な問題である。諜報される側は諜報されていることを知れば予定の行動を変更するか、さらには裏を掻こうとするだろう。だから実際には諜報が扱う問題は多かれ少なかれ「ミステリー」なのである。そして、多くの問題が「ミステリー」であるが故に、諜報機関は調査される側に介入することによって、予想の正しさを「立証」してしまうのである。
 だから『諜報機関にだまされるな!』というタイトルには二重の意味が込められている。つまり、「諜報機関のだまそうとして意図的に流すニセの情報」にだまされるな!といういことと、「諜報機関は実は素で誤っていることがある」がゆえにだまされるな!ということ、である。 (ひ。)

A:5 5 5 5 5 
B:2 4 6 20 30

という二つの数字の並びがあったとして、どちらにより秩序があると考えられるでしょうか?
 一つの考え方として、「Aは同一の数字が並んでおり、Bはバラバラである。よってAにより秩序がある」というものがあります。たしかに、全て同じである、ということは何か安心感を与えてくれますね。
同一性が秩序を感じさせるものとしてユニフォームがあります。団体スポーツ、学校の制服、軍隊、警察等、同じ格好をすることは秩序の象徴であります。
 見方を変えて、もしAの並びが競馬や競輪のオッズだとしたらどうでしょうか(テラセンはないものとする)?つまり、以下のようになります。

A:単勝
車番 1 2  3 4  5
---------------------------
倍  5 5  5 5  5 

B:単勝
車番 1 2  3 4  5
-------------------------
倍   2 4  6 20 30

Aは、どの馬ないし選手が勝っても全て同じ5倍の配当となっていて、すべての馬ないし選手の力量が同等であり何が勝ってもおかしくない、という投票者の予想あらわしているわけです。このようなレースは“予想が難しい”レースといわれます。逆にBのオッズは本命-対抗がはっきりしており、Aの場合よりも予想がたてやすい、つまり、「秩序がある」ということになります。「全てが同一」ということは同時に「全て区別がつかない=無秩序」ということでもあるのです。
 さきに「同一性=秩序」の例としてにユニフォームを挙げましたが、よく考えればユニフォームは実は同一ではないのです。どういうことかというと、例えば野球のユニフォームであれば背番号が違うのです。背番号まで同じではいけませんね。(ゴレンジャーの中に赤レンジャーが二人いて怪人に「しっかりせえ!」と説教されるダウンタウンのコントを思い出します)。ユニフォームの同一性は敵と味方を区別するためにあるわけで、まず敵と味方を区別し、そのあとで味方を区別するために背番号を付けるわけです。
 軍隊であれば、軍服は味方であることの標ということになります。しかし、軍服による敵-味方の識別には、敵が同じ軍服を着て味方に紛れ込む危機-つまりスパイが紛れ込む危機が常につきまとうのです。
だから、軍隊や警察は入隊時に「身分照会」を厳重にやるのです。外からは同じように見えても、階級や部署等で厳密に個別化されているわけです。ここでもまず敵と味方を区別し、そのあとで味方を区別するわけですね。
 スパイは、敵の中にあって敵に味方だと思わせると同時に、敵に気づかれずに味方にだけ味方であると識別されなければなりません。そのためには敵には気づかれず味方にだけわかるような標が必要なのですが、それはまた敵に気づかれる原因にもなるわけです。だからスパイの極限とは敵そのものになる、ということです。忍者漫画にでてくる“草”ですね。
 大衆社会における「群衆」はその同一性ゆえに無秩序への「恐怖」を呼び起こします。いったい、「恐怖」とは誰の、誰に対する「恐怖」なのでしょうか?それは為政者が「群衆」に覚える「恐怖」であり、同時に「群衆」が「群衆」自身に対して覚える「恐怖」です。為政者が「群衆」に恐怖を覚えるとき、「群衆」を「身分照会」しようと躍起になります。「群衆」が「群衆」自身に恐怖を覚えるときどうなるのでしょうか?「群衆」は「より大きな力による秩序」を欲望する--とすれば、もう一つの恐怖、つまり、「為政者の力が強大になることに対する群衆の恐怖」を同時に召喚してしまうのです。いやそれ以上に重要なのは、「『群衆』は『より大きな力による秩序』を欲望する結果、より為政者を恐るべきものとしてしまう」、と「群衆」自身が「群衆」想像してしまうことによって、群衆自身が群衆それ自身への恐怖と為政者への恐怖へと分裂してしまうこと--なのです。
 さきのレースのたとえで言うと、ギャンブラーはAのような予想の難しいレースが続くとウンザリし、Bのような本命-対抗がはっきりしたレースを望みます。反面、Bのようなレースばかり続きかつ本命が勝ってばかりいると、「なんっにもねぇっ!」とこれまた怒り出します。つまり、強力な本命による秩序と予想可能性と大穴への夢想とのあいだでつねに引き裂かれているのです。

しつこいようですが、
2007年1月13日(土曜日) 18:00〜 模索舎にて
『カネと暴力の系譜学』(発=河出書房新社) 刊行記念
萱野稔人トークイベント
をやります。
 カネと暴力、国家とは何か、自然状態、社会契約論、友-敵関係、規律-訓練、非行性と合法性、私のコト・・・好きですか?等々、萱野先生に何でも聞いてください!
(ひ。)
                                                                                                                               

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