◆映画『太陽』オフィシャルブック
[2006年8月/B6/279頁/¥1,980+99]
著=アレクサンドル・ソクーロフ ほか 編=リンディホップ・
スタジオ 発行=太田出版

「朕」という一人称は秦の始皇帝が使い始めたらしい。皇帝は一人しか居ない。だから皇帝の使う一人称も皇帝にしか許されない、という理屈である。一人にのみ許された一人称というものが、そもそも人称代名詞であるのだろうか?
「朕」とは「兆しである」である。見せつけ、君臨はすれど、下々のものに見られてはいけない。だから、「有/無」「可視/不可視」のあいだに、「兆し」としてあらわれる。
皇帝には名がない。名付ける、とは差異をうがつことである。名付け、分類し、統制する-「名付け」という行為は皇帝の権威重要な源泉ある。だから皇帝は名付けられることはない。ただ「お上」と漠然と、それこそ「兆し」として、「指示対象の欠落」によって間接的に指示するしかないのだ。(「無名戦士の墓」が共和制的ナショナリズムを支えるシステムであるとすれば、靖国神社とは戦死者に「名を与える」ことによって「国民」を生起させるシステムといえるかもしれない)。
通俗的な「対話」モデルが「自己」と機能的には同一の「他者」を前提しているすれば、「唯一者」である「朕」は誰と話しができるのであろうか?皇帝は誰にも語りかけない。「朕」の独り言を御簾ごしに侍従が拝聴するだけだ。
ただし、現実には「朕」は複数いる。皇太子時代に欧州外遊経験のある彼-ヒロヒトはその事を知っている。イッセー尾形扮するヒロヒトは、一度口をモゴモゴさせ、何かをつぶやく-その動作なしには発話しない。
二つの発話行為-「朕」としての「独り言」と、対等な他者(欧州には幾人もの「朕」がいる)との「会話」-の裂け目を埋める動作-ヒロヒトのモゴモゴはその動作に他ならない。(彼の生殺与奪の権を握った「お堀端の『皇帝』」と英語で話すヒロヒトはモゴモゴしないのだ!)。
レンタル開始されたので、映画館で見た方も、見逃した方も、オフィシャルブック片手にご覧になってはいかがでしょうか?
