Voice Of Mosakusha Online

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ひ。の最近のブログ記事

 『ウメウメ書評』と銘打っているものの、あまりウマることはない。久しぶりにウメてみます。

 「この物語はフィクションであり、実在の人物・団体等とは〜」というおなじみのテロップがテレビドラマ放送終了時に流れるようになったキッカケは諸説あるようです。また、このテロップそのものが「うそつきのパラドクス」を内包していることもたびたび指摘されております。とにかく、世の中にはフィクションとそうでないものがある、すくなくともテレビプログラム等はそうである、ということをこのテロップは示そうとしており、また、テロップそのものがウソかもしれませんよ、と言外ににおわせてもいるし、言外の、パフォーマティブな表現もコミでお楽しみ下さい、というメッセージすら発しているわけです。

 なにがしかの事件が起こるたびに、リアル/虚構、現実/バーチャルの区別がつかなくなっている、ということが原因であるかのように語られたりする、ようでいて、実はそれほど語られていない気もする。まあいいや。とにかく、リアル/虚構、現実/バーチャルという区分が世の中にはある、という前提で語られているわけで、そういう区分がある、ないしは、そういう区分があることにする、ということこそが「現実」であり、「これは虚構ですよ」ということがさっきも言った「うそつきのパラドクス」をも含み込みつつ、というか、むしろその効果によって「リアル/虚構」、「現実/バーチャル」という区別を内包した「現実」が成立するわけです。

 世の中にはたくさんのリアルがある、とかいうと、ベタな歌詞みたい、あっという間に画面が小さくなり、ダイアモンド☆ユカイとかに説教されてしまいそうでありつつ、あえてベタな歌詞を歌いつつ、説教される、ということをコミにしたパフォーマンスなのかもしれず、ユカイさんもあえてそれにノッている、あるいはノッているフリをしているのかもしれない。で、そのさまざまなリアルが小宇宙をなし、他の宇宙とは”リアル”において接近可能であったり、“虚構”として共約不能だったりする。おのおのの小宇宙はその宇宙限定の”リアル”を表現しつつ、その小宇宙にっとっては”非現実”でしかない他の小宇宙を指し示し、さらにはそれを通じて”全宇宙”を間接的に表現しているわけです。

 私がこの小宇宙にあること、と、私があること、が同時に立ち現れるとすれば、私が存在する小宇宙を知ること、慣れ親しむこと、はそのまま私を知ることであり、私と慣れ親しむことになる。やがてこの小宇宙は私の道具になり、身体になり、私そのものになっていく、あるいは私が小宇宙になっていくー。

 といった主体と世界の弁証法的理解は誤解を招く。東浩紀によるとアディクションには神経整理学的/認知心理学的/精神分析的という三層があるそうです。小宇宙と私の邂逅の体験はまさしくアディクションの体験であり、そこから立ち現れる快/苦を身体が感じる、のではなく、快/苦を感じる場が身体を形成するのであります。

 ここにおいて世界/私という実存的苦悩など、実はありはしない。人は端的に飽きる、のだ。

文献:
●REVIEW HOUSE 03
「今ゲラを見返してみても、まったく色褪せることの無い、刺激的な内容であると確信しています」(編集後記ー黒瀬陽平)。
アーキテクチャは人間が作ったものであり、万人に公開されている、にもかかわらず、人間にとって制御不能な環境/世界として立ち現れている。ゼロ年代批評?にとってキーコンセプトであるアーキテクチャをめぐる諸問題をゲームにおける「チュートリアル性」「フロー体験」を手がかりに「刺激的に」展開しております。紹介されているニコニコ動画には爆笑させていただきました。
 
ここのところ、「ネット中毒とアディクション」といったことを考えていたので、

…要するにポストモダン社会になると、人はデータベースとアーキテクチャーによって人工的に設計された環境、つまりはゲーム的環境の中で動物化していく。いいかえれば、すべての人々のインセンティブや動機付け、つまり「主体的意志」を構成する要素のほとんどはアディクションに回収されるようになる…(『REVIEW HOUSE 03』 p22より)

という指摘にはポン!と膝を叩いた次第です。

 世界/宇宙は主体/agentの織りなす『ゲーム』だとすれば、神なき世界における世界/宇宙はつねに小世界/小宇宙が欠乏しており、各個人は小世界/小宇宙を産出する苦役を背負っている。いまや、身体を、小宇宙を産出するのはアディクションいよる他はないのだ。

 再度言う。現実/バーチャルが渾然一体となっている、ということは実は大したことではない。実存的苦悩でもなく、主体無き記号の戯れ、でもない。現実は、世界はつねにそこ、にある。「もう飽きたよ!?」-そのとき世界と出逢っているー。

こんなお話?をもっとしたい皆様に朗報!!
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◎イベントのお知らせ

模索舎展示即売会 inあかね
「現代思想のカッティング・エッジ〜批評、美術、カオス・ラウンジ〜」


ゲスト:ReviewHouse黒瀬陽平
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できるだけ議論できる場にしたいと考えております。ご参加いただけると幸いです!!


◆ネトゲ廃人

タイトルがエグイ。そのまんま「ネトゲ廃人」のルポルタージュです。「デイトレーダーがはまったRPG」などは、世界金融危機以降の現代社会の縮図のようでおもしろい。













◆僕の見たネトゲ廃神
月に一度の交流イベントスペース あかね&模索舎コラボ企画『模索舎展示即売会 inあかね』第一回ゲスト・赤木智弘氏の模様があかねスタッフ・inside-riversさんのブログで読めます。是非ご一読を!!

『模索舎展示即売会 inあかね』 第二回のゲストは『ReviewHouse』の黒瀬陽平氏です。


『アンモナイト 貧乏人抹殺篇/貧乏人逆襲篇』 監督:増田俊樹さん来舎。

初日は(1月30日)は満席、立ち見が出たそうですが、事前の宣伝があまりうまくいっていないらしく、テコいれに監督自ら廻っているそうです。

「大手の映画雑誌は広告とタイアップでないと中々取り上げてくれない」とのこと。もっとも、広告タイアップ方式に依存した雑誌ですら、というか、その依存性故にか、とにかく、売れない、というのが現状です。


タイアップ広告:『アンモナイト 貧乏人抹殺篇/貧乏人逆襲篇』  チケット1400円 模索舎にて発売中!!

多くの文化系雑誌が出版社の手を離れ、インディー化/ミニコミ化しつつあります。大手配給以外のインディー映画とこうした雑誌がうまく連携していればいいし、模索舎もなんかのお役に立てればいいな、と考えております、というようなお話をしました。

2月12日には 松本哉×鈴木邦男のトークショーがあるそうです。詳細は追ってお知らせします。

ウメウメ書評 小熊英二『1968』

「普通に美味しい」という言い回しがある。「普通」なのか「美味しい」のかはっきりしろ、と言いたくなる(中野重治調ー出典は忘れたのですが、「思う次第 であります」といった「主体」を放擲したいい廻しは東条や近衛の国会答弁が起源である、と指摘しています。まさに「臣民」的発話主体!)。ようするに、「あ る意味、美味しい」とか「これはこれで”アリ”だよね?」とか「こういうのが好きな人にとっては美味しいんじゃない?」とか、そういう留保やエクスキュー ズ無しに「美味しい」のだが、かといって「ものすごく美味しい」というほどではない、そういう諸条件が重なると「普通に美味しい」というフレーズが産出されていくわけです。で、「不味い」場合は「微〜妙」と言ったりする。かような言い回しをしなければならないほど他人の意見や嗜好(とりわけ味覚など客観 的な評価がし難いもの)を批判したり、対立したりすることに気を使い、神経をする減らしているわけです。

 他人の意見を尊重する、というか無関心であるべき、というリベラリズム、個人間の価値観は比較不可能という価値相対主義、こうした方法論的個人主義を前提に個々人の効用が測定され集計される。
市場経済万能主義の原典とも言える「ワルラス均衡」は、そのまま社会選択上の「パレート最適」をなす。すべては市場が決める。市場は「正義」である、が「正義」を押し付けはしない。買いたくなければ買わなければいい。買わない自由は保障されていることになっている。「ぼくはこういう感性、スゴク好きなんだけ ど、万人受けするかどうかな〜」というのは「つまらないのでこういう原稿をもち込むな」ということをやんわりと表明したい場合の編集者の常套句で、市場はあら ゆるものを数値化し、序列化しつつ、個人の価値観を否定しない。しないどころか「個性」として称揚しさえするー消費行動の主体として。市場経済的自由主義 はそのまま政治的リベラリズムへと横滑りし、さらに道徳的格率となっていく。いまや「政治的ものがいまや道徳の作業領域(レジスター)上演されてい る」(『◆政治的なものについて 』ームフ)のであります。

 ネオリベ社会ではすべてが許されている。あらゆる思考・嗜好が尊重され、リスペクトされ、同時に市場によって「評価」されるー神が死に、「あらゆることが許される」というドストエフスキー的状況?いな、ジジェクが指摘するように、「神の死」にお いては逆説的に「あらゆることが許されない」のだ。あらゆることが禁じられており、ただ一つ、許されていることは「禁欲」だ。「清貧」が称揚され、ジョギ ングとロハスが流行り、他者も私も同様あらゆることが禁じられていることを望むのだ。ー私はいつでもそれを諦める準備ができている。他者が(もまた)それ を手に入れることが(でき)ないという結果を保障される限りは!ー(『◆ロベスピエール/毛沢東  革命とテロル』 p202)。だからこそ、小熊自身がかつて俎上に載せた「草の根保守主義者」たちは、「思想」「イデオロギー」に禁欲的であるどころか、ふりかざしてさえいる (かに見える)「サヨク」、というよりもっと俗に、想像上の「語りをいれたがる団塊オヤジ(そんなのがいればの話だが)」を忌み嫌っているのではなかったか?(『〈癒し〉のナショナリズム 草の根保守運動の実証研究』)。

  すべてが客観的合理的に集計可能ならば、「政治」という固有の領域は存在意義を失う。「客観情勢」が「政治」を規定するなら、「政治」は経済学に還元されてしまう。客観的合理的に判断できない「例外状態」おける「決断」ーシュミットのみならず、経済学をも「複雑性の縮減」で裁断しがちな?システム論です ら、(というかであるがゆえに?)「決断」という契機を重視しているーを抜きにして「政治」の領域は語れない。経済学の道徳化、政治化はなにも市場経済- ネオリベにみられる現象ではない。かつての「社会科学」としてのマルクス主義(「下部構造決定論」「窮乏化論」…etc)もまた、経済が政治を決定する、 という理論構成ではなかったか?市田氏が指摘しているように、「セクト」諸党派はこの経済還元主義を疑うこと、「政治」的領域を、「決断」や「主体性」を 復権させようとすることからから生まれたのではなかったか(「過渡期世界論」「主体性論」「組織論」…etc)?セクトであるなしにかかわらず、 「1968」において賭けられていたのはまさにこの「政治/革命」ではなかったのか?

ー党と党派性が異なるように、思想と思想性は異なる。党がなくても党派性は消滅しないように、思想がないところにも思想性はある(「六八年革命は『存在』しなかった」市田良彦)ー。ネオリベ状況下においては他人 の「思想」をとやかく言ってはならない、リスペクトしなければいけない、という「思想性」が蔓延しているのだ。そのような「思想性」においては、「政治/ 革命」はあらかじめは失敗を約束されているか、はじめから存在していないのだ(「歴史の終焉」「終わりなき日常を生きろ!」)。とすれば、「心理学化」さ れた「歴史社会学」的手法によって「1968」描くことは、二重の誤りをおかすことになりはしないか?「1968」の「政治/革命」を捉え損なうこと、それによって現在の「政治/革命」の不在/不可能性を追認してしまうこと、である。

と言ったことを考えながら『1968』を読んでみてはいかがでしょうか?


●小熊英二関連:いろいろ書きましたが、小熊氏の「歴史社会学」的手法による著作はどれも面白い。

単一民族神話の起源 〈日本人〉の自画像の系譜
〈日本人〉の境界 ──沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮 植民地支配から復帰運動まで
〈民主〉と〈愛国〉 ──戦後日本のナショナリズムと公共性

などは、『坂野上の雲』がいまさら?プチブームな昨今、あらためて読み返されるべき素晴らしい業績です。
(『司馬遼太郎の歴史観 その「朝鮮観」と「明治栄光論」を問う』なども参照)


●小熊英二『1968』関連

1968 (上 ) 若者たちの叛乱とその背景
1968 (下 ) 叛乱の終焉とその遺産

情況 2009年12月号 特集=1.小熊英二『1968』 2.日大全共闘とは何か
長崎浩、三上治、高橋順一各氏が書評をよせております。どれも参考になります。特に市田良彦氏の書評は鋭い。以下抜粋。

… 彼らはそれぞれが還元不可能な「個性」をもっている存在、つまり「私はこのように受け取った」と言えばそれを信じるしかない権利主体であるから、本性的に <足し算>を拒む。ゆえにその全体に対しては、これも「一つの視点ですよ」と断りを入れた上で、他所から私の「視点」を被せるしかない。いかに「学問」の 名においてもち込まれようと、小熊はそれをもち込む正当性については、当事者たちを前にして彼らと同じ「心理学」を根拠とするほかないのだ。私はあなたの 視点を否定しません。私の視点は「一つ」の、つまりあなたと同じく「それぞれ」の次元に属する視点にすぎません。所属する時代情況が異なっているだけの。 「それぞれの『一九六八』を否定しない」良心は、小熊の「歴史社会学」を再心理学化する。「心理学」的主体をいくら足し合わせても、大きな同じく「心理 学」的な主体にしかなることはできない。その上での社会学であり、歴史学であり、それらの適用でしかない。P52 「六八年革命は『存在』しなかった」


●カールシュミット関連:「政治」を考える上でやはり欠かせない古典

政治的なものの概念
政治的なものという概念規定は、特に政治的な諸範疇をみいだし確定することによって獲得されうる。すなわち、政治的なものには、それに特有の標識ー人間の思考や行動のさまざまな、相対的に独立した領域、特に道徳的、美的、経済的なものに対して独自の仕方で作用するーがあるのである p14

パルチザンの理論 政治的なものの概念についての中間所見

正戦と内戦 カール・シュミットの国際秩序思想
最近矢部史郎氏が「海賊」について書いています。
情況 2009年12月号 特集=1.小熊英二『1968』 2.日大全共闘とは何か
「現代日本におけるアナキズムとは」
VOL lexicon など)
「海賊」は、反グローバリズム(「海」の秩序)の対抗原理として「国家」(「陸」の秩序)を過大評価してしまう、という陥穽から逃れるための思想的拠点たりえるのか?とか気になる方は一読を!




きょうのチラウラ 12/7

チラシのウラまでチラシ、です。

まとめて報告。

11月某日 『蜜月』の方が来舎。納品は初めて。『蜜月』という実話誌や夕刊タブロイド的タイトルは素晴らしい。「ミニコミ界激震!!模索舎と『蜜月』の蜜月状態」という文字が電車の吊り広告に踊る日を夢みて、蜜月化に邁進しております。

12月某日 葬式ミニコミ『葬3号』ができました。今年の模索舎MVPミニコミ(あくまでも、模索舎スタッフ ひ。の個人的見解です)。ちなみに昨年はぶっちぎり、満票でブスミニコミ『バハマ』(現在お取り扱いしておりません)。『葬』の場合は、審査委員会紛糾のあげく決まったカンジで、選考委員の一部(だれ?)が選考に不満を漏らしたりするような受賞であります。それでもMVPはMVPです。なんにもでませんが。情報誌に掲載された切り抜きを店に張っているラーメン屋みたいで嫌なのですが、先日取材を受けた雑誌『サイゾー』にもMVP(のひとつ)としてあげました。そのうち発売されるはず。

選考理由:
・葬式DIYという発想が素晴らしい。「結婚と葬式は段取りがとても似ています。一方は半年も前から準備して、もう一方は三日ですべて終わらせる」(創刊号より)。なるほど、そのとおり!高齢化社会、老後の不安、格差社会、貧困、などが社会問題化されて久しいのですが、家族制度、地域社会の崩壊と相まって、葬式への関心は高まりつつあると思われます。映画『おくりびと』もヒットしたし。ジミ婚や手づくり結婚式が主流になりつつある昨今、葬式にもDYIの波が?

葬3号』はかかわいいにゃんこが表紙!葬式雑誌らしくないせいか、手に取る客が少ない気がする。MVP受賞後だけにチト残念!
(『葬1号』『葬2号』も発売中!!)

12月某日 『K.F.L』の方が上京する。模索舎は初めて、とのこと。かなり面白い方で、かなり長時間お話をしました。年内には最新号発売予定!!
『K.F.L 1号』『K.F.L 2号』発売中です!!)

●ブブ96には模索舎スタッフ・カシマのステキなマンガが掲載されています。是非ご一読を!!


チラシのウラまでチラシなのです、はい。

11/3
 『ILLEASTRECORD』というインディーレーベルの方がCD『Guerrilla DEMOnstration Sound/悪霊』を納品にいらっしゃいました。元舎員・kendiによると、地域ラップというか、地域HIPHOPというか、とにかく、都内および東京近郊では、地域のアンチャンたちがスペースを作り、ライブをやり、CDを出す、というムーブメント?がキてるそうな。『ILLEASTRECORD』の方もでっかいラジカセ(断固としてラジカセでなければならないのだ!)で路上ライブをやってるそうです。
  模索舎も売り上げが落ち込み、WEBに活路を見出さんとしているのですが、書籍より、音楽や映像のほうがWEB展開向きなのかもしれませんね、WEB上で立ち読みさせるより、試聴させるほうがはるかに簡単ですものね、といったお話をしました。『Guerrilla DEMOnstration Sound/悪霊』の試聴はこちら

11/4
 バンタン映画映像学院生の自主上映イベント『エネフレッシュ』の方来舎。「自主法政祭市ヶ谷地区企画「映像と社会。〜法政大学で考える〜」で模索舎営業担当・えのに声をかけられたのだそうです(ボーナスの査定とかはないです)。 男女のペアで来舎されたのですが、とくに女性の方は営業上手!!出版社の営業の方でもなかなかああはいかない。聞けばまだ一年生なのだそうです。模索舎には映画関係のミニコミもたくさんあるので、出店をお願いしました。

  「チラシ置かせてただけませんか?」「もちらん、よろこんで」と、いつものごとくチラシを受け取る。見れば、「11.20アンナ・ポリトコフスカヤ暗殺3周年・追悼特別上映会」できれば模索舎で出店したいのですが、とお願いする。「チェチェン関連ですと、高文研の『チェチェンで何が起こっているのか』などありますが」とお話しすると、なんと、「著者なんです」とのお答え。「チェチェン関連書籍はあまりないでしょうから、パレスチナ関連とか、イラク関連とかのものも含めてたらいいのでは」とアドバイスしていただきました。 それから『チェチェン 廃墟に生きる戦争孤児たち』(白水社)(近日中に入荷します)を薦めていただきました。
 うかつなことに、『チェチェンで何が起こっているのか』は共著、いらっしゃったのが林克明さんだったのか、大富亮さんだったのか、確認しておりません。間抜けすぎる。


※「11.20アンナ・ポリトコフスカヤ暗殺3周年・追悼特別上映会
上映後トークイベント:林克明×寺中純×大富亮
模索舎でチケット販売(¥1000)いたします。

<関連書籍>
チェチェン民族学序説 その倫理、規範、文化、宗教=ウェズデンゲル
プーチン政権の闇 チェチェン戦争/独裁/要人暗殺
チェチェンで何が起こっているのか

チラシのウラまでチラシなのだ!

やや遅れての報告。
10/28 、いつものように、仕事をほったらかし、パペットのマー君を相手に「ひもじいよ〜」「本さえ売れてくれればねぇ」と泣き売の稽古(声が、遅れて、聞こえて、…きたりは決してしない)に没頭していると、「こんにちは」と大きな声が?書店なのでこんなテンションの高い挨拶は滅多にない。自己陶酔の涙を拭きつつ相手を見やれば、 『東京かわら版』の方でした。テンションが高いのは噺家さんとのおつきあいが多いからなのでしょうかね?普段いらっしゃる編集の方とは別な方で、目が充血しているので「編集の方ですか?」と訊ねると、このところ忙しくて、というお返事。
 芸人仲間なら「お互い、もうからないねぇ」というのが挨拶代わりなのだが、書店なので「景気はいかがですか?落語ブームの影響とかありますか?」とお訊ねしたところ、「まったく関係ないですね」とのご返事。下町生まれらしく、子どもの頃からばあさまに歌舞伎や相撲につれられていったそうです。好きな落語家は小三治、お相撲はソップ形、前褌をを引くと力を発揮するガチンコ力士、出羽ノ花、だそうです(ちなみに女性)。

『界遊』(123号とも模索舎で発売中)の方来る。模索舎でも告知いたしましたが「自主法政祭市ヶ谷地区企画「映像と社会。〜法政大学で考える〜」で『界遊』の方が司会をするそうです。自主出版の未来について、模索舎の今後について、いろいろと基調なご意見を伺いました。『界遊』次号は来年四月ぐらいに発売、だそうです。

『悍 [HÀN] 第3号』が発売!!

白順社の江村氏が来舎。直接『◆悍 [HÀN] 第3号』を納品してくださいました。九州と国権主義について少しお話ししました。江村氏は「西郷の評価は難しい。司馬遼太郎もきちんと西郷を描けていない」とおっしゃっておりました。以前司馬遼太郎と西郷についてブログて書いたことがあり(こちら)、この問題は面白い。

まぐま』の方と『架空』の西野氏が来舎。『架空』が月刊になるそうです。

『まぐま』発行元の蒼天社から新刊のお知らせ
『祇園の細道 おとんぼ舞子』(著=岩下孟民) 11月下旬発売予定!!


チラシの裏までチラシなのだ!!

雨のそぼ降る夕暮れ時、のことである。客は無い。雨のせいばかりではない。
無聊をかこっていると、きしんだ戸の開く音がする。―久しぶりの、客―ではなかった(剣豪小説調?)。
―映画のチラシをおかせてください―
みれば映画『ドキュメンタリー頭脳警察』のチラシでありました(剣豪小説調?はもうおしまい)。「頭脳警察」関連のCD、書籍等は模索舎でも販売しており、模索のお客様にもファンが多い、ハズだ。ということは、パンフと置いたら売れるかも―
 と思い、「関係者の方ですよね?」と、話しかけたところ、なんと、瀬々敬久監ご本人でいらっしゃいました!滂沱たる脂汗を流しながら「あの、よろしければパンフを模索舎に置かせていただきたいのですが・・・」とお願いする。瀬々敬久監督は礼儀正しい方で、「それなら配給会社と相談してみます」と快く応じていただきました。ありがとうございました。ささやかながら映画の宣伝をさせていただきます。
 
  雨のそぼ降る夕暮れ時(以下略)
―映画のチラシをおかせてください―
みれば映画『へんりっく 寺山修司の弟』のチラシでありました「寺山修司」関連のCD、書籍等は模索舎でも販売しており、模索のお客様にもファンが多い、ハズだ。ということは、パンフと置いたら売れるかも?
 と思い、「関係者の方ですよね?」と、話しかけたところ、なんと、石川淳志監督ご本人でいらっしゃいました!
 筑波山麓のガマのごとく冷や汗を垂れ流しながら、「あの、よろしければパンフを模索舎に置かせていただきたいのですが・・・」とお願いする。石川淳志監督は気さくな方で、それなら、と「ワイズ出版」に即座に連絡を取っていただきました。「ワイズ出版」は模索舎とも取引のある出版社なので、快諾していただきました。
  「ついさっき、瀬々敬久監督がいらっしゃいました」と申し上げたところ、「瀬々敬久監督も『『へんりっく』を見てくれたらしく、褒めてくれているようなので大変嬉しい」とおっしゃってました。ありがとうございました。ささやかながら映画の宣伝をさせていただきます。

 閉店間際、ネット書店『Lilmag』野中モモさん来舎。売り上げが落ち込み、ネット販売に活路を見いださんとしている模索舎なので、これ幸いと、色々アドバイスしていただきました。どうもありがとうございます。

zunou.jpg2009年11月7日〜『シアターN渋谷』にて上映!  
監督: 瀬々敬久
プロデューサー:石毛栄典
企画:須田諭一
撮影:西久保弘一ほか
整音:有元賢二
助成:文化芸術振興費補助金
出演: PANTA、TOSHI、菊池琢己 ( guitar )、中谷宏道 ( bass )、中山努 ( keyboards )、小柳 "CHERRY" 昌法 ( drums ) 他
配給:トランスフォーマー




◎『ドキュメンタリー頭脳警察 』関連
<書籍>
◆頭脳警察
◆パンタとレイニンの反戦放浪記
◆テロリスト幽閉者
○LB 中洲通信 No.280(2009年11月号)
<CD>
◆〈CD〉頭脳警察 『頭脳警察 1』
◆〈CD〉PANTA/〜響 オリーブの樹の下で
●〈CD〉三社『無線/伊豆』
●〈CD〉石塚俊明/赤い夜
●〈CD〉風魂
●〈CD〉七識 / VAJRA(三上寛・石塚俊明・灰野敬二) 
●〈CD〉声聞/VAJRA(三上寛・石塚俊明・灰野敬二)
◆〈CD〉『1973.10.20 頭脳警察  ──日比谷野音“聖ロック祭”』頭脳警察
◆〈ビデオ〉『最終指令自爆せよ! ──渋谷公会堂91年2月27日』頭脳警察

henri.jpg2009年10月10日〜
 シアター・イメージフォーラム渋谷にて公開!

監督: 石川淳志
キャスト:森崎偏陸、荒木経惟、宇野亜喜良、浦岡敬一、緒川たまき、木村威夫
題字:荒木経惟  ポスターイラスト:宇野亜喜良 
ポスターデザイン:鈴木一誌











◎寺山修司の弟・森崎偏陸の出演作『ローラ』ほか収録
◆〈DVD〉寺山修司実験映像ワールド vol.1  ◆〈DVD〉寺山修司実験映像ワールド vol.2
◆〈DVD〉寺山修司実験映像ワールド vol.3  ◆〈DVD〉寺山修司実験映像ワールド vol.4 
◆〈DVD〉寺山修司実験映像ワールド コンプリート DVD-BOX


◎野中モモさん関連
●少女と少年と大人のための漫画読本 2007-2008
●少女と少年と大人のための漫画読本 2008-2009
●ドノゴトンカ Donogo-o-Tonka 0号(創刊準備号)
◆世界のサブカルチャー  Underground Culture From All Parts Of The World




ウメウメ書評 その4ードブ板を踏破せよ!!

ひさしぶりにウメます。

「川の上流から下っていけ」というのは故・田中角栄の「ドブ板」の教えだそうです。
うさぎ追いしかの山、叙情溢れる美しき故郷の山河、川は流れ、川の流れとともに街ができる、美しい街が。オリンピック、万博をテコに完璧な計算で作られた夢の都市。そんな夢の都市にはユメもチボーもない人々が息をひそめ、あるいは喧しく生活しており、そんな彼らにとって夢とは夢の島、というくそリアリズムで、サラサラながれる小川のせせらぎは流れの終末においてコンクリートジャングルの毛細血管をなすドブとなる。ドブ板を踏破せよ!ドブ板から包囲せよ!

 もう一つの「ドブ」が存在する。ルサンチマンと俗情の掃き溜めである「ネット空間」というドブ川が。クリック一つで億単位の金が動く、豊かなものはより豊かに、そんな世の中じゃーそうでない方の吐き出すポイズンはすえた悪臭を放つドブ川へとはきだされ、flowするcashの伏流をなすのだ。かつては「バーチャルドブ板」を踏破する何者もなかった、のだが、ここのところそんな「バーチャルドブ板」にも跫音が響くようになっているそうです。「ネットウヨク」というやつだ。

「格差社会」と言われて久しい。そして格差は「地方格差」としてあらわれております。国際競争力のある輸出中心型産業と、手厚い保護政策と参入障壁に守られた国内産業、近代的/前近代的なものの共存ーこうした「二重構造」は、古くて新しい問題であります。自民党保守本流的政官土建複合体制においては公共事業というカタチで再分配がなされ、それがそのまま集票マシーンそして機能していたわけですが、小泉改革以降、「二重構造」はそのまま、いな、「新自由主義」のもとでますます強化され、で、再分配機能のみ崩壊している、ということは集票マシーンも壊れた、ということで、それがそのまま選挙の結果につながった、という事なのでしょう。

 資本の「本源的蓄積」において古き良き農村共同体が解体され、余剰人員は都市へ流れ、鉄鎖以外に失うもののないプロレタリアートとなる、とすれば、資本/労働あるいは正規雇用/非正規雇用の対立はそのまま都市/地方、あるいは都市/農村の対立へと横滑りしていく。そして、不遇をかこつ底辺層は失われた「共同体」へと回帰していく、というより「共同体」を「再発見」してゆく。「再発見」される「共同体」は地域、地方、農村、といった地理的なものだけではない。伝統、国家、あるいは「サイバー・スペース」「ジェネレーション」といった観念ですら動員される、というか、資本の運動が抽象的である以上、それに随伴する現象なのだ。抽象的観念は具体的な地理概念と結びつき、「共同体」として実体化されてしまう。

 酒井隆史によれば、谷川雁は「国家/資本に包摂されていながら、見放されているという、二重構造の先端」を「半所属」と定義しているそうです。「二重構造論」から地理的概念へ、ではなく、地理的概念から「二重構造論」へー「谷川雁の二重構造論には、半所属→所属の全面化、二重所属→所属の単一化という概念のセットに、もう一つ、より無所属という範疇があって、反帰属と無所属という概念の組み合いが、特定の形態の二重構造を規定するいわば『不在の原因』になっている」。「直近の時間には属していない思考を、現在の顕在化した事態に直接に符合させて意味を見いだすといった『現在主義』はなるべく回避したい」酒井隆史の意向には反するかもしれませんが、このこの「半所属」という概念は「ネットウヨク」分析に有効なんではないでしょうか?つまり、「国家/資本に包摂されていながら、見放されている」「ネット難民」たちの右傾化は「半所属→所属の全面化」の動きと捉える事が可能なのではないでしょうか?

 もちろん、ルサンチマンをテコにした「半所属→所属の全面化」という側面だけでは捉えられない問題があります。近代的/前近代的、あるいは舶来/土着…といったものが「ポストモダン」として接合されている「二重構造」として「ニッポン」的システム?を見いだし、シニカルに同一化していく「サブカル保守」的立ち位置をどのように考えたらいいのでしょうか?ーとか言いつつ、こういう問題は「擬似問題」にすぎないのだから、ほっとけばいい、のかもしれないが、どうなんでしょ?

  世の中そう捨てたものでもない。谷川雁が「無所属」という範疇に「自立」の可能性を見いだしたように、「素人の乱」や「フリーター全般労組」など、現代においても「半所属→所属の全面化」と双対的に「自立」への志向も同時に胚胎しつつあるようにも思えます。そう、ネットで「○○祭り」に興じたり、「特権」を云々するより、ミニコミ作ったりしましょう!?で、模索舎に納品してください。

「現在の顕在化した事態に直接に符合させて意味を見いだすといった『現在主義』」丸出しですが、このへんで。
(引用は『◆谷川雁 詩人思想家、復活』収録ー「いま、谷川雁を読むということ??無数の情動からなる潜在的地平へ」=酒井隆史 から )

129097.jpgのサムネール画像◆谷川雁 ??詩人思想家、復活
[2009年3月/A5/192頁/¥1,600+80] 《KAWADE 道の手帖》 発行=河出書房新社

◆谷川雁セレクション 1  工作者の論理と背理
[2009年5月/四六H/420頁/¥3,200+160] 著=谷川雁 編=岩崎稔・米谷匡史編 発=日本経済評論社

◆谷川雁セレクション 2  原点の幻視者
[2009年5月/四六H/420頁/¥3,200+160] 著=谷川雁 編=岩崎稔・米谷匡史編 解説=仲里功 発=日本経済評論社




129937.jpg●雲よ 創刊号  現代と越境
[2009年6月/A5/170頁/¥1,500] 編=谷川雁研究会世話人(編集部) 発行=谷川雁研究会












129230.jpg◆[増補決定版]SECT6+大正闘争資料集
[2009年4月/B5/278頁/¥3,000] 編/著=神津陽 発行=JCA出版











129940.jpg●日本禁歌集の宇宙
[2009年8月/B6/188頁/¥1,500+75] 編集同人=加名義泳逸/神谷一義/目寛之/鈴木奈津子/高沢章雄/徳永理彩/中西レモン/吉田悠樹 装幀画=竹中英太郎/ 発行=邑楽舎/メディア・ルネッサンス

…竹中はこのシリーズの見取り図をこのように記している。”江戸・上方・博多という市井庶民の俗語の流れと、北九州炭坑地帯の労働歌(地底の怨歌・艶歌)、それに対置する東北農民の土着のうたごえという、紋切り型の構図をまず描いた。(以下略)”
(「公序良俗の“恥部”をしたたかに撃つ庶民の知恵」=湯浅学 より)

「二重構造」「地理概念」「自立」等々を考える上でも一読を!!


129938.jpg●ラップ歌謡大百科
[2009年1月/A5/24頁/¥380+19] 編/著=スモールライト 発行=スモール出版

…歴史は自らをさかのぼらない。歌はいまを生きる人のものだ。竹中労の業績を愛するものが、「日本禁歌集」を私たちの感情になにがしかの権利を持つ上位審級にすることは、民衆の亡霊に憑依されて、いまを生きる人々を見失うことにつながると思う。「禁歌」を法律にしてはならない。
(『日本禁歌集の宇宙』-「禁歌が禁じられない時代に」=北里義之より)

いまを生きる人々を見失わないためにも。


129959.jpg◆ニッポンの思想
[2009年7月/新書/349頁/¥800+40] 《講談社現代新書2009》 著=佐々木敦 発行=講談社

「サブカル」とナショナリズム…等々について、よく纏められております。このようにうまく纏めてしまう、ということそのものが、現代の批評状況をパフォーマティブに表出している、ということまで読み込んでしまうのが現代のスレッカラシの読者である、ということまで佐々木敦は計算しているのだろうな、ということまでパフォーマティブに表出している、ということまで…(以下同様)。
チラシの裏までチラシなのだ!!

8/20、「傑・力・珍・怪 映画祭」(模索舎にてチケット販売中)を観に行く。

 チビッコのころに読んだ子ども向け歴史物語のなかに『鉄砲伝来物語』、とかなんとかという一話があった。種子島に漂流したポルトガル人の火縄銃を見よう見まねで地元の鍛冶屋かなんかが作ってみる、が、製造過程でどうしてもわからない箇所があって、それを聞き出すために鍛冶屋の娘がポルトガル人に売られていく、というお話だった、ような気がする。その後、戦国から織豊政権期の日本の鉄砲生産量は世界一?となったそうで、自動車産業をはじめとする製造業における「世界に冠たる産業立国ニッポン」の原型はこのころからあったんだよ!?とか言いたがる「司馬史観」好みのエピソードの一つであります。
 片手で拳銃をバンバン撃ってバンバン当たる、というのは映画の中のお約束で、数多の狙撃事件が示す通り、かなり標的に接近しないと当たらないものらしい。弾丸を発射させ、なおかつ標的に当てるのはじつはかなりムズカシイことなのではないか?拳銃とはようするに、火薬を爆発させ、鉛の弾を鋼鉄の筒から発射させるのだから、銃を暴発させず、かつ、爆発力を弾丸に伝え、さらに、まっすぐ飛ばす、というのはかなりの技術がいるものなのでしょう。鉄の硬度なんかも気になります。柔かったらダメだろうし、硬すぎたら暴発してしまいそう。

『大拳銃』は「拳銃」が主人公の映画であります。鋼鉄に穴を穿ち、弾丸をヤスリで磨き、火薬を詰る―地味で単調な作業の果てに、ようやく拳銃は完成する―。拳銃がズシリと「重い」のは、鋼鉄できているから、だけではない。トリガーを解き放った時、弾丸が飛び出すのか、拳銃そのものが爆弾となるのか―撃つ/撃たないを巡る駆け引きで魅せるアクションも素晴らしい。

その他、痛い!&主演の女子がかわいらしい『魔眼』、酒池肉林の地獄絵図を描いた紙芝居アニメ『人喰山』なども上映。映画祭は9月4日まで。チケットは模索舎で!!


8/22は boid presents 「真夜中の湾祭り」 。舎内でしょっちゅうサンプルをかけているのですが、「悩みはただ 習慣でしかない」(『湯浅湾』ー「傷口は傷口でしかない」) というフレーズには激しく身につまされる。「悩む」という生活習慣病に心身ともに浸食されがちなので、御歳52の湯浅学氏が時々間違えたり、足がつったりしつつも、元気にステージをこなす様にはほっとさせられます。大友良英氏も出演しておりました。湯浅湾のCD『』は模索舎でお買い求め下さい。


8/23   『ハリネコ”presentsたまちしゃfeat.さんごじゅなす2』  ヴォーカル&ピアノ・沙知氏が自由に歌い、ピアノを叩き、”クールなレフィティー”、ドラマー・諏訪創氏が応戦し、うんこ氏が舞う―ハリネコはフリーポップなのだ!!(by沙知)―ハリネコさんのCD『いつとなる』は模索舎で絶賛発売中です。…しかし、「うんこ」ってなんだよ!?MCでボーカルの方が「うんこちゃんが〜」を連発していたので笑いをこらえるのに苦労しました(MCでは模索舎の宣伝もして頂きました。ありがとうございました)。


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◆〈CD〉湯浅湾『港』

[2009年4月/全12曲/¥2,200+110] 《boid cdy-001》 制作・発売=boid













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●〈CD〉いつとなる/ハリネコ

[2009年3月/約40分/¥1,000] 発行=ハリネコ

ウメウメ書評――泳げるようになってから…

暑いので、ウメます。

…朝鮮では四種類の食糧供給源が並存することとなった。すなわち国家糧政(配給制度)、機関配給(勤めている企業や組織からもらえる分)、ジャンマダン(市場)、個人耕作地…である。ー『リムジンガン2号』p73ー

… つまり朝鮮に対する外国からの支援は、「食料へのアクセス権」の平等化という当面の課題(配給システムの復旧強化がその方策の一つ)と、朝鮮を市場経済体制に誘導して軟着陸させるという戦略的課題(米の市場流通を促す)とが、常に競合してしまうという矛盾にぶつかってしまう。ー『リムジンガン2号』p80ー

…注意が必要な点がある。それは、ここまで見てきたような外貨調達ビジネスの持続が、朝鮮における「資本の初期蓄積過程」だとする見解の危険性だ(韓国の研究者の中に散見される)。この見解は、朝鮮において「資本の蓄積」が改革開放の必要条件だとしながらも、外貨調達ビジネスそのものが、「われわれ式社会主義制度」と先軍政治が存続することを前提としていることを深く考慮していない。そんなやり方で資本が蓄積していくことによって、朝鮮の政治のファッショ化と思想文化の(外部社会との)異質化が、さらに深刻化するという視点が欠如していることである。ー『リムジンガン創刊号』p148ー

…いずれ現在の古い経済制度は全面的に崩壊するだろう。その時が歴史的な新しい秩序創造の大きなチャンスになるはずだ。このチャンスを、人民が豊かに暮らすことに貢献する正常な国家建設のために正しく利用するのか、それとも不正腐敗と権力ばかりが幅を利かせる世の中のために利用することに終わるのか、いまはその岐路にある。ー『リムジンガン3号』p112ー

『リムジンガン』に寄稿するどの識者も「市場経済」への流れは押しとどめようがない、ということで意見は一致しているようです。

 市場経済移行への予期は、市場という「ゲーム」における有利なプレーヤーになるべく、軍官僚/政府官僚を、不正蓄財へと、外貨調達へと駆り立てる。そしてそのためには現状のジャンマダン(市場)」/配給混合経済を維持しなければならない。不正蓄財は横流しする「闇市場」の存在がなくてはならないからだ。これはソ連/東欧の崩壊でもみられた現象で、市場経済では張り金は多ければ多い程いいし、勝ち組になれるだけの財とコネクションを形成しておくに越したことはない。のび太くんのように「泳げるようになってからプールに行く」つもりなのだ。

 のび太くんがプールに行かなくても困らないが、食糧が分配されないのは大問題だ。飢え死にしないためには“「食料へのアクセス権」の平等化"がなされなければならないが、同時に”市場経済への軟着陸”のため、各プレヤーヤーが「平等に」市場ゲームに参入するための財の適切な配分をも同時に達成しなければならない。

 そのためのにはさまざまな「矛盾」につきあたる。市場ゲームの適切な「初期配置」のためには国家権力を強化しなければならず、国家権力を強化は先述のように不正蓄財をもたらす。仮に綱紀が粛正され平等な分配が行われるとしよう。その場合、もはや市場は必要ではなくなる。プレイヤーの持ち物がほとんど同じだから。欲しいものがあるとすればそれは「舶来品」で、買うためには外貨が必要となる。そして国際競争力ある商品がなければ、外貨獲得の手段はこれまた不正蓄財、ということになってしまう。

 誰だって損はしたくない。市場による売買は双方の得になっているハズで、おのおのの効用を増大させている、だから社会全体の効用も増大するハズだ…。市場は財の適正な配分をもたらす、かのようにみえる。が、誰がどれだけ所有すべきか、については何も語らない。「だれもがケーキをより多く望むとすれば、どのようなケーキの配分もパレート最適である」。市場ゲームの初期配置を決定するのは無意識的な「原蓄過程」であるほかなく、意識的な市場開放はゲームの開始をいたずらに遅延させ、遅延は、混乱を生み、生活そのものを破壊していく。

のび太くんとはちがい、泳ぎ出すのは監視員も救助係もいるプールではなく、「新自由主義経済」という荒海なのだ。ーいったい誰が、責任を取れるのか?いな、無責任であるからこそ、「市場」なのだ。

 「北朝鮮」の抱えている難題は、市場経済が抱える難題でもある、のではないでしょう?。

(ややピント外れな「市場経済」問題についてばかり書きましたが、『リムジンガン』は後継車問題、核問題、脱北車問題、さまざまな市民の声…etcさまざまな問題をとりあげております)。

129770.jpg◆季刊 リムジンガン 日本語版 第3号[2009年春号]

[2009年2月/A5/220頁/¥2,838+142] 責任編集=石丸次郎 発行=アジアプレス・インターナショナル出版部




















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◆季刊 リムジンガン 日本語版 第2号[2008年夏号]
[2008年8月/A5/200頁/¥2,838+142] 特集=北朝鮮不動産取引の怪 ほか 編集・監訳=石丸次郎 発行=アジアプレス・インターナショナル出版部
















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◆季刊 リムジンガン 日本語版 創刊号[2008年春号]
[2008年4月/A5/247頁/¥2,838+142] 特集=ミサイルと核騒動 北の民衆はどう見たか ほか 編集・監訳=石丸次郎 発行=アジアプレス・インターナショナル出版部

ウメウメ書評ー横光利一と装丁

暑い。ウメウメに書評でも。


工業生産された機械と、横光の小説『機械』の両方が重層的に示す意味を図表表現しようとする意識が、創元社版『機械』での創作文字という表現方法を探らせたのではないかと思う。・・・つまりこの題字は内容としては完全に文章の延長上にあり、横光の表現の一部なのである。
(『本の手帳 6号』p15より)


  「ビニール」版満載のカートを傍らに、4枚/秒のスピードでつまみ上げ、時に止まり、低くうなり声を上げ(この間0.5秒!)、再びもとの作業に戻ってゆく。レコード盤 をプレスする機械さながらの律儀さである。「複製技術時代」においては人もまた「複製」だ。店内そこかしこに複製された「私」がいる・・・。

けだし、人は機械になりきれるものではない。「〜レーベルの〜番台」という無味乾燥なシリアル番号だけに欲情していられますか?え?・・・そ、そりゃまあ「完璧な計算で造られた楽園で ひとつだけ うそじゃない 愛してる」(by Perfume)があればそれにこしたことはないし・・・、できれば複製技術(クローン)で生まれた美少女(綾波レイとか)に「私が守るから」とか言われたら悪い気はしないよね・・・、というか、頼むから言ってくれよ!?な!?・・・が、悲しいかな、現実世界は散文で出来ている。「すべて高貴なものは、稀であるとともに困難である」(by スピノザ)のだ。

 なので、「人間の証明」のためにも?ときには「『ジャケ買い』しちゃったんだけど・・・」、と自嘲と自己愛の入り混じった複合的な微笑を口元にたたえつつ、独り言なのか話しかけているのか俄には判別しがたい乾燥した機械的な口調でつぶやいたりしなければ生きていかれない(れ足す言葉)のだ。それで「家に帰ったら同じのが3枚あったりする」となおのこと人間臭い。それを「腐臭」である、と嗤うそこのあなた!ーあなたこそ、永遠の今を生き続ける「複製」ではないのか?もう一度言う。「ジャケ買い」は「複製技術時代」における「人間の証明」、なのだ!

 ・・・とか横光利一が考えていたかどうかは知らない。が、横光利一は装丁にかなり興味を持っていたらしい(『本の手帳 6号』p6)。「未来派」や「構成主義」など当時のヨーロッパ前衛芸術運動に影響を受けている横光は、『機械』の装丁を佐野繁次郎託した。佐野繁次郎自身もかなり横光から影響を受けていたらしい。横光が死去した1947年以降、佐野の作風はがらりと変わったのだそうです、はい。

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●本の手帳 6号
[2009年3月/A5/64頁/¥1,000+50] 特集=本好きが語る本の蘊蓄詰め合わせ 発行=本の手帳社























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◆佐野繁次郎装幀集成 ――西村コレクションを中心にして
[2008年11月/B5/112頁/¥2,200+110] 編・著=西村義孝 構成=林哲夫 発行=みずのわ出版

ウメウメ書評ーー「その時、歴史が動いた?」

ウメウメに書評でも。


・・・アウシュヴィッツ起こったことについての説得的な虚構的描写を制作するよりも、アウシュヴィッツのドキュメンタリー作品を観るほうが楽なのは、なぜだろう?ここではアドルノを匡さなければならない。アウシュヴィッツ以後に不可能になったのは詩ではない。むしろ散文が不可能になったのだ。ドキュメンタリーの写実主義は、したがって、虚構に耐えることができなくなった人びとのためにこそある。(『ロベスピエール/毛沢東 ――革命とテロル』 著=スラヴォイ・ジジェク)
 
 実のところ、「髪切ったぁ〜?」と、タモリはそんなには言っていないのである。が、コージー冨田のモノマネ以来、「髪切ったぁ〜?」「痩せたぁ〜?」と、心ないトークをルーチンでこなしているタモリ以外、もはや考えられなくなってしまった。かつてアングラで先鋭的な芸風であったはずのタモリは魂を売り渡し、「アルタスタジオに住んでいる」かと錯覚させるほど日常生活にとけ込んでいる安全な芸人に成り下ってしまった- 「髪切ったぁ〜?」「痩せたぁ〜?」はそんなタモリを批判しているかのようにさえ思える。巧妙なモノマネは批評機能をもつのだ。


 文体模倣の名手、清水義範氏が司馬遼太郎文体で「猿蟹合戦」を描いた『猿蟹合戦とは何か』(『猿蟹合戦とは何か ――清水義範パスティーシュ100 一の巻』収録)は、本家の文体そのもの以上にその文体の特質を際立たせる。

ここで奇妙なものが登場する。
うしのくそ、
である。

 この改行がキモである。読者は、「うしのくそ」でコンマ何秒か読書の速度を止める。モーニング娘。における「。」がそうであるように。わざわざ改行し、読者を「うしのくそ」に注視させる親切さ。

 これはどこかで見たおぼえがある。読んだ、でなく、見た、のである。そう、テレビで見ているのである。司馬遼太郎の文体は、「その時、歴史が動いた」とか「プロジェクトX」とかの娯楽ドキュメント番組の構成に酷似している、というより、娯楽ドキュメント番組を司馬遼太郎が先取りしていたのである。

「その時歴史が動いた」バージョンの 「猿蟹合戦」を想像してみよう。松平アナ(キックのことは忘れよう!)-「ここで奇妙なものが登場します」、やや間があり、「うしのくそ、であります」という松平アナのナレーションとともに画面が切り替わり、「うしのくそ」がテロップ付きで映し出される。

 司馬遼太郎文体で特徴的なのは、時々、というか、かなり頻繁にうんちく語りが挿入されることである。『猿蟹合戦は何か』でも、

佐渡、
というところについて考えようとすると

という具合に突然うんちくをながながと語り始め、

が、これは余談である。

と独りよがりに終わらせてしまうくだりがある。余談かよ、と突っ込みたくもなる。
「その時、歴史が動いた」とかだと、再現映像のあいまにゲストの解説があるのだが、その部分に相当するだろう。
 「再現フィルム→語り」連鎖方式のバラエティだと「それでは映像をどうぞ!」でCMに行き、CM開けでまたもや「それでは映像をどうぞ!」が繰り返される。「民放の宿命」(by久米宏)なので仕方ないのかもしれないが、正直ウザイ。司馬遼太郎の『翔ぶが如く』なんかは新聞連載だったらしく、まとまった単行本で読むと章の変わり目の重複がひどく、正直ウザイ。こういうウザさこそがまさに司馬遼太郎の先駆性を示しているのではないでしょうか?

  柄谷行人が指摘するように、初期司馬遼太郎の歴史観なり視点は、坂口安吾の亜流にすぎない。司馬遼太郎が「戦後」を代表する作家たらしめているのは、戦後的「ねじれ」を体現するこの「文体」にこそあるのではないか?司馬遼太郎文体は、「物語」と「ドキュメンタリー」、「虚構」と「現実」の「あいだ」をすり抜ける。虚構を構築するわけでもなく、現実を受け入れるわけでもない。

  戦後的「ねじれ」知る上で司馬遼太郎の「龍馬がゆく」は必読文献である。が、未読である。正確にいうと読み始めて挫折した。竜馬がカッコよく描かれすぎて鼻白らむ、武田鉄矢の竜馬コスプレ(竜馬なのに博多弁!)がちらついて集中できない、などが主な理由であると思われるが、読むのが苦痛であった。

 なので、『龍馬がゆく』を読まずに批評する。

 『竜馬がゆく』の連載は1962〜66 年である。60年安保という「政治の季節」が終わり、代わって登場した「所得倍増」の池田〜「長期安定政権」佐藤内閣の時代だ。「薩長同盟」「海援隊」という竜馬の事蹟は、そのまま「米ソ冷戦」「貿易立国」を象徴している。「大政奉還」と「竜馬暗殺」が示しているのは「岸内閣退陣」と「安保闘争の敗北」であろう。

 だから竜馬の「夢」はそのまま「戦後日本」の「夢」なのである。ここでいう「夢」とは果たしえなかった「理想」という意味ではなく、「自己正当化」としての夢、もっというと、「虚言症」という意味での「夢」なのである。つまり日本は戦争に勝つつもりでいたのに敗れた、のであるが、敗けてよかった、かのように振る舞うこと、ついこの間まで植民地帝国であったくせに、「侘しく悲しい」「島国」が小舟で世界の荒波に船出するかのようなナルシズムに浸ること、「米ソ冷戦」を巧みに利用しながら独立をかち取り、そのうえ米国の軍事力を利用しながら経済発展に専念する道を合理的判断の上で主体的に選択したような振りをすること、我々は十分に闘った、岸内閣を倒した、それで十分じゃないか、と自らを慰め、生活から政治を変革する(「国民」は「春」「闘う」のだ!」)、という居直りを正当化すること-など、である。これはそのまま「自民党保守本流」「55年体制」の論理である、というよりそれを支えた「国民」の意識なのだ。 
 
 竜馬の英雄化(『竜馬がゆく』以前はそれほどメジャーでなかったらしい)とは、同時に西郷の否認、「革命」と「侵略」の象徴である西郷の抹殺なのだ。「西南戦争」は革命のやり直しであり、西郷の敗北とともに「御維新」は「反革命の時代」へと移行した。「55年体制」から「60年安保」いたる政治的変動もまた「革命のやり直し」であった。「左翼」にとってはGHQによる「上からの革命」のやり直しとして、「右翼」にとっては「自主憲法制定」として。「55年体制」は、自民党は「過半数はとれるけど、3分の2はとれない」、つまり、政権与党ではあり続けるけれども、憲法改正に必要な3分の2はとれない、という絶妙なバランスのうえに成り立っている。「改正条項も含めて護憲派だわな」という故・竹下登の名言がそれを象徴しているだ。「60年安保」の限定的勝利は「大衆的実力行動」を神話化してしまい、「社民」政党への現実的転換を遅らせてしまった、ともいえる。信じてもいない「暴力革命」の看板を下ろせないのだ。自民党は自民党で党是であるはずの「憲法改正」を論じられなくなってしまったのと同様に。

 「永続」に「革命」し続ける西郷と、船に乗って「逃走」する竜馬-。しかし、革靴を履いた竜馬の懐手にある拳銃は、ついに上野の西郷どんに向けられる-そして竜馬が「ぜよ!」と叫んで発砲し、西郷どんは「ごわす!」と呻き、そして、どう、と倒れる-

こんな「虚構的描写」を、司馬遼太郎は、けっしてしない。

(模索舎月報07年2月号の文章を大幅に加筆・修正したものです)。

 

ジジェク.jpg◆ロベスピエール/毛沢東 ――革命とテロル
[2008年5月/文庫/326頁/¥1,200+60] 《河出文庫 シ 6-1》 著=スラヴォイ・ジジェク 訳=長原豊/松本潤一郎 発行=河出書房新社

文庫オリジナル/目次:I 毛沢東---無秩序のマルクス主義的君主/II バティウ---世界の論理/III ロベスピエール---恐怖という「神的暴力」/IV バートルビー(1.グローバル金融の竹篦返し---《スター・ウォーズ》IIIの陥穽/2.しないことが好き---バートルビーの政治)/V 非常事態/ ほか













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◆プリズメン ――文化批判と社会
[1996年2月/文庫/511頁/¥1,350+68] 《ちくま学芸文庫 ア-11-1》 著=T.W.アドルノ 訳=渡辺祐邦・三原弟平 発行=筑摩書房

アドルノの最初の自撰論集、完全新訳。プリズメン――さまざまなプリズムとは、未来からの微弱な光を感じとる鋭敏な精神の探査器を暗示するのか。「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」という命題を含む「文化批判と社会」に始まり、シェーンベルク、ベンヤミン、カフカへと深まる12のエッセイ。












さるかに.jpg
◆猿蟹合戦とは何か ――清水義範パスティーシュ100 一の巻
[2008年12月/文庫/432頁/¥950+48] 《ちくま文庫 し-33-1》 著=清水義範 発行=筑摩書房

文体模倣の大模倣――著者自身が厳選したパスティーシュ100作品を6冊で刊行。表題作の他「猿取佐助」「パウダー・スノー」「笠地蔵峠」「女殺油地獄」「ティンカー・ベルの日記」など文体模倣の17作。自著解説付。

webをリニューアルしました。

素人の作成なので、何かと不備があるとは思いますが、ご容赦を。ie6とかだと読み込みが悪かったり、ずれていたりしますが、そこはご愛嬌、ということにしておいてください。しばらくはチマチマと手入れしていくと思います。
イベント『どうする結婚?どうやる葬式 反婚姻×葬式DIY』にさらにゲストの方々が参加して頂けることになりました。

追加ゲスト
大城慧之 (ゲイ・大学生)
大城さんからのコメント:セクシャルマイノリティのコミュニティ運動・ゲイリブ運動に取り組んでいます ( 同性愛嫌悪に反対するデモ主催−2009年5月17日−など。) 。 婚姻制度からはじかれているゲイの立場から、婚姻の問題を撃っていきたいと考えています。

神沢敦子(殺人イベント主催者) 神沢敦子ホームページ
イベント情報:「殺人2」  (神沢敦子企画)
日時】2009年7月4日(土) 開場18:00 開演18:30
【会場】阿佐ヶ谷ロフトA
【入場料】予約1000円 当日1200円(共に飲食代別)

日野直近 (靖国解体企画)
靖国神社は倫理的に耐え難い施設である。それは靖国が死人に口なしをよいことに、死者を利用して生きる者を脅しつける「追悼」の仕組みだからだ。(「靖国解体企画」webより)



「婚姻」は「愛」によるものなのか?近代的市民社会は合理的「主体」が合理的判断のもと、相互に契約することで成り立っている、とされている。だが、近代的市民社会は「自由」でありすぎる。開かれすぎた空間は幾何級数的に選択の複雑性を増大させ、あらゆることが可能であるという「ドストエフスキー的不安」から逃れることが出来ない。だから人は無根拠な、情熱としての「愛」を求めるのだ。「愛」は制度を破壊するようでいて、実のところ社会システムの複雑性を縮減しつつ保持する「メディア」なのだ。誰を愛するかはあなたまかせ、というのはタテマエで、報償/懲罰コードによって巧みに正規分布的秩序へと誘導される。「婚姻制度」は「多様な性」へと開かれつつある。が、しかし、「婚姻」「カップル」という対の契約関係はシステムの罠から逃れうるのか?
 
「殺すな!」という倫理的/道徳的命令はあらゆる社会/共同体の根幹をなす、ようにみえる。殺すことを許容するいかなる社会/共同体もありえない。 はたしてそうだろうか?社会は「生者」の関係のだけで成立しているのではない。社会は絶えず「死者」を呼び覚まし、既に存在していない彼/彼女らと生けるわれわれを結びつける。「靖国神社」は死者の追悼/慰霊によって人びとを「殺人」へと駆り立てる。だとすれば、人を殺し、殺させる社会/共同体への抵抗、異議申し立ての手段としての、「殺人」はありうるのか?


できるだけ、来場者とともに語り合えるイベントにしていきたいと考えております。

その他出演
桐田史恵
「陽のあたる毛の会」。昨年、小冊子『婚姻制度を知っていますか』を発行。京都にて反婚パレードを行うなど、契約や制度としての結婚とは何かを知らしめる活動を行う。

おもだか大学
喪主のための実用誌『フリースタイルなお別れざっし 葬』編集人。葬儀社勤務時代の経験をもとに、素人でも自力で出来るお見送りを提案。(一号二号とも模索舎でおとりあつかいしています)。

司会:
ペペ長谷川(だめ連/『男女間の友情』/『あかね』木曜スタッフ)

5月24日(日)午後2時から
場所:素人の乱12号店 JR中央線高円寺駅下車徒歩7分
杉並区高円寺北3丁目8-12 フデノビル2F 奥の部屋
カンパ+ワンドリンク
主催:模索舎
消えるか?「新宿二丁目」日時:3月13日(金) 18:00開場 19:00開演
まで、関連する?ことどもを、思いつくままに、綴っていくつもりです。悪文駄文ですが、ご容赦のほどを。よろしくお付き合い下さい。


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     /⌒!|  =彳o。ト ̄ヽ     '´ !o_シ`ヾ | i/ ヽ !    ウホッ! いい男・・・
     ! ハ!|  ー─ '  i  !    `'   '' "   ||ヽ l |
    | | /ヽ!        |            |ヽ i !
    ヽ {  |           !           |ノ  /
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 2ch など、ネット掲示板でおなじみのAAである。元ネタは「やまじゅん」こと山川純一作『くそみそテクニック』だそうだ。模索舎にて発売中、と言いたいところだが、残念ながら、模索舎ではお取り扱いしておりません。本屋のブログなのに自分とこで販売していない本を紹介しっぱなし、ではいけない。模索舎で販売中のもので山川純一作品が掲載されているものとしては、『「薔薇族」の人びと  ――その素顔と舞台裏』と『季刊薔薇族』392、393、394、396号(それぞれ税込900円)があります。

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図は392号です。

 
 


 山川純一氏は『薔薇族』に作品を発表していた幻の漫画家である。というより、当時は『薔薇族』ぐらいしか発表する場も無かったのだが。『薔薇族』初登場は82年のこと。当時の『薔薇族』スタッフには少女漫画風の絵柄が不評だったらしい(『「薔薇族」の人びと』より)。

もう一つ、おなじみのAAから。

   
r;ァ'N;:::::::::::::,ィ/      >::::::::::ヽ
.      〃  ヽル1'´        ∠:::::::::::::::::i
       i′  ___, - ,. = -一   ̄l:::::::::::::::l
.      ! , -==、´r'          l::::::/,ニ.ヽ
      l        _,, -‐''二ゝ  l::::l f゙ヽ |、 ここはお前の日記帳じゃねえんだ
        レー-- 、ヽヾニ-ァ,ニ;=、_   !:::l ) } ト
       ヾ¨'7"ry、`   ー゙='ニ,,,`    }::ヽ(ノ  チラシの裏にでも書いてろ
:ーゝヽ、     !´ " ̄ 'l,;;;;,,,.、       ,i:::::::ミ
::::::::::::::::ヽ.-‐ ト、 r'_{   __)`ニゝ、  ,,iリ::::::::ミ
::::::::::::::::::::Vi/l:::V'´;ッ`ニ´ー-ッ-,、:::::`"::::::::::::::;゙ ,  な!
:::::::::::::::::::::::::N. ゙、::::ヾ,.`二ニ´∠,,.i::::::::::::::::::::///
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  模索舎ブログ『Voice Of Mosakusha Online』でもそのハイセンスなフレーズを説明文に借用しております。このAAの元ネタは田亀源五郎作『俺の先生』という作品なんだそうです。模索舎にて発売中、と言いたいところだが、残念ながら、模索舎ではお取り扱いしておりません。本屋のブログなのに自分とこで販売していない本を紹介しっぱなし、ではいけない。模索舎で販売中のもので田亀源五郎作品は以下のものがあります。

◆日本のゲイ・エロティックアート Vol.1 ──ゲイ雑誌創成期の作家たち
[2003年12月/A5H(箱入)/192頁/¥4,500+225] 編=田亀源五郎 訳=北島悠司 発=ポット出版

◆日本のゲイ・エロティックアート Vol.2 ――ゲイのファンタジーの時代的変遷
[2006年8月/A5H箱入り/223頁/¥4,500+225] 編=田亀源五郎 訳=北島悠司、ブル−ス・ガードナー、トマス・ハーディ 発行=ポット出版

◆田亀源五郎【禁断】作品集
[2007年3月/A5/286頁/¥2,400+120] 著=田亀源五郎 編=沢辺均、佐藤智砂 発行=ポット出版

◆君よ知るや南の獄 上
[2007年12月/A5/312頁/¥2,500+125] 著=田亀源五郎 発行=ポット出版
◆君よ知るや南の獄 下
[2007年12月/A5/408頁/¥2,500+125] 著=田亀源五郎 発行=ポット出版

田亀2.jpg
田亀1.jpg
 2chなどの匿名掲示板において、『ゲイマンガ』出典のAAの引用され、偏愛され続けているのはなにゆえなのだろう?もちろん、『ドラえもん』や『スラムダンク』など、メジャーマンガが出典である秀逸なAAもたくさんある。
出典がメジャーであればあるほど、そのイメージを多くの人々が「共有」しうるはずだ。
 けれども、メジャーマンガのパロディを共有するだけではあきたらないのが匿名掲示板ユーザーなのではないか?なにごとかを他者と「共有」したい、他者からの承認を渇望している、けれども「マスカルチャー」を、「孤独な群集」として受動的に「共有」することにはあきたらないのだ。「少数派」「負け組」としての共感と、こんな負け犬どもと一緒にされたくない、という「鼻持ちならない自尊心」-匿名掲示板的共同性はそういう「二律背反」を抱えている。

 外山恒一氏は都知事選政見放送においてこの構図を戯画的に描き出している。

諸君。私は諸君を軽蔑している。
このくだらない国を、そのシステムを、支えてきたのは諸君に他ならないからだ。
正確に言えば、諸君の中の多数派は私の敵だ!
私は、諸君の中の少数派に呼びかけている。
少数派の諸君。今こそ団結し、立ち上がらなければならない。

 この二律背反こそ、匿名掲示板において『ゲイマンガ』出典AAが愛好される秘密を解く鍵がある、のではないか?すなわち、「非モテ男子」共同体における「同性愛」への「二律背反」的感情は、「ホモソーシャル」空間における「ホモフォビア」として分析しうる、のではないだろうか?(たぶん?続く?かも?)

 山川純一氏表紙イラストの
消える「新宿二丁目」 ――異端文化の花園の命脈を絶つのは誰だ?も模索舎にて好評発売中です。イベントには山川純一氏を世に送り出した薔薇族編集長・伊東文学氏も出演いたします。「やまじゅん」貴重なエピソードが聞けるかも?
消えるか?「新宿二丁目」日時:3月13日(金) 18:00開場 19:00開演
まで、関連する?ことどもを、思いつくままに、綴っていくつもりです。悪文駄文ですが、ご容赦のほどを。よろしくお付き合い下さい。
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 頑なにブログデビューを拒否し続けている?模索舎の永遠の新人・カシマに勧められて『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲』(監督:原恵一)を観る。が、すでに「名作」としての評価されている作品のようなので、細かい批評は控えます。ここは書店のブログ、「おまえの日記帳ではない」ので、売っていない商品についてぐずぐず話をしているわけにはいかないのだ。

 そいうわけで、気づいたことを二、三。柄谷行人は戦前に書かれた坂口安吾の『日本文化私観』について、「戦後に書かれたものだと思っていた」といったことを述べています。『オトナ帝国の逆襲』の公開は2001年。2001年、というのがオドロキで、『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005年公開)以降のいわゆる「昭和レトロブーム」以降の作品ではないのだ。

 もっとも、マンガ『20世紀少年』連載開始が1999年、「二千年紀(ミレニアム)」に前後する時期にもいわゆる「昭和レトロブーム」は存在し(以後便宜的に「第一次昭和レトロブーム」)、『ALWAYS 三丁目の夕日』以降を「第二次昭和レトロブーム」と呼んだりすることもあるようです。もっとも「〜レトロブーム」が存在しない時代はないのだが。

 で、「第一次ブーム」の場合は、なんというか、実感的なと言うか、体感的な、『オトナ帝国の逆襲』で描かれているように「におい」のようなものに裏打ちされていたような気がします。「第二次ブーム」になると、どこか「脱臭」されており、教訓的で、空想的で、空想的であるが故に無責任に美化できる、というか。体感的実感的には例えば「元禄文化」に抱くような距離感があるのに、そこに無理矢理教訓的道徳的なもの読み込んでいるというか。

 『オトナ帝国の逆襲』で描かれる「昭和レトロ」は、自分にとっては実感的に懐かしがれるものと、「歴史」として身につけてた知識でしかないものとが混在している。どだい、「昭和」をひとくくりにして懐かしがれ、というのは無理というものだ。けれども、「りんごの唄」から「竹の子族」までをひとくくりに「昭和レトロ」として消費してしまう、そのことによって「昭和」という歴史が閉じられ、物語として意味を付与されていくのでしょう。もちろん「第一次ブーム」のころからすでに「物語化」の兆候はあったのですが。

 『オトナ帝国の逆襲』は「第二次ブーム」において完結することになる「物語化」を予見しており、あらかじめそれを批判している作品、ではないでしょうか?

 で、映画なんかを観ると、とりあえず他人の感想が聞きたくなる。適当にググり、適当にヒットしたブログの感想を読む。けっこう鋭いとこをついている、「素人」でも批評力のある人はたくさんいるのだな、と感心し、つぎのブログに移る、と、「素人にしてはよくできた批評だとおもっていたら岡田斗司夫氏のブログだった、最近は素人といわゆるプロとの境界がアイマイだよね」、といったことが書いてある。もしや、と思いさっきのブログに戻ると案の定、岡田斗司夫氏のブログだったのです、はい。
 
 岡田斗司夫氏はブログで『サザエさん』について言及しています。岡田氏の論点にはここでは触れません。私見では『サザエさん』はレトロに「なったにもかかわらず」、あるいはレトロに「なったがゆえに」未来永劫に続くかと思わせるような長寿番組になった、のではなく、そもそも「はじめから」レトロなのです。以前ブログに書いたことなので興味のある方はこちら

書店のブログなので最後に宣伝を!!

三島由紀夫、美輪明宏、青江のママ、カルーセル麻紀、赤塚不二夫、タモリ、おすぎとピーコ・・・、とくに「青江のママ」という名を聞くのは久しぶりな気がする。
消える「新宿二丁目」 ――異端文化の花園の命脈を絶つのは誰だ?(模索舎にて好評発売中)は、風俗史、芸能史、「昭和レトロ」の本としても楽しく読めます!是非ご一読を!!そのうえでイベントに参加頂けると幸いです。入場料も500円引きになります、はい。
「フランシーヌのばやいは」(by渥美清)と粋にいねせに鼻歌を歌いつつ、トークイベント「消えるか?新宿二丁目」(3月13日金)においでください。
消えるか?「新宿二丁目」日時:3月13日(金) 18:00開場 19:00開演
まで、関連する?ことどもを、思いつくままに、綴っていくつもりです。悪文駄文ですが、ご容赦のほどを。よろしくお付き合い下さい。
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前回お知らせした通り、今回は『
消える「新宿二丁目」 ――異端文化の花園の命脈を絶つのは誰だ?』(模索舎にて好評発売中)の著者・竜超(りゅうすすむ)さんのおすすめ本をご紹介します。

竜超が選んだ「ゲイ界の実相・傑物・明暗を知るうえで有用な12冊」
〜なぜに私はこの本を推したのか〜

◆『薔薇族』の人びと  ――その素顔と舞台裏
[2006年7月/四六H/317頁/¥2,000+100] 著=伊藤文學 発行=河出書房新社


人びと.jpg……希代の名プロデューサーとしての伊藤文学について知ることのできる一冊。これだけの異才・鬼才の集まるメディアを創出できた氏は、まさに“場”作りの天才であるのだ!
















◆『薔薇族』編集長
[2006年10月/文庫/238頁/¥571+29] 《幻冬舎アウトロー文庫 O−77−1》 
著=伊藤文学 発行=幻冬舎

薔薇族編集長.jpg……日本初のゲイマガジンの創刊は、世間の凝り固まった偏見に風穴をあけることに等しい。次々と立ちはだかる難関をものともせず、様々な“日本初”を送り出した伊藤文学は戦後出版界の怪人である!
















◆内藤ルネ自伝すべてを失くして――転落のあとに
[2005年7月/四六判/231頁/¥1,800+90] 著=内藤ルネ 聞き書き=本間真夫 加筆編集=本間真夫 発行=小学館クリエイティブ

ルネ.jpg……インタビューを計画中に亡くなってしまわれた方。伊藤文学氏が「やさしい人だった」と述懐する数少ないゲイの方。億単位の財産を詐取されてしまった不幸も、この方にかかると決して陰惨には感じられません。















◆少年愛者――神話とタブーに包まれた彼らの本当の姿を探る
[2003年2月/四六判/222頁/¥1,600+80] 著=谷口玲 発行=柘植書房新社

……はっきり云って消化不良感の残る本です。あえて取り上げたのは、当事者界では忌避されがちで、まともに論じられないテーマだから。でも、これはゲイにとって、避けては通れない問題なのです。

◆男と男の恋愛ノート ――恋と暮らしと仕事のパートナー・シップ
[1994年/四六判/224頁/¥1,748+87] 著=簗瀬竜太/伊藤悟 発行=太郎次郎社

……美点も恥も包み隠さず、これほど壮絶に、赤裸々にパートナーライフについて綴った本を私は他に知りません。これを読めば、甘ったるい“ふたり幻想”なんかにはもうダマされない!

◆常識を越えて ──オカマの道、七〇年
[2002年6月/A5/256頁/¥2,000+100] 著=東郷健 発=ポット出版

……「おかまの東郷健」として有権者の度肝を抜いた泡沫候補の大御所。過去の著書のリメイク版ですが、元本では伏せられていた固有名詞が明かされたりしていて、時代の流れがひしひしと。

◆回想回転扉の三島由紀夫
[2005年11月/新書/172頁/¥710+36] 《文春新書 477  》 著=堂本正樹 発行=文藝春秋

……三島由紀夫を「兄」と慕う著者だから書ける生々しい回想録。ここに綴られたフェティシズムの傾向を知れば、あの“自決”もまた素直にうなずける感じです。

◆紫の履歴書
[2007年3月/四六判/463頁/¥2,000+100] 著=美輪明宏 発行=水書坊

紫.jpg……まだ十代の頃に読んで、とにかく感動した本。“孤高”というものの尊さを、私はこの一冊を通じて知った気がします。比喩ではなく、実際に「石をぶつけられる」存在って、そうそうあるもんじゃない。













◆篦棒な人々 ──戦後サブカルチャー偉人伝
[2007年12月/文庫/357頁/¥850+43] 編/著=竹熊健太郎 発行=河出書房新社

……“戦後挿絵界の巨人”であった石原豪人が、なぜ「林月光」として『さぶ』誌に降臨し、ホモ画の大家となったのか?
についてわかる貴重なインタビュー収録。氏一流の「女とホモの蜜月論」 は必読で
す。

◆謎とき・坊っちゃん ――夏目漱石が本当に伝えたかったこと
[2004年7月/四六判/239頁/¥1,600+80] 著=石原豪人 発行=飛鳥新社

……怪人・伊藤文学氏と並ぶ、ゲイ出版界の“怪紳士”として知られる石原氏の、ぶっとんだイマジネーションが炸裂する一冊。国民的明朗文学「坊ちゃん」は、じつは元祖ボーイズラブ小説だった!?


●林月光画集 月光秘宝館
[2005年4月/A5/44頁/¥850] 著=林月光編=中山亜弓、大西祥平 発=タコシェ

月光.jpg……石原豪人名義の画集や展示ではカットされがちな「ゲイ物」「SM物」に特化した貴重な画集。私は以前、氏のお宅で遺された膨大な原画たちと格闘したにですが、質・量ともに他の追随を許さぬものがありました












◆ニューヨーク・ニューヨーク 1 <コミック>
[2030年03月/文庫/354頁/¥600+30] 著=羅川真里茂 発行=白泉社
◆ニューヨーク・ニューヨーク 2 <コミック>
[2003年6月/文庫/370頁/¥600+30] 著=羅川真里茂 発行=白泉社


ニューヨーク.jpg……生身の当事者を知らない女流作家がイマジネーションで紡いだゲイカップルの恋物語。と書くと、薄っぺらなBLっぽく聞こえますが、それでここまで描けたのはスゴイ、の一言。最終話のラストで、私は息が詰まりかけました。





映画『おくりびと』の大ヒットで葬式ブーム?

 映画『おくりびと』(滝田洋二郎監督)が大ヒットしております。外国の、というか欧米の権威に平伏してしまう日本的メンタリティ、についてはおいといて、今や右も左も「葬式ブーム」なのです。もっとも、人類史上、葬式が「ブーム」でなかった時代など存在しないのです。長期的にはみんな死ぬのだIn the long run, we are all deadbyケインズ
 
そんな
「葬式ブーム」のただ中、注目のアイテムがこちら!

日本唯一の(たぶん)葬式専門ミニコミ『葬 第一号
フリースタイルなお別れざっし440円であります。

『葬』.jpg
編集長のコメント:葬儀素人に向けた、フリースタイルなお別れをするための雑誌です。巻頭白黒特集の他に喪服のキホン、超簡単♥プチ祭壇づくり、遺体搬送マニュアル、火葬場ルポ・漫画・小説と、お役立ち情報満載。いつでも喪主になれます。








※第二号は四月発行予定、だそうです。


オサレでかつ、実用的な一冊。ぜひ模索舎でお買い求めください。

消えるか?「新宿二丁目」日時:3月13日(金) 18:00開場 19:00開演
まで、関連する?ことどもを、思いつくままに、綴っていくつもりです。悪文駄文ですが、ご容赦のほどを。よろしくお付き合い下さい。
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3月2日、
消える「新宿二丁目」 ――異端文化の花園の命脈を絶つのは誰だ?』(模索舎にて好評発売中)の著者・竜超(りゅうすすむ)さんが来舎いたしました。竜さんが副編集長をなさっている『薔薇族 399号』の納品に来て頂いたのです。

 初代『薔薇族』が2004年に休刊して以来、復刊と休刊を繰り返してきた『薔薇族』ですが、現代は第四期目。竜さんによると、第四期の編集方針は「一号で一年分ずつ、昭和期のゲイ史を振り返っていく歴史検証ムック」(模索舎月報09-2)なのだそうです。

残念ながら、次号通巻400号で『薔薇族』は最終号となります。歴史の証人になるべく、ぜひ模索舎にてお買い求めください。


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●季刊 薔薇族 第399号(200年・冬号)

2009年1月/B5/56頁/¥857+43] 
特集=昭和48年 3年目の本気 編/発=伊藤文学/竜超






















 竜さんとポット出版さんにご協力いただき、ささやかながら『消えるか?「新宿二丁目」』関連書籍コーナーを設けております。次回からおすすめ竜さんとポット出版さんのおすすめ本を紹介していきます。

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消えるか?「新宿二丁目」日時:3月13日(金) 18:00開場 19:00開演
まで、関連する?ことどもを、思いつくままに、綴っていくつもりです。悪文駄文ですが、ご容赦のほどを。よろしくお付き合い下さい。
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2月25日、「ゼロ年代批評night」(阿佐ヶ谷Loft A)というイベントにいってきました。『新文学』の方に教えて頂いたのです。「ゼロアカ道場」で四次審査を勝ち抜いた(一人は三次で落ちた)方々のトークイベントで、「ゼロアカ道場」とは東浩紀プロデュースによる若手批評家育成企画で、最終審査を通過すると講談社BOXから初版一万部で著作デビューの権利が与えられるのだそうです。昔のモ娘。オーディションみたいなヤツです。

『消えるか?「新宿二丁目」』の会場はネイキッドロフトなので、同じロフト系列のトークイベントを観ておくこと、
『消えるか?新宿二丁目』宣伝すること、ミニコミの営業、が目的でありました。会場は盛況、観客70人くらい?おりました。『消えるか?「新宿二丁目」』もこのぐらい動員したいです。というか、そのための営業なのだ。

 「ゼロアカ道場」第四次審査の課題は「文学フリマにミニコミを出品する」(昨年11 月)というもので、そのミニコミを模索舎でも取り扱えたらいいかも、などというスケベ根性、コバンザメ商法まるだしの営業目的の方は、講談社の許可なく販売できないのだそうで、断念。考えればあたりまえ、というかそのぐらい調べとけよ?

 会場で見せて頂いた彼らのつくったミニコミは勝ち抜いただけあって、やはりよくできている。が、彼らはたとえ「プロデビュー」できなくても、ミニコミをつくり続けていくのだろうか?つくることがあるなら模索舎に納品してくれるのでしょうか?というか、つくったらぜひ模索舎に納品してね!

 ブログが普及し、「一億総批評家」と言われる時代、はたして批評とはなにか、という根本的な問題について、熱く、ときに斜に構え、韜晦しつつ、議論白熱、いろいろと勉強させて頂きました。

 会場からの質疑応答で、やはりというか、問題にされたのは、「なぜブログでは満足できないのか」「デビューすることで何がしたいのか」ということです。批評とは何か、批評の意義とは何か、についてはわかった、わかったけれども、ではなぜ、ブログではダメなのか、なぜ大手出版社からデビューしたいのか?権威が欲しいの?名誉が欲しいの?と問うことは、そのまま問いかける側に対して、ルサンチマンや嫉妬ややっかみではないのか、という問いを誘発し、不毛な議論に落ちいてしまいがちなのであります。

 が、それを承知で話を続けます。「なぜブログでは満足できないのか」「デビューすることで何がしたいのか」という問いに対する出演者の応えはそれぞれそれなりに納得できるものでした。印象に残ったのはある出演者が「自分はカネも名誉も欲しい、ピラミッドを奴隷につくらせる自分を想像するとワクワクする」との発言である。
 
 会場には出演者のプロフィールが書かれた冊子が配られたのだが、「最終学歴」という項目がある。批評家にとって「最終学歴」なるものがどれほど重要なのでしょうか?グラビアタレントのプロフィールにBWHがなくてはならないほどには必要でないかもしれないが、野球選手の出身校程度には有益な情報かもしれない。総合格闘技選手の出身競技とかね。どこそこ大学の誰々ゼミの出身、とかいう情報はありがたいと言えばばありがたい。

 が、「最終学歴」項目に「そのようなセクハラな質問には答えられない」と回答したのが一人いた。壇上で「カネも権力も欲しい」と応えたまさにその人である。一人いた、というべきか一人「しか」いなかった、と言うべきか?「批評家のプロフィールにとって『最終学歴』とはなにか?」「『最終学歴』という項目をついうっかり入れてしまうのはなぜなのか?」
データベース型』キャラ等の概念を自在に駆使できる彼らが『最終学歴』にマジレスしてしまうのはなぜなのか」ということについて、彼らは批評的であり得たのか?「批評は創作と同じ」と言いながら「最終学歴」をでっち上げるくらいのトンチが働かないのはなぜか?「権威がほしければ、こんなふざけたペンネームはつけない」と語っていた方も、やはり「最終学歴」にはマジレスしてしまっている。問いかける側にルサンチマンや嫉妬がない、といえばウソになろう。が、それを差し引いても会場から「権威主義」「上昇志向」を執拗に指摘されるのも、故なきことではない気がしてしまうのです。

 気が弱いので言い訳を。
「権威主義」「上昇志向」を糾弾したいわけではありません。私自身、「セクハラだ」という指摘?がなければ「最終学歴」を多分スルーしていたはずです。「気づかないこと」を「気づかせること」、「気づかないこと」そのものを問うこと、それこそが「批評」なのだーそんなふうに教えられた気がしたので、私も「批評」とかしてみたかったのです、はい。

 それから、会場には「おやすみアンモナイト 貧乏人抹殺篇/貧乏人逆襲篇」監督・増田俊樹さんも来ており、予告編が上映されました。「ゆうばり国際ファンタスティック映画祭」フォーラムシアター部門にて公開され、スカパー!の放送もあるそうです。「ピラミッド」発言をした方も出演されております。

 書店のブログなので最後に宣伝を!!

消える「新宿二丁目」 ――異端文化の花園の命脈を絶つのは誰だ?』(模索舎にて好評発売中)にも「リアルコミュニティよりもコミュ!mixiの麻薬的魅力」という項目があります。著者の竜超氏は「新宿二丁目」およびゲイ文化にとってもっとも新しく、かつ強力なライバル」として「mixi」を挙げています。mixiなどのブログは「ミニコミ文化にとってもっとも新しく、かつ強力なライバル」、そんなふうに考えていた時期が私にもありました。しかしながら、「ゼロアカ道場」イベントの熱気をみるにつけ、やはりブログでは何か物足りない、との思いを抱えている人はたくさんいて、そのなかからミニコミをつくり始める人が必ずいるのだ、と再確認した次第です。
  本書は「ゲイとオタク、それぞれの世代間闘争」なんて項目もあり、「オタク」文化論としても面白く読めます。是非ご一読を!!そのうえでイベントに参加頂けると幸いです。入場料も500円引きになります、はい。「もともとはリアルからの逃避場所がバーチャルだったはずなのに、いまやリアルがバーチャルに疲れた人のシェルターになる」(本書より)-ブログに疲れたら、3月13日はぜひトークイベント「消えるか?新宿二丁目」においでください。


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[2009年3月/四六判/276頁/¥2,500+125] 著=竜超(りゅうすすむ) カバー装画=山川純一 本文イラスト=ソルボンヌK子 ポートレート撮影=櫻田宗久 発行=彩流社

◎消えるか?「新宿二丁目」への道程 その3

入荷しました!!

◆消える「新宿二丁目」 ――異端文化の花園の命脈を絶つのは誰だ?

[2009年3月/四六判/276頁/¥2,500+125] 著=竜超(りゅうすすむ) カバー装画=山川純一 本文イラスト=ソルボンヌK子 ポートレート撮影=櫻田宗久 発行=彩流社

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模索舎プレゼンツ
トークイベント
消えるか?「新宿二丁目」

日時:3月13日(金) 18:00開場 19:00開演
場所:ネイキッドロフト
新宿区百人町1-5-1百人町ビル1F TEL:03-3205-1556)
料金:1,000円+1ドリンク〜


模索舎か、当日会場で

『消える「新宿二丁目」』

お買い上げの方は

入場料 1000円⇒500円!!






★模索舎にてご購入の方には
こちらの⇩割引券をお渡しします。
※模索舎スタンプ・購入された日付のあるスリップです。

スリップ2.jpg
★当日会場受付で割引券をお渡し下さい。
入場料1000円⇒500円になります!!



◎消えるか?「新宿二丁目」への道程 その2

消えるか?「新宿二丁目」日時:3月13日(金) 18:00開場 19:00開演

まで、関連する?ことどもを、思いつくままに、綴っていくつもりです。悪文駄文ですが、ご容赦のほどを。よろしくお付き合い下さい。


消える「新宿二丁目」
――異端文化の花園の命脈を絶つのは誰だ?

著=竜超  発売 =彩流社   2500+税

 発売日が決まりました。
発売は2月25日です。

 イベントのポスターができました。新人(とは言ってもすでに入舎3ヶ月は経っているのだが)の かしま 、が作成しました。そのうちブログデビューするはずです。

広告カラー.jpg
































 イメージフォーラムの方が来舎。『日本性愛映画史1965-2008』のチラシを持ってきてくれたのだ。

ime-ji.jpg 「ゲイカルチャー」ものではどれがおススメですか、と尋ねたところ、

プログラム16『ぼくらの季節』(監督 広木隆一) 
プログラム27 『あなたがすきです、だいすきです』(監督 大木裕之)

を挙げて頂きました(解説・上映時間等はこちら)。
Dさん、ありがとうございました。見に行きたいです。









◎消えるか?「新宿二丁目」への道程 その1

「森君、G1初優勝、おめでとう」
などと書いてヒット数をあげるような姑息な手段だけはとりますまい。

ということで、

消えるか?「新宿二丁目」日時:3月13日(金) 18:00開場 19:00開演

まで、関連する?ことどもを、思いつくままに、綴っていくつもりです。悪文駄文ですが、ご容赦のほどを。よろしくお付き合い下さい。


・・・ネット上では大人げない振る舞いをする人々をさして「厨房』と呼ぶが、対して現実の中学生を「リアル厨房」とよぶように、ネット上では本物の中学生の方を、スタンダードならざるものとして有徴化する。だから「リアルゲイ」という言葉を聞いたときは衝撃的だった。
 (『ユリイカ 2007年6月臨時増刊号 腐女子マンガ大系』「ゲイに共感する女性たち」=石田仁)

 やおい/BL業界では現実のゲイは「リアル」とあえて註釈をつけなければならないほど、全く興味を持たれていないのである。そして、興味を持とうがもたれようが、「リアルゲイ」は存在し、生活している。90年代のゲイブーム以降、現代社会は「ゲイ」に寛容になった、ようでもある。その一方で、『薔薇族』の万引きで補導された高校生が飛び降り自殺した事件(「『薔薇族』の人びと 」(著=伊藤文學)は昔話ではない、「リアルゲイ」たちのおかれた立場は現代でもやはりマイノリティのままである。

だとすれば、

やおい/BLにおける「同性愛的」表現は「リアルゲイ」差別であるのか?

ということは、やはり問われなければならない、のではないか?

「わたしがショックを受けたのは、あなたがやおいを自分に関係あることとして受け止めていることでした」
「ゲイの人たちがやおいの本を読むということは、私の世界に土足で踏み込まれたような気がするのです。」
(『クィア・スタディーズ '96 ――クィア・ジェネレーションの誕生』-「少女マンガとホモフォビア」=佐藤雅樹)

 10年以上前の「やおい論争」における「やおい女子」の反応である。90年代の「ゲイブーム」がフェミニズムやセクシャリティ論とつねに緊張関係にあったのとは異なり、現代のやおい/BLはあえてこの「無関心」を前面に押し出しているのではないか、と石田仁氏は分析している(「ゲイに共感する女性たち」)のだが、現在の腐女子たちはこの傾向をよりいっそう増幅させている、ということなのだろうか?

 腐女子の描く「ゲイ」たちは全くの空想の産物-たとえば「ドラえもん」のような-ものであがゆえに、「リアルゲイ」を差別していないし、彼らから糾弾されるいわれはない、「土足で踏み込むな」というリクツになるワケです。が、はたしてそうなのか?現実である、空想である、ということはそれほど重要なのではない。差別とは、現実を反映していない「ステレオタイプ」の強制によって権力関係を維持/強化する、ということにある、とすれば、「ステレオタイプ」はむしろ現実の対象を反映していないからこそ機能するのである。「ステレオタイプ」が映し出しているのは差別される「対象」ではなくて、「差別関係」そのものなのである。「ステレオタイプ」は現実世界にその対象をもたないからこそ、逆説的に現実世界に生き、存在している「対象」を傷つけることができるのだ!

 よくいわれているように、やおい/BLにおける「少年愛」とは少年「を」愛する、のではなく、少年「が」愛するのである。愛する主体は腐女子ではなく、あくまで少年なのである。より正確に言うと「少年が少年を愛する様を愛する」のである。読者という主体はからっぽなままだ
(「密やかな教育 ――<やおい・ボーイズラブ>前史」著=石田美紀)。

くりかえすと、「差別」とは、現実世界には対象をもたないステレオタイプによって権力「関係」を再生産するものだ。ちょうど、やおい/BLに描かれる少年が現実世界には存在しないように。差別が「対象」そのものではなく、権力「関係」の維持/強化に関わるように、腐女子たちは少年が少年を愛する「関係」を愛するのだ。読者が「からっぽ」な主体であるように、差別する側は常に「からっぽ」な主体であり、あらかじめ免罪されているのだ。二つの不在-差別される対象の「不在」と、差別する主体の「不在」-によって。

 対象そのものを愛する、のではなく、対象の関係を、その外側から眺めていたい、というのがやおい/BL的愛であるなら、それはあきらかに社会関係からの後退を志向している、というより、社会関係からの脱却を志向するからこそやおい/BLを愛好するのではないか。

 とすれば、あなたの主観的意図からは全く関係なく、あなたの発言、表現物、いな、存在そのものがつねに/すでに社会関係に巻き込まれている、そして、あなたの愛好するやおい/BL的表現はステレオタイプに多かれ少なかれ依拠している、そしてそれは差別関係を内包しているのである、ゆえに、あなたには差別的である、という問いかけに応答すべき責任があるのではないか?

 社会関係からの逃避を求めている彼女らに社会関係が存在すること、そしてそこから逃げられないこと、を説教することにどれほど効果があるのだろう?

 というより、社会と関わりを持つことがはたして、無条件によい、とされるべきなのでしょうか?彼女らの逃避が社会からの「部分的」逃避にすぎず、総体的には社会と馴れ合えているのだとしたら?彼女らの「戦略」を見落としているのだとしたら?もしからしたら「社会」なるものに、全面的に同一化できてしまうこと、同一化を強制してしまうことの方が、実はより不気味なのではないか?とくに社会的責任がそのまま「自己責任」へとすり替えられてしまう現在においては?

 と、ノンケ男性であり、やおい/BL読者でもない私がこのようなことをWEB上に公開する、とはどのようなことなのか?

なぜなら我々を、不幸な、恵まれない、かわいそうな立場にしているのは権力であり、今の社会であります。その社会をつくっているのは他ならぬ「健全者」つまりあなた方一人一人なのです。あなた方は、我々をはじき出した学校で教育を受け、我々の姿のみられない職場で働き、我々の歩けない街を闊歩し、我々の利用できない乗り物、エスカレーターなど種々の器物を使いこなしているのです。このように考えれば、一人一人が、いや他の人はとにかくとしてあなた自身が差別者、抑圧者といえましょう 。
(「母よ!殺すな」、というより、「無能力批評 ――労働と生存のエチカ」からの孫引き

という突きつけに、畏怖した世代は考えるのだ。


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ユリイカ 2007年6月臨時増刊号 特集=腐女子マンガ大系 

[2007年12月/A5/269頁/¥1,238+62] 発=青土社

















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◆クィア・スタディーズ '96 ――クィア・ジェネレーションの誕生
[1996年7月/A5/222頁/¥2,000+100] 編=クィア・スタディーズ編集委員会 発行=七つ森書館


 

 








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◆密やかな教育 ――<やおい・ボーイズラブ>前史

2008年11月/四六判/366頁/¥2,600+130] 著=石田美紀 本文組版・装幀=洛北出版編集 装画=近藤聡乃 発行=洛北出版














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母よ!殺すな

2007年9月/四六判/432頁/¥2,500+125] 著=横塚晃一 発行=生活書院 解説=立岩真也












杉田.jpg◆無能力批評 ――労働と生存のエチカ
[2008年5月/四六判/351頁/¥2,200+110] 著=杉田俊介 発行=大月書店

『コミック MAVO』再入荷!

 『消える「新宿二丁目」』出版イベントに「薔薇族」編集長・伊藤文學氏がゲスト出演して頂けることになり、氏の「『薔薇族』の人びと 」その素顔と舞台裏 」を読む。「薔薇族」の中心的人物・藤田竜氏は「・・・同性愛者しか、同性愛者のこころをつかまえられないという考えは通用しないのであった。この点を伊藤文學という人から僕は教えられた」と伊藤氏を評している。

 私はいわゆる「ノンケ」である。私は伊藤文學氏のような人格者ではないけれども、やはり、自分なりに「同性愛者」について理解しよう、とはおこがましいけれども、とにかく、なにか共感し合える回路はあるのでは、とは考えてはおります。性に関する悩みは、尽きない。「ノンケ」であろうと「同性愛者」であろうと、それは同じ、ではないか?

 で、やや強引であるが、いまだに世間的には「正常でない」とされているいわゆる「オタク的性愛」の考察が、「ノンケ」である私なりの「同性愛」理解の手がかりになるのではと思い、手始めに『 網状言論F』などを読はじめていたわけです。

 すると、今日はなんと!竹熊健太郎氏が来舎。品切れ中だった『コミック MAVO VOL.1』を納品に来てくださったのです。『網状言論F改』には「オタク第一世代の自己分析」という竹熊氏の文章も載っているのだが、残念ながら未読、気が小さいのもあって、「おたくとセクシャリティ」について竹熊氏にご意見を伺うことは叶いませんでした。が、竹熊氏も30年近く前、二十歳ぐらいの頃にミニコミを納品していたこと、「今年は出版業界はたいへんなとしになるのでは」といったことをお話しを伺うことができました。

 なお、『消える「新宿二丁目」』にも「ゲイとオタク、それぞれの世代間闘争」という項目があります。この問題については著者・竜超氏に少しばかりお話を聞かせて頂きました。詳しい話をお聞きになりたい方は・・・3月13日(金)、ネイキッドロフトに、来るべし!

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◆『薔薇族』の人びと  ――その素顔と舞台裏
[2006年7月/四六H/317頁/¥2,000+100] 著=伊藤文學 発行=河出書房新社



 












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◆網状言論F改 ――ポストモダン・オタク・セクシュアリティ
[2003年1月/四六判/260頁/¥1,400+70] 著=永山薫/斎藤環/伊藤剛/竹熊健太郎/小谷真理  訳=関口 篤 編/著=東 浩紀 発行=青土社


イベントの詳細

先日お伝えしたイベントの詳細が決まりました。

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模索舎プレゼンツ

◎消えるか?「新宿二丁目」

日時:3月13日(金) 18:00開場 19:00開演
場所:ネイキッドロフト
新宿区百人町1-5-1百人町ビル1F TEL:03-3205-1556)
料金:1,000円+1ドリンク〜
※模索舎か当日会場で『消える「新宿二丁目」』お買上の方は入場料500円

世間仰天、関係者激怒(!?)の奇書『消える「新宿二丁目」』(彩流社)刊行記念!
 
元祖同性愛専門誌『薔薇族』副編集長でもある著者・竜超(りゅう・すすむ)がホンネで語る、ゲイの世界と文化の実相!!
多彩なゲストを迎えてのココだけトークは必見・必聴です。

世界に名だたるゲイタウン「新宿二丁目」は、果たしてホントに消えるのか!?

出  演:竜 超(りゅう・すすむ)
(著者、『薔薇族』副編集長)
ゲスト:伊藤文学(『薔薇族』編集長)
    ソルボンヌK子(漫画家:オコゲのカリスマ)
    櫻田宗久(写真家:元・モデル、俳優、歌手)

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消える「新宿二丁目」
――異端文化の花園の命脈を絶つのは誰だ?

著=竜超  発売 =彩流社   2500+税

表紙イラスト◎山川純一
本文イラスト◎ソルボンヌK子
ポートレート撮影◎櫻田宗久

★ 3月上旬刊行予定





イベントのお知らせ

『消える新宿二丁目』刊行イベント
場所:ネイキッドロフト
日時:3月13日(金) 18:00開場 19:00開演
※詳細は追ってお知らせします。


消える「新宿二丁目」
――異端文化の花園の命脈を絶つのは誰だ?

著=竜超  発売 =彩流社   2500+税

目次:
◆はじめに
◆第一章 ゲイバアとゲイタウン
(1)「新宿二丁目」以前の東京ゲイバア事情
(2)三島由紀夫が常連だった名門店
(3)そこはかつて遊女の街だった
(4)歌舞伎座と「新宿二丁目」の奇しき因縁
(5)「新宿二丁目」の第一号ゲイバアは?
(6)「新宿二丁目」年代記――1950〜1960年代・謎のヴェールの時代
(7)「新宿二丁目」年代記――1970年代・情報解禁の時代
(8)「新宿二丁目」年代記――1980年代・エイズパニックとネアカ新人類の時代
(9)「新宿二丁目」年代記――1990年代・商品化されたゲイと狂乱的ブームの時代
(10)「新宿二丁目」年代記――2000年代・コミュニティの時代
◆第二章 ゲイという人々
(1)「ゲイ」は「ホモ」より古い言葉
(2)ゲイ、ホモ、オカマ――どれが蔑称? なにが差別?
(3)ゲイに王道なんてものはあるのか
(4)元祖ゲイマガジン『薔薇族』の黄金時代
(5)元祖ゲイマガジン『薔薇族』の凋落と終焉
(6)ゲイ文化にもっとも冷淡なのはゲイ?
(7)6兆6000億円市場の消費エリートって誰だ?
(8)英国は日本のゲイにとっての鬼門?
(9)かつてゲイと同居していた血のつながらない双子
(10)ゲイとオタク、それぞれの世代間闘争
(11)差別はやめろ、と叫ぶ若ゲイ・若オタク
(12)ゲイとオタク、起きてほしくない負のシンクロ
◆第三章 なにが「新宿二丁目」を殺すのか
(1)「新宿二丁目」ランドマーク消失
(2)13番目の地下鉄が運んできたミニバブル
(3)錦の御旗をかかげる怪物たち
(4)浄化、という名の公的暴力
(5)無防備だった聖域に襲いくる、外部からの毒牙
(6)老朽化のすすむゲイバア入居物件
(7)回遊をやめたゲイバア族と、バアトークを嫌う新世代ゲイ
(8)コミュニティよりもコミュ!mixiの麻薬的魅力
◆第四章 「新宿二丁目」サバイバル・シミュレーション
(1)もうひとつの新宿魔窟
(2)ヤングリーダー待望論
(3)誰に対して、どう売っていくか、の見きわめ
(4)「新宿二丁目」が、新宿二丁目を離れる日
◆終章 「新宿二丁目」は消えるのか?
◆インタビュー(1)ゲイマガジン創始者がふりかえる、その隆盛と凋落――
日本初の同性愛専門誌『薔薇族』元編集長、伊藤文学さん
◆インタビュー(2)90年代ゲイブーム――当事者がみたメディアの内幕
ブーム期の最多露出のゲイ当事者、伊藤悟さん(すこたんソーシャルサービス代表)
◆あとがき

表紙イラスト◎山川純一
本文イラスト◎ソルボンヌK子
ポートレート撮影◎櫻田宗久

★ 2月下旬刊行予定



著者の竜超さんは季刊『薔薇族』副編集長をなさっています。


bara.jpg 季刊「薔薇族」(900)
模索舎にて発売中!!

「消える新宿二丁目」表紙イラストも山川純一です。







ハードスタッフ・ナイト

1月19日は
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ぐるり』プレゼンツ  南陀楼綾繁のトーク十番勝負 その9

「ハードスタッフ・ナイト〜先端的硬派雑誌の復活〜」

出演:小西昌幸(『ハードスタッフ』編集発行人、先鋭疾風社代表)

 南陀楼綾繁(ライター・編集者)
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というイベントに行ってきました。会場は千駄木の「古書ほうろう」さん。「不忍 ブックストリーMAP」(フリーペーパー 模索舎においてあります。「TOKYOなんとか」もよろしくね)を片手に、下町情緒溢れる古書店街を満喫しつつ、というのはウソで、本当はとっぷり日が暮れていたのです。
 小西さんは温和な公務員のような風貌で、というか、実際、徳島県北島町立図書館・創世ホール勤務の公務員だそうです。それもただの公務員ではなく、聞き手の南陀楼綾繁さんによると「日本三大公務員」なのだ。
 お話は、『ハードスタッフ12号』刊行が11号から15年が経ってしまい、心ならずも「林直人追悼号」になってしまったこと、町役場での組合活動、子育て、などなど多岐にわたりました。
 模索舎のお話も出ました。某書店では15年も発行していなかったせいか、若手のスタッフが「ハードスタッフ」のことを知らなかった、ということもあったそうです。すみません、正直私も12号が出るまで知りませんでした。
 会場には、木部与巴仁さん、林直人さんの中学からの同級生で、「非常階段」の美川俊治ほか多数来場しておりました。


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tokyoなんとか [フリーペーパー]


気流舎素人の乱、模索舎、poetry in the kitchen、Irregular Rhythm Asylumあかねの場所とスケジュールがわかります。上記の店ほかで配布中。



恥辱を味わうこと

 「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ」という有名な本がある。仏像は破壊され、そのことによって「恥辱」を受けたのではない。まず何らかの「恥辱」をうけ、そして、その「恥辱」によって破壊されたのでもない。まず「恥辱」を受け、その「恥辱」の大きさのあまり自ら崩れ落ちたのである。つまり、「恥辱」によって破壊されたのではなく、「恥辱」のために自ら崩れ落ちることを選んだのである。
 「恥辱」は外からやってくる。「恥辱」がある限り、「恥辱」を与える敵があるはずだ。世の中は「恥辱」に満ちている、というより「セカイ」に内在する限り、「セカイ」は「恥辱」そのものだ。「セカイ」は常にに「恥辱」をあたえ、いつもそこに「恥辱」はある、が敵は見えない。敵はどこだ?-誰でもよかった!
 どこかのブログで「格差社会と言われるなかで「蟹工船」が売れて「自動車絶望工場」が売れないのは、たぶん「蟹工船」は敵が誰であるか、ということを提示しているからではないか」というようなことが書かれていた。
 「誰でもよかった」-を回避するには冷静な分析が必要なのかもしれない。が、しかし、「恥辱」とはそもそも「認識」するのものではなく、「味あわされる」ものである、とすれば、味あわされた「恥辱」を「味わう」こと、そのことが正き認識へと至る道なのではないか?「恥辱」を味わうことなき認識は、自分を、世の中を客観的に認識している、ということではなく(「あなたとは違うんです!」)、それは認識の欠如であり、「恥辱」の否認であり、「恥辱」を与えるもの-敵-に対する無力感の現れにすぎない。
 例えば、阿Qには「恥辱」を受ける能力さえのこされていない。阿Qは常に「勝利」する(精神的勝利法!)、というか勝利を義務づけられている。阿Qには敵を敵と認識することすらできない。魯迅の言う「人を木偶にする」システムは「恥辱」を受ける能力すら奪う。「恥辱」を味わうことすらできないという「恥辱」を受けているのだ。
 敵を知ること-そのためには「恥辱」をくぐり抜けなければならない。「精神的勝利」に逃避せず「恥辱」を受け続けること-自ら崩れ落ちるほどの「恥辱」を味わい尽くすこと-それは御仏のみ可能な苦難の道かもしれない。

◆アフタニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れおちたのだ
[2001年11月/新書H/192頁/¥1,300+65] 著=モンセン・マフマルバフ 発=現代企画室
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◆ロスジェネ 創刊号
[2008年6月/A5/143頁/¥1,300+65] 特集=右と左は手を結べるか 発行=ロスジェネ(代表:浅尾大輔)
127184.jpg杉田俊介氏の「誰に赤木智弘をひっぱたけるのか」は「誰でもよかった」問題を考える上で重要な論考だと思います。












◆「近代の超克」とは何か
[2008年6月/四六判/277頁/¥2,200+110] 著=子安宣邦 発=青土社
竹内好の「賢人とバカとドレイ」論は面白い。










復刻版

復刻ものの紹介を。

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◆母よ!殺すな
[2007年9月/四六判/432頁/¥2,500+125] 
著=横塚晃一 発行=生活書院 解説=立岩真也
目次:脳性マヒとして生きる/脳性マヒ者の親子関係について/差別以前の何かがある/ある障害者運動の目指すもの/優生保護法と私/「さようならPC」上映討論会/亡き夫の介護ノートより/横塚晃一 未収録の書き物と発言/横塚晃一への追悼文/シナリオ さようならPC/青い芝の会・歴史/ほか


「母よ!殺すな」-この言葉は障害を持つわが子を殺してしまった母親への助命嘆願運動に反対する運動のスローガンであり、障害者の自立生活運動を象徴する言葉でもあった。立岩真也(解説)は「前世紀に出た重要な本の一冊」と評している。
 「世界を変えた一冊」-こういうのは出版社や書店の売り文句に過ぎない(立岩も「その後の運動の実際の大きな部分を導いて来たのは青い芝の会ではなかった」と記している)。何か-革命?-がすべてを劇的に世界を変える、変えうる、という夢や幻想に疲れ、疑問を持った人びとの少なからずが原一男監督のカメラの前にその「異形の」身体を晒す彼ら-生きる事がそのまま創造であり、社会変革であるような存在-に魅了されたのだろう。あるいはもう一度夢を見たがる人たちは「聖と賤」が反転するロマン主義的幻想を投影したのかも知れない。
 そうした「健全者」の思い入れや、「政治的引き回し」とは関係なく障害者は生きていかなければならない。「日本的土壌においては「転向」が「成熟」として正当化される」と言ったのは誰だったか忘れたが、一時の「若気のいたり」「青春の一コマ」として美化したり韜晦したりするのとは別の理屈で障害者は生きている。「障害者運動」は「原則的であるが現実的」(立岩)であらざるをえないのだ。


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◆遠くまでいくんだ・・・ ――全6号(1968〜1974)完全覆刻
[2007年11月/A5/604頁/¥4,700+235] 
編/著=府川充男 解説=糸圭秀美 発行=白順社
目次:<創刊号>:倫理的・あまりに倫理的な 日本的党の倫理性の崩壊=小野田襄二 更級日記の少女 日本浪漫派についての試論(一)=新木正人 ほか/<2号>:吉本隆明試論(一)=重尾隆四 ほか/<3号>:黒田寛一の戦いと敗北(一)戦後マルクス主義論1=小野田襄二 ほか/<4号>黒田寛一の戦いと敗北(二)=小野田襄二 ほか/<5号>政治における極北の論理 再出発への宣言=小野田襄二 文学観への回帰=甫代紘平 ほか/<6号>自己勃起をめざせ=大谷紘平 ほか/<7号>自由意志とは潜在意識の奴隷にすぎないのか=新木正人 錯誤する進化-その泥にまみれた人類==小野田襄二/解説=糸圭秀美


「党の倫理性」「日本浪漫派」「黒田寛一批判」「吉本隆明論」・・・そして何より「遠くまで行くんだ…」という雑誌名…。
「遠くまで」とはどこまでだろう?
旧国鉄のキャンペーン-「ディスカバー・ジャパン」がはじまったのは1970年である・・・。

漫読家・東方力丸 模索舎を読む!

模索舎7月のイベント-漫読家・東方力丸 模索舎を読む!

日時:2007年7月20日(金) 19:30〜
場所:模索舎にて

司会(?):ぺぺ長谷川さん

東方力丸さんが、摸索舎に持ち込まれたアジビラ機関誌、フリペ、ジン、漫画を読む。

高らかと謳う宣言なのか、
表にぶら下がるビラの一文なのか、
何を読むのかわからない。
模索舎を読む東方力丸。

東方力丸さん、この日は、池袋でイベントの後、模索舎に来るそうで、
超過密スケジュールが心配。

おそらく、お笑い芸人のようなイメージを持っている人にとっては、
いつもと違う東方力丸さんの読みが聞けるはず。

後半は、漫画も読みます。

☆☆☆☆

入場:無料
カンパ大歓迎!持ち込みOK。

レトロ

書評でも。

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●サザエさんの<昭和>
[2006年8月/A5/245頁/¥1,600+80] 編=鶴見俊輔 斎藤慎爾 発行=柏書房]

-「私は『サザエさん』に「戦後民主主義」の家庭像を見ない。むしろ戦前の理想的な中流家庭を・・・見るのである」(関川夏央)-
-「つまり、『サザエさん』は、わたしに「戦後民主主義」とは違う、「戦後民主主義」が死んでも残る「戦後」というものがあったと感じさせる」(加藤典洋)-
※いずれも本書から引用。

 「昭和レトロ」がブーム、というより、もうブームはとうに終わっていて、「犯罪発生率」「収入格差」等の統計資料を持ち出して、「旧き良き」時代よりも、「世紀末」をも軽々とまたいでしまった現代の方が実は「よりまし」な時代なんですね、追憶は甘美なものかな、という検証をしてみせる、「マッチポンプ」でいうところの「ポンプ」がプチブーム、というところではないでしょうか?
 さて、「サザエさん」である。『サザエさん』といえば、一昔前に謎本が流行った。多くの人に知られていると同時に、よくよく考えると「?」を内包している-この辺が謎本が出来るゆえんであろう。
この『サザエさん』に感じる「?」とは、『サザエさん』という物語がすでに「レトロ」化しているにも関わらず、あいもかわらず「庶民」の物語として流通している、ということに起因している、かのように思われてしまいがちであるが、果たしてそうだろうか? 
『サザエさん』の家庭は「庶民」ではなく「中流家庭」、もっといえば「プチブル」である。猪瀬直樹の分析によれば、関東大震災後、私鉄沿線が東京の西にへと広がり、郊外が成立する。そして『サザエさん』的な中流家庭が誕生する。
『サザエさん』の物語は、「われわれ庶民」の等身大の物語というより、憧れの「プチブル家庭」の物語として受容されていたのかも知れない。同時に、戦争によって破壊された「戦前の理想的な中流家庭」への郷愁を呼び起こす物語でもあった。

『サザエさん』とは、そもそも始めから「レトロ」な物語なのかもしれない。

族zokuさせてよ!?

 年齢を、やや、ばらされてしまいました。もう少し、ZARDなカンジでいたかったのですが、仕方ありません。災いを転じる意味で、年齢が、やや、ばれてしまったことを前提とした上で、書評でも。

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◆族の系譜学 ――ユース・サブカルチャーズの戦後史
[2007年6月/A5/402頁/¥2,600+130] 著=難波功士 発行=青弓社
太陽族からみゆき族、暴走族、アンノン族などの「族」の系譜をたどり、オタク、渋谷系、コギャル、裏原系へという「族から系への転換」を見定めて、若者文化の変容を照らし出す戦後史。(オビより)


 「裏原系」文化(「ショップ」(語尾上げで)「カリスマ」「コラボ」「リスペクト」「ストリート」etc・・・)とは、「ネットワーク・ソシアリティ」の「サブカルチュラル・キャピタル」化である、と著者は分析していて、やや、わかったような気になりました。 
 ミクシイなんかもそうだけど、しんどいよね。「リスペクト」して/「コラボ」して/いなきゃいけない人間関係(Yo-Yo)。ウツだよね?
 売上で悩む「模索舎」も、「裏原系(笑)」(あらゆるものに(笑)をつけて態度を保留してしまう振る舞いについてもこの本で分析されています)をビジネスモデルとして取り入れなければならないのでしょうかね?
 前時代的自意識の持ち主としてはイマイチしんどいのですが、本が売れないとオマンマ食い上げです。

誰か「コラボ」してくれよ!な!?

最後に、「コラボ」「リスペクト」に疲れたアナタにお勧めの一冊を。気合が入ること請け合いです。
“出発(でっぱつ)すっぞ!?”(by特攻《ぶっこみ》の拓)。

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◆REVIVAL版 写真集<暴走族> 止められるか俺たちを
[2005年3月/B5/142頁/¥2,000+100] 編=戸井十月 第三書館
「止められるか、俺たちを」が、十三年の歳月を経て復刻。 ──俺たちのこととやかく言う前に、テメエのこと、どうにかしたら?テメエのことゴマ化してる野郎の言うことなんか、まともに聞けるかよ!

・・・はないものと考える。

書評でも。
 
「地雷を踏む」という言い回しがある。皆が気づいているが、気づかない振りをしなければいけないことが存在してしまうのが大人の世界というもので、その存在していないことになっていることに触れてしまう行為を「地雷を踏む」といったりする。またそういう行為を繰り返すと「空気を読めない」人物と認定される。例えば太宰久雄などはしょっちゅう踏んでいる、というより彼が踏まないことには物語が転がっていかないのであるが、そういう意味では「空気を読」みまくり、ともいえるわけである。ここでは太宰久雄という無難な例を出したわけであるが、一○○○造を例にだすのは果たして「地雷を踏む」ことになってしまうのでしょうか?
 「なぜ『在日』は日本国籍をとらないのか?」「なぜ天皇主義者なのに親米でいられるのか?」「護憲派は第一条についてどう思っているのか?」etc・・・といった「問い」を投げかけることは、あるいは地雷を踏む行為であり、空気を読めないはしたない行為であるようでもあり、空気を読めない振りをしてあえて地雷を踏む「自爆テロ」である場合もありうる。時にはあからさまに相手をやり込めたり、差別するために「地雷」はあえて「踏まれ」ていく・・・。
 
 「棒とひもの重さはない」ものとして考えるように、とりあえず、純粋に「問い」そのものに答えてみようではないか、という提案は、時には体制側からの「毒饅頭」のようでもあり、またある時には弱者の抵抗の手段であるようにもみえる。実験科学的「真理」の検証手法を、そのまま「政治」的「真理」の検証に持ち込むことは、「科学的」であるようでいて、その実「疑似科学」なのである・・・。

・・・とか考えるのに疲れた方は「素直に」読んでみてはいかがでしょうか。

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◆右翼と左翼はどうちがう?
[2007年5月/B6/222頁/¥1,200+60] 
著=雨宮処凛 発行=河出書房新社
目次:右翼と左翼と私/右翼って何?/左翼って何?
/両方の活動家に話を聞こう〜木村三浩(一水会代表)、針谷
大輔(統一戦線義勇軍議長)、古澤俊一、太田昌国(編集者・
民族問題研究家)、足立正生(映画監督)、日野直近/矛盾だ
らけの世の中で

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◆日本国籍をとりますか?
2007年5月/B6/252頁/¥1,800+90]  
編=白井美友紀 発行=新幹社

目次:辛淑玉 姜尚中 梁石日 白眞勲 その他多数。

フランス大統領選

 石原都知事の再選、長崎市長の射殺、素人の乱・松本氏の出馬など、何かと話題を集めた統一地方選もいよいよ大詰めです。
 海の向こうのフランスでは大統領選が始まりました。初の女性大統領なるか?ロワイヤル候補、2005年「暴動」で名を馳せたサルコジ候補、おなじみルペン候補、などが激戦を繰り広げます。さて勝つのは誰だ?

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◆沸騰するフランス ――暴動・極右・学生デモ・ジダンの頭突き
[2006年10月/B6/291頁/¥1,700+85] 著=及川健二 発行=花伝社 (発売元=共栄書房)
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◆フランス暴動 ーー移民法とラップ・フランセ
[2006年2月/B6/193頁/¥1,200+60] 著=陣野俊史 発=河出書房新社


 夏の参院選まで待てない選挙マニアはフランスから目が離せない?  【ひ。】

 

ヒロヒトは空転する

◆映画『太陽』オフィシャルブック
[2006年8月/B6/279頁/¥1,980+99] 
著=アレクサンドル・ソクーロフ ほか 編=リンディホップ・
スタジオ 発行=太田出版

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「朕」という一人称は秦の始皇帝が使い始めたらしい。皇帝は一人しか居ない。だから皇帝の使う一人称も皇帝にしか許されない、という理屈である。一人にのみ許された一人称というものが、そもそも人称代名詞であるのだろうか?
 「朕」とは「兆しである」である。見せつけ、君臨はすれど、下々のものに見られてはいけない。だから、「有/無」「可視/不可視」のあいだに、「兆し」としてあらわれる。
 皇帝には名がない。名付ける、とは差異をうがつことである。名付け、分類し、統制する-「名付け」という行為は皇帝の権威重要な源泉ある。だから皇帝は名付けられることはない。ただ「お上」と漠然と、それこそ「兆し」として、「指示対象の欠落」によって間接的に指示するしかないのだ。(「無名戦士の墓」が共和制的ナショナリズムを支えるシステムであるとすれば、靖国神社とは戦死者に「名を与える」ことによって「国民」を生起させるシステムといえるかもしれない)。
 通俗的な「対話」モデルが「自己」と機能的には同一の「他者」を前提しているすれば、「唯一者」である「朕」は誰と話しができるのであろうか?皇帝は誰にも語りかけない。「朕」の独り言を御簾ごしに侍従が拝聴するだけだ。
 ただし、現実には「朕」は複数いる。皇太子時代に欧州外遊経験のある彼-ヒロヒトはその事を知っている。イッセー尾形扮するヒロヒトは、一度口をモゴモゴさせ、何かをつぶやく-その動作なしには発話しない。
 二つの発話行為-「朕」としての「独り言」と、対等な他者(欧州には幾人もの「朕」がいる)との「会話」-の裂け目を埋める動作-ヒロヒトのモゴモゴはその動作に他ならない。(彼の生殺与奪の権を握った「お堀端の『皇帝』」と英語で話すヒロヒトはモゴモゴしないのだ!)。

レンタル開始されたので、映画館で見た方も、見逃した方も、オフィシャルブック片手にご覧になってはいかがでしょうか?

「腐ったこの国を、買い叩く!!」

NHKドラマ「ハゲタカ」の主人公・鷲津はこう言い放つ。銀行員時代、貸し剥がしによって町工場主を自殺に追いやってしまった彼は、「ハゲタカ」的手法によって日本を変革しようとする。「格差社会」と人は言う。しかし、一見冷酷な経済合理性を貫徹すること以外に、再生の道はないのではないか-?

「破壊」と「再生」は閉塞状況下に見る「夢」である。

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◆世界の貧困をなくすための50の質問 ――途上国債務と私たち
[2006年5月/A5/254頁/¥2,000+100] 著=ダミアン・ミレー、エリック・トゥーサン 訳=大倉純子 発行=柘植書房新社

「国が買い叩かれる」とはどのようなことなのか?
「ハゲタカ」に「破壊」と「再生」を幻視しそうになったアナタにオススメです。

書評をもう一つ。

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◆コンテンツの思想 ――マンガ・アニメ・ライトノベル
[2007年3月/B6/204頁/¥1,200+60] 
著=東浩紀 共著=伊藤剛、神山健治、桜坂洋、新海誠、新城カズマ、夏目房之介、西島大介 発行=青土社


「珈琲でよろしかったですか」「一万円からお預かりします」ーいわゆる「コンビニ語」「ファミレス語」、併せて「ファミコン語」というヤツである。
なんだかよ分からないがとにかく丁寧に接客しようという意図だけは伝わってくる言い廻しで、ゆとり教育以降の若年層に敬語を習得させるよりも(おそらく)簡単であり、其れゆえに発明され、なおかつ流通したのであろう。
 遊廓の「ありんす」という「花魁言葉」は方言隠しのために発明されたそうです。田舎の小娘が半端に粋ぶるよりは、いっそ「ありんす」という「人工語」が遊廓という「虚栄の市」にふさわしい。「自分は〜あります」という軍隊-体育会用語も「徴兵制」がもたらした(やはり方言対策らしい)。新しい組織形態は新たな言語形態をも生み出してゆく。
 
書店である。店のじいさんは不機嫌である。客が本をレジに持っていく-。
「ありがとうございます」
-とは言わない(司馬遼太郎調)。
それどころか「チッ」と舌打ちをする。指先にたっぷり唾をつけて袋につめる。
「役者の理想は笠置衆である」(by渥美清)のと同じ意味で、これは書店員の極北であろう。勘当した息子の嫁が訪ねてきて(死んだ妻の面影を追ったりするのだ!)同居しようと持ちかけられたりとかいう、そんな年輪を経なければあの渋みが生まれない…ハズだ(大船調のドラマツルギーは乗り越え難い)。私はもちろん、「本屋の不機嫌なじいさん」には遠く及ばない。が、及ばないながらも、そういった「キャラクター」を「キャラ」として演じたい、「プレイ」してみたい。そういう欲望が、私にはある。
 「(言語も含めた)振る舞い」の習得がとりあえず「キャラ」を演じる快楽から始まり、「キャラ」の一人歩きが達人の境地である、としたら、「ファミコン語」における快楽とは何であるのか?
「プレイ」的快楽を欠いているまさにそれ故に自動的に主体が立ち現れてしまうのか(大量生産/大量消費社会)?
あるいは、「放置プレイ」的なもの-「心ない言葉」「無視」の集積こそが快楽なのだ-なのでしょうか?
 
「キャラ」を「プレイ」する欲望/快楽とはなんなのか?あるいは「キャラ」に「萌える」とはどのようなことなのか?
そんな事が気になる方にオススメです。

ミ○キーは本当は何の味だったのか?

書評などを。
 巷では「2007年問題」が取りざたされております。BSEや鳥インフルエンザ、雪印や不二家など食品会社の不祥事なども影響してか、田舎で農業なんかやりながらリアタイア後の第二の人生を過ごしたいな、と思っている方も沢山いらっしゃることでしょう。あんまりいないかもしれないけど、いることにしていただかないと話が進まないので、ここは曲げて、いる、ということで話を進めましょう。
 模索舎にも農業/食関係のコーナーはあって、現代社会における「食」の問題に焦点を当てた本が沢山あります。農業のハウ・ツーものもあります。ある、ていうか、仕入たからあるんじゃん!、というツッミをはさておき、現代の大量消費社会、なにが安全なのか、何を食べるべきなのか?ということを突き詰めて行くと、答え・その一 食べられるものがないので食べない、ということになってしまいます。そうはいかないので、答え・その2 できるだけ加工食品は食べない、ということになり、行き着く所は答え・その三 自分で作るということになるわけです。
 農作物であれば、農薬や化学肥料の有無、生産地、遺伝子組み換え等をとりあえずチェックすればいい、というか、よくないのかもしれませんが、いいということにして話を進めます、が、「肉」になると、牛や豚等肉になる動物が何を食べているのかまで気にしなければならない。農薬や保存料などは食物連鎖のより上位にあるものにより大きな問題となる。より安全に食べようとすると、肉は野菜以上によりリスクがありコストがかかる、という問題と、健康・美容問題があいまって、肉を食わない、という選択をしている方が増えているのではないか。肉食はどこか文明社会の腐敗と虚飾の象徴でもある。肉牛一頭育てる飼料で〜人分の命が救えるのだ、という第三世界問題もあいまって肉食にはどこか「罪」のにおいがする。さらに「日本人」の「仏教的」浄穢観がそれを補強している、と推測しているのだが如何に?
 「答え・その2 できるだけ加工食品は食べない」を選択した方が肉を食わなくなるのはわかる。しかし、「答え・その三 自分で作る」を選択した方、あるいは選択しようとしている方は肉も自分で作る、つまり家畜を育て自らの手で屠殺する、ということも視野に入れているのであろうか?当然入れている、方もいらっしゃるでしょうが、どうも、自分で作る、の範疇に農産物はあっても肉はあんまり考慮に入れられてないのではないか?「自分、肉が好きなので退職後は田舎で家畜を飼いたいです。自分で屠殺して食いたいです」という方はあまりいらっしゃらないのではないか?実際、「やさしい家畜の飼い方」とか「屠畜の楽しみ」とかゆうたぐいの本はあんまりないのですよ。まあ「第二の人生」派の場合は、年とると肉を食えなくなる、ということに過ぎないのかもしれませんが。

「世界屠畜紀行」(著=内澤旬子 発=解放出版社  2,310円(税込)は屠畜のハウ・ツーもの、ではなくて、アメリカ、イラン、エジプト、韓国、などなど、世界各地の「動物が肉になるまで」のイラスト付きルポです。「屠畜」という作業にスポットを当てつつ、各地域の文化にふれられるし、現代社会において、食とは、生命とは、について考えさせられます。

「血のしたたるステーキ」が富と成功のシンボルであった時代は終わり、チエーンの焼肉屋で輸入牛肉を化学調味料たっぷりなタレで食べてるヤツは「負け組」で、「勝ち組」は無農薬の有機野菜なんか食べているに違いないのだ、という予断と偏見に囚われ、素直に「肉が好きだ」と言えない貴方(おれのことか?)、は、ぜひ一読を! [ひ。]

雪降りませんね

 払暁-粛々と、しかし決然とした跫音が雪道を往く。やがて静寂は破られ、純白の雪は鮮血に染まる-。そう、白地に赤い「日の丸」は血と雪のオマージュである。やがて白と赤は混沌として櫻吹雪(櫻の木の下には屍骸が埋まっている)となって舞い散るのだ!
「雪」と「テロリズム」-美学と政治が交差する地点-に『忠臣蔵』と『2・26事件』はある--。
 中野重治は「君らの叛逆する心は/わかれの一瞬に/凍る」(「雨の降る品川駅」)とうたった。「雨の学徒陣」「涙の御堂筋パレード」の「雨-「雨」が叙情をあらわしているとすれば、「雪」は叙情の0℃-つまり流れる叙情の凝固であり、政治への結晶化なのだ!
 
しかし、まっったく雪ふりませんね(東京地方)。
ここのところアジア主義関連の本に(やや)力を入れております(最近取引を始めた版元「書肆心水」の本が主なのですかね)。
詳しくはリンク「新着入荷アイテム」をご覧になってください!------続きは『模索舎月報』で!  (ひ。)

諜報の認識論

書評などを。
『諜報機関にだまされるな!』(ちくま新書632)(著=野田敬生 税込価格¥777 筑摩書房)
 筆者は元公安調査庁でCIAに研修経験あり。
インテリジェンス/インフォーメーション、諜報/操作、パズル/ミステリー等多、諜報活動の基本概念について適宜解説しながら、イラク、アルカイダ、朝鮮半島情勢等の諜報活動を分析していく内容で、タイトルから暴露本的なものを期待した読者は肩すかしを食うかも。
 諜報活動に関するアポリアは非自然科学的分析全般にあてあてはまる。先に出てきたパズル/ミステリーを例にとろう。「パズル」とは「情報がそろえば解ける」問題であり、「ミステリー」とは「現状では予測不能」な問題である。諜報される側は諜報されていることを知れば予定の行動を変更するか、さらには裏を掻こうとするだろう。だから実際には諜報が扱う問題は多かれ少なかれ「ミステリー」なのである。そして、多くの問題が「ミステリー」であるが故に、諜報機関は調査される側に介入することによって、予想の正しさを「立証」してしまうのである。
 だから『諜報機関にだまされるな!』というタイトルには二重の意味が込められている。つまり、「諜報機関のだまそうとして意図的に流すニセの情報」にだまされるな!といういことと、「諜報機関は実は素で誤っていることがある」がゆえにだまされるな!ということ、である。 (ひ。)

A:5 5 5 5 5 
B:2 4 6 20 30

という二つの数字の並びがあったとして、どちらにより秩序があると考えられるでしょうか?
 一つの考え方として、「Aは同一の数字が並んでおり、Bはバラバラである。よってAにより秩序がある」というものがあります。たしかに、全て同じである、ということは何か安心感を与えてくれますね。
同一性が秩序を感じさせるものとしてユニフォームがあります。団体スポーツ、学校の制服、軍隊、警察等、同じ格好をすることは秩序の象徴であります。
 見方を変えて、もしAの並びが競馬や競輪のオッズだとしたらどうでしょうか(テラセンはないものとする)?つまり、以下のようになります。

A:単勝
車番 1 2  3 4  5
---------------------------
倍  5 5  5 5  5 

B:単勝
車番 1 2  3 4  5
-------------------------
倍   2 4  6 20 30

Aは、どの馬ないし選手が勝っても全て同じ5倍の配当となっていて、すべての馬ないし選手の力量が同等であり何が勝ってもおかしくない、という投票者の予想あらわしているわけです。このようなレースは“予想が難しい”レースといわれます。逆にBのオッズは本命-対抗がはっきりしており、Aの場合よりも予想がたてやすい、つまり、「秩序がある」ということになります。「全てが同一」ということは同時に「全て区別がつかない=無秩序」ということでもあるのです。
 さきに「同一性=秩序」の例としてにユニフォームを挙げましたが、よく考えればユニフォームは実は同一ではないのです。どういうことかというと、例えば野球のユニフォームであれば背番号が違うのです。背番号まで同じではいけませんね。(ゴレンジャーの中に赤レンジャーが二人いて怪人に「しっかりせえ!」と説教されるダウンタウンのコントを思い出します)。ユニフォームの同一性は敵と味方を区別するためにあるわけで、まず敵と味方を区別し、そのあとで味方を区別するために背番号を付けるわけです。
 軍隊であれば、軍服は味方であることの標ということになります。しかし、軍服による敵-味方の識別には、敵が同じ軍服を着て味方に紛れ込む危機-つまりスパイが紛れ込む危機が常につきまとうのです。
だから、軍隊や警察は入隊時に「身分照会」を厳重にやるのです。外からは同じように見えても、階級や部署等で厳密に個別化されているわけです。ここでもまず敵と味方を区別し、そのあとで味方を区別するわけですね。
 スパイは、敵の中にあって敵に味方だと思わせると同時に、敵に気づかれずに味方にだけ味方であると識別されなければなりません。そのためには敵には気づかれず味方にだけわかるような標が必要なのですが、それはまた敵に気づかれる原因にもなるわけです。だからスパイの極限とは敵そのものになる、ということです。忍者漫画にでてくる“草”ですね。
 大衆社会における「群衆」はその同一性ゆえに無秩序への「恐怖」を呼び起こします。いったい、「恐怖」とは誰の、誰に対する「恐怖」なのでしょうか?それは為政者が「群衆」に覚える「恐怖」であり、同時に「群衆」が「群衆」自身に対して覚える「恐怖」です。為政者が「群衆」に恐怖を覚えるとき、「群衆」を「身分照会」しようと躍起になります。「群衆」が「群衆」自身に恐怖を覚えるときどうなるのでしょうか?「群衆」は「より大きな力による秩序」を欲望する--とすれば、もう一つの恐怖、つまり、「為政者の力が強大になることに対する群衆の恐怖」を同時に召喚してしまうのです。いやそれ以上に重要なのは、「『群衆』は『より大きな力による秩序』を欲望する結果、より為政者を恐るべきものとしてしまう」、と「群衆」自身が「群衆」想像してしまうことによって、群衆自身が群衆それ自身への恐怖と為政者への恐怖へと分裂してしまうこと--なのです。
 さきのレースのたとえで言うと、ギャンブラーはAのような予想の難しいレースが続くとウンザリし、Bのような本命-対抗がはっきりしたレースを望みます。反面、Bのようなレースばかり続きかつ本命が勝ってばかりいると、「なんっにもねぇっ!」とこれまた怒り出します。つまり、強力な本命による秩序と予想可能性と大穴への夢想とのあいだでつねに引き裂かれているのです。

しつこいようですが、
2007年1月13日(土曜日) 18:00〜 模索舎にて
『カネと暴力の系譜学』(発=河出書房新社) 刊行記念
萱野稔人トークイベント
をやります。
 カネと暴力、国家とは何か、自然状態、社会契約論、友-敵関係、規律-訓練、非行性と合法性、私のコト・・・好きですか?等々、萱野先生に何でも聞いてください!
(ひ。)
                                                                                                                               

声に出す。

 「声に出して読みたい日本語」という本があるそうで、結構売れているそうな。中身は知らない。正確には知らなかった。この駄文を書く前に魔が差してネットで調べてしまった。どんな内容かまったく知らないままに「多分こういった本であろう」というような予想を書いて、おしまい、にするつもりだったのですが、知ってしまった以上は仕方が無い。
 多分この本は、「路上観察学」とかそういう系譜にあるもので、「ヅラの取扱説明書」であるとか、「痔ろう薬の使用上の注意」とか、とにかくもともと「声に出して」「読む」ために出来ていない「日本語」をわざわざ「声に出したら案外面白いかもよ!?」というようなものではないか、とりあえず、当たらぬ八卦で、予想を立ててみたのであった。
 というのはうそ、で、予想通り、「寿限無」だとか「白波五人男」だとか、そもそも「声に出して」読むために出来ている「日本語」が取り上げられていて、「なんだ、それゃ声に出して楽しいのは当たり前でょ?」とまあ、ケチをつけながらも危うく納得しそうになる。
 が、小考する、これ大事。そもそもさっきあげたような「古典芸能」とは「日本語」を「読んで」いるのでしょうか?「声に出して」「読みたい」「日本語」なのだから、ただ声に出すだけではダメで、「読ま」ななければならない、ハズだ。
 よく知らないが、古典芸能は書き残されていたとしても、それはあくまで副次的なものであって、基本「口承」のハズであろう。そもそも「話す」「歌う」「謡う」など、何らかの形で「日本語を」「声に出す」ことと、「声に出して『読む』」ことのちがいが判然としないまま、 「書かれて」いないものをわざわざ「書き」、そしてそれをまたわざわざ「読ん」だりして楽しもう、という事なのでしょうか?読めばわかる?そのうち、読む、かも。
 文学史で「言文一致運動」というのがある。よくは知らない。が、多分「話し言葉で文章を書く」というようなことだったような気がする。ここではそういう事にしよう。
 日常言語と乖離した「書き言葉」というのは例えば、法律の用語であるとか、より厳密性や一意性が重視されるもので、究極的には数式であろう。「大文字エフカッコエックスカッコ閉じイコール積分記号小文字エフカッコエックスカッコ閉じディーエックスプラスシー」とか「声に出して読ん」でもちぃっともワカラナイ。だからこういう「文章語」を「話し言葉で書いてみよう」というのが「言文一致運動」ではないはずだ。
 自分はあいにく古典芸能に詳しくないのでいい例があげられないのですが、例えば相撲の行司とか、あるいは歌舞伎とか、まあ、あんな風に日常でも話している奴はめったにいない。いたら加藤茶のオハコ芸そのものでになってしまうではないか?
 いや、いる、そう考えればやはり「いる」。つまり、チビッコたちは加藤茶のモノマネをするではないか?モノマネで戯れるのは「日常的」なことではないか!?
 自分はあいにく文学に詳しくないので「言文一致運動」のいい例文があげられないのですが、たとえば

「ジュンイチロウさん、私ね、こう思うの…」
マキコは言った―。
 「世の中には三種類の人間しかいなくて、それは『家族』と『敵』と、それと・・・『使用人』なのよ・・・」

とい文章があるとして、恐らくこれは「話し言葉」で「書かれ」ている、とみなしても良いかもしれない。こんな風に日常でも話している奴はめったにいない。が、舞台の上だとかスクリーンの中であればそう違和感は無い?ハズです。つまり、一見「話し言葉」で書かれているようで、その実、日常生活でその通りにしゃべったらヘンテコなことになってしまうが、舞台で、あるいは映画で「読まれ」たり「演じ」られたりたならそれほど違和感は無く、まあ「寒いよね」「イタいよね」といわれるぐらいで許してもらえる、そんな文章が「言文一致」的なのでしょうか?(続く、かも) 【ひ。】

「test test testって・・・」

「test testって・・・」に続くフレーズです。
1、もうウンッッザリなの!(賀来千香子風)
2、そんなにtestが好きなら、testと結婚すればいいじゃん!(酒井若菜調)
3、つうかさぁ、もうtestにこだわらなくてもインジャネェかな?(キムタク節)
あなたなら、どれ?

というのはおいといて、書評でも。
去年出た本ですが、
「在日コリアンの歴史」 明石書店。
教科書の体裁ですが,コラムの芸能、スポーツなどのエピソードが面白い。
 芸能人にとって「在日」であることはスキャンダルであり、お茶の間で親から子へと少しばかり声を潜めて伝承される都市伝説であった。、日本人にとっては畏怖と蔑視のアンビバレンツ(石原都知事の「三国人」への根深いトラウマを見よ!)として、「在日」同胞にとっては憧憬と秘密の共有による仲間意識と若干の嫉妬として機能していた,はずである。
 ある「在日」同胞の集まりでのこと、「彼も在日,誰それも同胞」と果てしなく続く大人たちのおしゃべりにいささかウンザリした「在日」青年がこう言い放ったそうな。
―ジョン・レノンも「在日」なんでしょー
そこでソニンである。正直時代がここまでやってきたことに驚嘆せざるをえない。
「在日」の少女がソニンというバリバリの朝鮮名でアイドルとしてデビューしたのだから。(根本的にはコロニアルでしかないアグネス・チャンからBOAにまでつらなる「アジア系アイドル」とは明らかに一線を画している)。
好きなエピソードを一つ。夏の甲子園。沖縄の高校が初優勝したときのこと。
レポーターがアルプススタンドのじいさんにマイクを向ける。
レポーター:これで沖縄の戦後が終わりますね?
じいさん:そんなんで終わるわけねえだろ
と、大略このようなやりとりがあった。
少なくとも芸能・音楽のジャンルでは沖縄は一つの「ブランド」として確立されている。
国籍のことはしばしおく。「日系ブラジル人」と同じ意味で「韓国系日本人」「朝鮮系日本人」として「在日」が存在し,かつ本国とは切り離されたものとして、独自の「ブランド」が確立した時,100年来の「日帝」の歴史は終わるのでしょうかね?
―そんなんで終わるわけねえだろー
【ひ。】

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