「声に出して読みたい日本語」という本があるそうで、結構売れているそうな。中身は知らない。正確には知らなかった。この駄文を書く前に魔が差してネットで調べてしまった。どんな内容かまったく知らないままに「多分こういった本であろう」というような予想を書いて、おしまい、にするつもりだったのですが、知ってしまった以上は仕方が無い。
多分この本は、「路上観察学」とかそういう系譜にあるもので、「ヅラの取扱説明書」であるとか、「痔ろう薬の使用上の注意」とか、とにかくもともと「声に出して」「読む」ために出来ていない「日本語」をわざわざ「声に出したら案外面白いかもよ!?」というようなものではないか、とりあえず、当たらぬ八卦で、予想を立ててみたのであった。
というのはうそ、で、予想通り、「寿限無」だとか「白波五人男」だとか、そもそも「声に出して」読むために出来ている「日本語」が取り上げられていて、「なんだ、それゃ声に出して楽しいのは当たり前でょ?」とまあ、ケチをつけながらも危うく納得しそうになる。
が、小考する、これ大事。そもそもさっきあげたような「古典芸能」とは「日本語」を「読んで」いるのでしょうか?「声に出して」「読みたい」「日本語」なのだから、ただ声に出すだけではダメで、「読ま」ななければならない、ハズだ。
よく知らないが、古典芸能は書き残されていたとしても、それはあくまで副次的なものであって、基本「口承」のハズであろう。そもそも「話す」「歌う」「謡う」など、何らかの形で「日本語を」「声に出す」ことと、「声に出して『読む』」ことのちがいが判然としないまま、 「書かれて」いないものをわざわざ「書き」、そしてそれをまたわざわざ「読ん」だりして楽しもう、という事なのでしょうか?読めばわかる?そのうち、読む、かも。
文学史で「言文一致運動」というのがある。よくは知らない。が、多分「話し言葉で文章を書く」というようなことだったような気がする。ここではそういう事にしよう。
日常言語と乖離した「書き言葉」というのは例えば、法律の用語であるとか、より厳密性や一意性が重視されるもので、究極的には数式であろう。「大文字エフカッコエックスカッコ閉じイコール積分記号小文字エフカッコエックスカッコ閉じディーエックスプラスシー」とか「声に出して読ん」でもちぃっともワカラナイ。だからこういう「文章語」を「話し言葉で書いてみよう」というのが「言文一致運動」ではないはずだ。
自分はあいにく古典芸能に詳しくないのでいい例があげられないのですが、例えば相撲の行司とか、あるいは歌舞伎とか、まあ、あんな風に日常でも話している奴はめったにいない。いたら加藤茶のオハコ芸そのものでになってしまうではないか?
いや、いる、そう考えればやはり「いる」。つまり、チビッコたちは加藤茶のモノマネをするではないか?モノマネで戯れるのは「日常的」なことではないか!?
自分はあいにく文学に詳しくないので「言文一致運動」のいい例文があげられないのですが、たとえば
「ジュンイチロウさん、私ね、こう思うの…」
マキコは言った―。
「世の中には三種類の人間しかいなくて、それは『家族』と『敵』と、それと・・・『使用人』なのよ・・・」
とい文章があるとして、恐らくこれは「話し言葉」で「書かれ」ている、とみなしても良いかもしれない。こんな風に日常でも話している奴はめったにいない。が、舞台の上だとかスクリーンの中であればそう違和感は無い?ハズです。つまり、一見「話し言葉」で書かれているようで、その実、日常生活でその通りにしゃべったらヘンテコなことになってしまうが、舞台で、あるいは映画で「読まれ」たり「演じ」られたりたならそれほど違和感は無く、まあ「寒いよね」「イタいよね」といわれるぐらいで許してもらえる、そんな文章が「言文一致」的なのでしょうか?(続く、かも) 【ひ。】
