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復刻版

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復刻ものの紹介を。

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◆母よ!殺すな
[2007年9月/四六判/432頁/¥2,500+125] 
著=横塚晃一 発行=生活書院 解説=立岩真也
目次:脳性マヒとして生きる/脳性マヒ者の親子関係について/差別以前の何かがある/ある障害者運動の目指すもの/優生保護法と私/「さようならPC」上映討論会/亡き夫の介護ノートより/横塚晃一 未収録の書き物と発言/横塚晃一への追悼文/シナリオ さようならPC/青い芝の会・歴史/ほか


「母よ!殺すな」-この言葉は障害を持つわが子を殺してしまった母親への助命嘆願運動に反対する運動のスローガンであり、障害者の自立生活運動を象徴する言葉でもあった。立岩真也(解説)は「前世紀に出た重要な本の一冊」と評している。
 「世界を変えた一冊」-こういうのは出版社や書店の売り文句に過ぎない(立岩も「その後の運動の実際の大きな部分を導いて来たのは青い芝の会ではなかった」と記している)。何か-革命?-がすべてを劇的に世界を変える、変えうる、という夢や幻想に疲れ、疑問を持った人びとの少なからずが原一男監督のカメラの前にその「異形の」身体を晒す彼ら-生きる事がそのまま創造であり、社会変革であるような存在-に魅了されたのだろう。あるいはもう一度夢を見たがる人たちは「聖と賤」が反転するロマン主義的幻想を投影したのかも知れない。
 そうした「健全者」の思い入れや、「政治的引き回し」とは関係なく障害者は生きていかなければならない。「日本的土壌においては「転向」が「成熟」として正当化される」と言ったのは誰だったか忘れたが、一時の「若気のいたり」「青春の一コマ」として美化したり韜晦したりするのとは別の理屈で障害者は生きている。「障害者運動」は「原則的であるが現実的」(立岩)であらざるをえないのだ。


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◆遠くまでいくんだ・・・ ――全6号(1968〜1974)完全覆刻
[2007年11月/A5/604頁/¥4,700+235] 
編/著=府川充男 解説=糸圭秀美 発行=白順社
目次:<創刊号>:倫理的・あまりに倫理的な 日本的党の倫理性の崩壊=小野田襄二 更級日記の少女 日本浪漫派についての試論(一)=新木正人 ほか/<2号>:吉本隆明試論(一)=重尾隆四 ほか/<3号>:黒田寛一の戦いと敗北(一)戦後マルクス主義論1=小野田襄二 ほか/<4号>黒田寛一の戦いと敗北(二)=小野田襄二 ほか/<5号>政治における極北の論理 再出発への宣言=小野田襄二 文学観への回帰=甫代紘平 ほか/<6号>自己勃起をめざせ=大谷紘平 ほか/<7号>自由意志とは潜在意識の奴隷にすぎないのか=新木正人 錯誤する進化-その泥にまみれた人類==小野田襄二/解説=糸圭秀美


「党の倫理性」「日本浪漫派」「黒田寛一批判」「吉本隆明論」・・・そして何より「遠くまで行くんだ…」という雑誌名…。
「遠くまで」とはどこまでだろう?
旧国鉄のキャンペーン-「ディスカバー・ジャパン」がはじまったのは1970年である・・・。

模索舎7月のイベント-漫読家・東方力丸 模索舎を読む!

日時:2007年7月20日(金) 19:30〜
場所:模索舎にて

司会(?):ぺぺ長谷川さん

東方力丸さんが、摸索舎に持ち込まれたアジビラ機関誌、フリペ、ジン、漫画を読む。

高らかと謳う宣言なのか、
表にぶら下がるビラの一文なのか、
何を読むのかわからない。
模索舎を読む東方力丸。

東方力丸さん、この日は、池袋でイベントの後、模索舎に来るそうで、
超過密スケジュールが心配。

おそらく、お笑い芸人のようなイメージを持っている人にとっては、
いつもと違う東方力丸さんの読みが聞けるはず。

後半は、漫画も読みます。

☆☆☆☆

入場:無料
カンパ大歓迎!持ち込みOK。

レトロ

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書評でも。

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●サザエさんの<昭和>
[2006年8月/A5/245頁/¥1,600+80] 編=鶴見俊輔 斎藤慎爾 発行=柏書房]

-「私は『サザエさん』に「戦後民主主義」の家庭像を見ない。むしろ戦前の理想的な中流家庭を・・・見るのである」(関川夏央)-
-「つまり、『サザエさん』は、わたしに「戦後民主主義」とは違う、「戦後民主主義」が死んでも残る「戦後」というものがあったと感じさせる」(加藤典洋)-
※いずれも本書から引用。

 「昭和レトロ」がブーム、というより、もうブームはとうに終わっていて、「犯罪発生率」「収入格差」等の統計資料を持ち出して、「旧き良き」時代よりも、「世紀末」をも軽々とまたいでしまった現代の方が実は「よりまし」な時代なんですね、追憶は甘美なものかな、という検証をしてみせる、「マッチポンプ」でいうところの「ポンプ」がプチブーム、というところではないでしょうか?
 さて、「サザエさん」である。『サザエさん』といえば、一昔前に謎本が流行った。多くの人に知られていると同時に、よくよく考えると「?」を内包している-この辺が謎本が出来るゆえんであろう。
この『サザエさん』に感じる「?」とは、『サザエさん』という物語がすでに「レトロ」化しているにも関わらず、あいもかわらず「庶民」の物語として流通している、ということに起因している、かのように思われてしまいがちであるが、果たしてそうだろうか? 
『サザエさん』の家庭は「庶民」ではなく「中流家庭」、もっといえば「プチブル」である。猪瀬直樹の分析によれば、関東大震災後、私鉄沿線が東京の西にへと広がり、郊外が成立する。そして『サザエさん』的な中流家庭が誕生する。
『サザエさん』の物語は、「われわれ庶民」の等身大の物語というより、憧れの「プチブル家庭」の物語として受容されていたのかも知れない。同時に、戦争によって破壊された「戦前の理想的な中流家庭」への郷愁を呼び起こす物語でもあった。

『サザエさん』とは、そもそも始めから「レトロ」な物語なのかもしれない。

 年齢を、やや、ばらされてしまいました。もう少し、ZARDなカンジでいたかったのですが、仕方ありません。災いを転じる意味で、年齢が、やや、ばれてしまったことを前提とした上で、書評でも。

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◆族の系譜学 ――ユース・サブカルチャーズの戦後史
[2007年6月/A5/402頁/¥2,600+130] 著=難波功士 発行=青弓社
太陽族からみゆき族、暴走族、アンノン族などの「族」の系譜をたどり、オタク、渋谷系、コギャル、裏原系へという「族から系への転換」を見定めて、若者文化の変容を照らし出す戦後史。(オビより)


 「裏原系」文化(「ショップ」(語尾上げで)「カリスマ」「コラボ」「リスペクト」「ストリート」etc・・・)とは、「ネットワーク・ソシアリティ」の「サブカルチュラル・キャピタル」化である、と著者は分析していて、やや、わかったような気になりました。 
 ミクシイなんかもそうだけど、しんどいよね。「リスペクト」して/「コラボ」して/いなきゃいけない人間関係(Yo-Yo)。ウツだよね?
 売上で悩む「模索舎」も、「裏原系(笑)」(あらゆるものに(笑)をつけて態度を保留してしまう振る舞いについてもこの本で分析されています)をビジネスモデルとして取り入れなければならないのでしょうかね?
 前時代的自意識の持ち主としてはイマイチしんどいのですが、本が売れないとオマンマ食い上げです。

誰か「コラボ」してくれよ!な!?

最後に、「コラボ」「リスペクト」に疲れたアナタにお勧めの一冊を。気合が入ること請け合いです。
“出発(でっぱつ)すっぞ!?”(by特攻《ぶっこみ》の拓)。

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◆REVIVAL版 写真集<暴走族> 止められるか俺たちを
[2005年3月/B5/142頁/¥2,000+100] 編=戸井十月 第三書館
「止められるか、俺たちを」が、十三年の歳月を経て復刻。 ──俺たちのこととやかく言う前に、テメエのこと、どうにかしたら?テメエのことゴマ化してる野郎の言うことなんか、まともに聞けるかよ!

書評でも。
 
「地雷を踏む」という言い回しがある。皆が気づいているが、気づかない振りをしなければいけないことが存在してしまうのが大人の世界というもので、その存在していないことになっていることに触れてしまう行為を「地雷を踏む」といったりする。またそういう行為を繰り返すと「空気を読めない」人物と認定される。例えば太宰久雄などはしょっちゅう踏んでいる、というより彼が踏まないことには物語が転がっていかないのであるが、そういう意味では「空気を読」みまくり、ともいえるわけである。ここでは太宰久雄という無難な例を出したわけであるが、一○○○造を例にだすのは果たして「地雷を踏む」ことになってしまうのでしょうか?
 「なぜ『在日』は日本国籍をとらないのか?」「なぜ天皇主義者なのに親米でいられるのか?」「護憲派は第一条についてどう思っているのか?」etc・・・といった「問い」を投げかけることは、あるいは地雷を踏む行為であり、空気を読めないはしたない行為であるようでもあり、空気を読めない振りをしてあえて地雷を踏む「自爆テロ」である場合もありうる。時にはあからさまに相手をやり込めたり、差別するために「地雷」はあえて「踏まれ」ていく・・・。
 
 「棒とひもの重さはない」ものとして考えるように、とりあえず、純粋に「問い」そのものに答えてみようではないか、という提案は、時には体制側からの「毒饅頭」のようでもあり、またある時には弱者の抵抗の手段であるようにもみえる。実験科学的「真理」の検証手法を、そのまま「政治」的「真理」の検証に持ち込むことは、「科学的」であるようでいて、その実「疑似科学」なのである・・・。

・・・とか考えるのに疲れた方は「素直に」読んでみてはいかがでしょうか。

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◆右翼と左翼はどうちがう?
[2007年5月/B6/222頁/¥1,200+60] 
著=雨宮処凛 発行=河出書房新社
目次:右翼と左翼と私/右翼って何?/左翼って何?
/両方の活動家に話を聞こう〜木村三浩(一水会代表)、針谷
大輔(統一戦線義勇軍議長)、古澤俊一、太田昌国(編集者・
民族問題研究家)、足立正生(映画監督)、日野直近/矛盾だ
らけの世の中で

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◆日本国籍をとりますか?
2007年5月/B6/252頁/¥1,800+90]  
編=白井美友紀 発行=新幹社

目次:辛淑玉 姜尚中 梁石日 白眞勲 その他多数。

 石原都知事の再選、長崎市長の射殺、素人の乱・松本氏の出馬など、何かと話題を集めた統一地方選もいよいよ大詰めです。
 海の向こうのフランスでは大統領選が始まりました。初の女性大統領なるか?ロワイヤル候補、2005年「暴動」で名を馳せたサルコジ候補、おなじみルペン候補、などが激戦を繰り広げます。さて勝つのは誰だ?

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◆沸騰するフランス ――暴動・極右・学生デモ・ジダンの頭突き
[2006年10月/B6/291頁/¥1,700+85] 著=及川健二 発行=花伝社 (発売元=共栄書房)
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◆フランス暴動 ーー移民法とラップ・フランセ
[2006年2月/B6/193頁/¥1,200+60] 著=陣野俊史 発=河出書房新社


 夏の参院選まで待てない選挙マニアはフランスから目が離せない?  【ひ。】

 

◆映画『太陽』オフィシャルブック
[2006年8月/B6/279頁/¥1,980+99] 
著=アレクサンドル・ソクーロフ ほか 編=リンディホップ・
スタジオ 発行=太田出版

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「朕」という一人称は秦の始皇帝が使い始めたらしい。皇帝は一人しか居ない。だから皇帝の使う一人称も皇帝にしか許されない、という理屈である。一人にのみ許された一人称というものが、そもそも人称代名詞であるのだろうか?
 「朕」とは「兆しである」である。見せつけ、君臨はすれど、下々のものに見られてはいけない。だから、「有/無」「可視/不可視」のあいだに、「兆し」としてあらわれる。
 皇帝には名がない。名付ける、とは差異をうがつことである。名付け、分類し、統制する-「名付け」という行為は皇帝の権威重要な源泉ある。だから皇帝は名付けられることはない。ただ「お上」と漠然と、それこそ「兆し」として、「指示対象の欠落」によって間接的に指示するしかないのだ。(「無名戦士の墓」が共和制的ナショナリズムを支えるシステムであるとすれば、靖国神社とは戦死者に「名を与える」ことによって「国民」を生起させるシステムといえるかもしれない)。
 通俗的な「対話」モデルが「自己」と機能的には同一の「他者」を前提しているすれば、「唯一者」である「朕」は誰と話しができるのであろうか?皇帝は誰にも語りかけない。「朕」の独り言を御簾ごしに侍従が拝聴するだけだ。
 ただし、現実には「朕」は複数いる。皇太子時代に欧州外遊経験のある彼-ヒロヒトはその事を知っている。イッセー尾形扮するヒロヒトは、一度口をモゴモゴさせ、何かをつぶやく-その動作なしには発話しない。
 二つの発話行為-「朕」としての「独り言」と、対等な他者(欧州には幾人もの「朕」がいる)との「会話」-の裂け目を埋める動作-ヒロヒトのモゴモゴはその動作に他ならない。(彼の生殺与奪の権を握った「お堀端の『皇帝』」と英語で話すヒロヒトはモゴモゴしないのだ!)。

レンタル開始されたので、映画館で見た方も、見逃した方も、オフィシャルブック片手にご覧になってはいかがでしょうか?

NHKドラマ「ハゲタカ」の主人公・鷲津はこう言い放つ。銀行員時代、貸し剥がしによって町工場主を自殺に追いやってしまった彼は、「ハゲタカ」的手法によって日本を変革しようとする。「格差社会」と人は言う。しかし、一見冷酷な経済合理性を貫徹すること以外に、再生の道はないのではないか-?

「破壊」と「再生」は閉塞状況下に見る「夢」である。

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◆世界の貧困をなくすための50の質問 ――途上国債務と私たち
[2006年5月/A5/254頁/¥2,000+100] 著=ダミアン・ミレー、エリック・トゥーサン 訳=大倉純子 発行=柘植書房新社

「国が買い叩かれる」とはどのようなことなのか?
「ハゲタカ」に「破壊」と「再生」を幻視しそうになったアナタにオススメです。

書評をもう一つ。

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◆コンテンツの思想 ――マンガ・アニメ・ライトノベル
[2007年3月/B6/204頁/¥1,200+60] 
著=東浩紀 共著=伊藤剛、神山健治、桜坂洋、新海誠、新城カズマ、夏目房之介、西島大介 発行=青土社


「珈琲でよろしかったですか」「一万円からお預かりします」ーいわゆる「コンビニ語」「ファミレス語」、併せて「ファミコン語」というヤツである。
なんだかよ分からないがとにかく丁寧に接客しようという意図だけは伝わってくる言い廻しで、ゆとり教育以降の若年層に敬語を習得させるよりも(おそらく)簡単であり、其れゆえに発明され、なおかつ流通したのであろう。
 遊廓の「ありんす」という「花魁言葉」は方言隠しのために発明されたそうです。田舎の小娘が半端に粋ぶるよりは、いっそ「ありんす」という「人工語」が遊廓という「虚栄の市」にふさわしい。「自分は〜あります」という軍隊-体育会用語も「徴兵制」がもたらした(やはり方言対策らしい)。新しい組織形態は新たな言語形態をも生み出してゆく。
 
書店である。店のじいさんは不機嫌である。客が本をレジに持っていく-。
「ありがとうございます」
-とは言わない(司馬遼太郎調)。
それどころか「チッ」と舌打ちをする。指先にたっぷり唾をつけて袋につめる。
「役者の理想は笠置衆である」(by渥美清)のと同じ意味で、これは書店員の極北であろう。勘当した息子の嫁が訪ねてきて(死んだ妻の面影を追ったりするのだ!)同居しようと持ちかけられたりとかいう、そんな年輪を経なければあの渋みが生まれない…ハズだ(大船調のドラマツルギーは乗り越え難い)。私はもちろん、「本屋の不機嫌なじいさん」には遠く及ばない。が、及ばないながらも、そういった「キャラクター」を「キャラ」として演じたい、「プレイ」してみたい。そういう欲望が、私にはある。
 「(言語も含めた)振る舞い」の習得がとりあえず「キャラ」を演じる快楽から始まり、「キャラ」の一人歩きが達人の境地である、としたら、「ファミコン語」における快楽とは何であるのか?
「プレイ」的快楽を欠いているまさにそれ故に自動的に主体が立ち現れてしまうのか(大量生産/大量消費社会)?
あるいは、「放置プレイ」的なもの-「心ない言葉」「無視」の集積こそが快楽なのだ-なのでしょうか?
 
「キャラ」を「プレイ」する欲望/快楽とはなんなのか?あるいは「キャラ」に「萌える」とはどのようなことなのか?
そんな事が気になる方にオススメです。

書評などを。
 巷では「2007年問題」が取りざたされております。BSEや鳥インフルエンザ、雪印や不二家など食品会社の不祥事なども影響してか、田舎で農業なんかやりながらリアタイア後の第二の人生を過ごしたいな、と思っている方も沢山いらっしゃることでしょう。あんまりいないかもしれないけど、いることにしていただかないと話が進まないので、ここは曲げて、いる、ということで話を進めましょう。
 模索舎にも農業/食関係のコーナーはあって、現代社会における「食」の問題に焦点を当てた本が沢山あります。農業のハウ・ツーものもあります。ある、ていうか、仕入たからあるんじゃん!、というツッミをはさておき、現代の大量消費社会、なにが安全なのか、何を食べるべきなのか?ということを突き詰めて行くと、答え・その一 食べられるものがないので食べない、ということになってしまいます。そうはいかないので、答え・その2 できるだけ加工食品は食べない、ということになり、行き着く所は答え・その三 自分で作るということになるわけです。
 農作物であれば、農薬や化学肥料の有無、生産地、遺伝子組み換え等をとりあえずチェックすればいい、というか、よくないのかもしれませんが、いいということにして話を進めます、が、「肉」になると、牛や豚等肉になる動物が何を食べているのかまで気にしなければならない。農薬や保存料などは食物連鎖のより上位にあるものにより大きな問題となる。より安全に食べようとすると、肉は野菜以上によりリスクがありコストがかかる、という問題と、健康・美容問題があいまって、肉を食わない、という選択をしている方が増えているのではないか。肉食はどこか文明社会の腐敗と虚飾の象徴でもある。肉牛一頭育てる飼料で〜人分の命が救えるのだ、という第三世界問題もあいまって肉食にはどこか「罪」のにおいがする。さらに「日本人」の「仏教的」浄穢観がそれを補強している、と推測しているのだが如何に?
 「答え・その2 できるだけ加工食品は食べない」を選択した方が肉を食わなくなるのはわかる。しかし、「答え・その三 自分で作る」を選択した方、あるいは選択しようとしている方は肉も自分で作る、つまり家畜を育て自らの手で屠殺する、ということも視野に入れているのであろうか?当然入れている、方もいらっしゃるでしょうが、どうも、自分で作る、の範疇に農産物はあっても肉はあんまり考慮に入れられてないのではないか?「自分、肉が好きなので退職後は田舎で家畜を飼いたいです。自分で屠殺して食いたいです」という方はあまりいらっしゃらないのではないか?実際、「やさしい家畜の飼い方」とか「屠畜の楽しみ」とかゆうたぐいの本はあんまりないのですよ。まあ「第二の人生」派の場合は、年とると肉を食えなくなる、ということに過ぎないのかもしれませんが。

「世界屠畜紀行」(著=内澤旬子 発=解放出版社  2,310円(税込)は屠畜のハウ・ツーもの、ではなくて、アメリカ、イラン、エジプト、韓国、などなど、世界各地の「動物が肉になるまで」のイラスト付きルポです。「屠畜」という作業にスポットを当てつつ、各地域の文化にふれられるし、現代社会において、食とは、生命とは、について考えさせられます。

「血のしたたるステーキ」が富と成功のシンボルであった時代は終わり、チエーンの焼肉屋で輸入牛肉を化学調味料たっぷりなタレで食べてるヤツは「負け組」で、「勝ち組」は無農薬の有機野菜なんか食べているに違いないのだ、という予断と偏見に囚われ、素直に「肉が好きだ」と言えない貴方(おれのことか?)、は、ぜひ一読を! [ひ。]

雪降りませんね

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 払暁-粛々と、しかし決然とした跫音が雪道を往く。やがて静寂は破られ、純白の雪は鮮血に染まる-。そう、白地に赤い「日の丸」は血と雪のオマージュである。やがて白と赤は混沌として櫻吹雪(櫻の木の下には屍骸が埋まっている)となって舞い散るのだ!
「雪」と「テロリズム」-美学と政治が交差する地点-に『忠臣蔵』と『2・26事件』はある--。
 中野重治は「君らの叛逆する心は/わかれの一瞬に/凍る」(「雨の降る品川駅」)とうたった。「雨の学徒陣」「涙の御堂筋パレード」の「雨-「雨」が叙情をあらわしているとすれば、「雪」は叙情の0℃-つまり流れる叙情の凝固であり、政治への結晶化なのだ!
 
しかし、まっったく雪ふりませんね(東京地方)。
ここのところアジア主義関連の本に(やや)力を入れております(最近取引を始めた版元「書肆心水」の本が主なのですかね)。
詳しくはリンク「新着入荷アイテム」をご覧になってください!------続きは『模索舎月報』で!  (ひ。)

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